北欧の作曲家たちは、山と海、森と雪に囲まれた風土に根ざした音楽をたくさん残しました。それらは幾分暗くメランコリックなムードを湛えたものが多いようです。一方で北国の人々は太陽に憧れ、陽光溢れる南国の生活の中から美しい曲も生まれました。自然を愛する作曲家たちが残した、抒情的な曲が多いのも北欧の魅力の一つです。
シベリウス(Jean Sibelius 1865-1957、フィンランド):交響曲第5番変ホ長調Op82(1915年オリジナル版、1919年改訂版)オスモ・ヴァンスカ指揮ラハティ交響楽団 BIS CD-863 1995年(オリジナル版)、1997年(改訂版)録音 |
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| 交響曲第5番変ホ長調Op82 1915年オリジナル版 作曲1914-1915年 初演1915年12月8日:ヘルシンキ(作曲者指揮) 第1楽章Tempo tranquillo assai- 8'22/ 第2楽章Allegro commodo5'10/ 第3楽章Andante mosso 7'37/ 第4楽章Allegro commodo - Largamente molto 13'46 1919年最終稿 改訂1919年秋 改訂初演1919年11月24日:ヘルシンキ(作曲者指揮) 第1楽章Tempo molto moderato - Allegro moderato 13'23/ 第2楽章Andante mosso, quasi allegretto 8'45/ 第3楽章Allegro molto - Largamente assai 9'05 |
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| 今年の音楽体験を振り返ったとき、やはりヴァンスカ&ラハティ響の来日公演の感動は忘れることが出来ない。今年最後の「今週のディスク」は、来日公演の目玉の一つだった日本初演のオリジナル版と、最終日の感動を呼び起こしてくれる改訂版を収めたシベリウスの交響曲第5番で締めたい。 |
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| オリジナル版と改訂版の違いは、オリジナル版が4楽章であるのに対し改訂版は3楽章であること、特徴的な曲の冒頭とコーダ等々挙げだしたらきりがない。ただ、ごく概括的に言えば、改訂版はオリジナル版の冗長と思われるところを思い切って切りつめ、音響的に華やかさを加えたものといえるかもしれない。トータルでは改訂版に軍配が上がるが、派手さのないオリジナル版の響きは、交響曲第4番とのつながりを強く感じられるという意見も多いようだ。たとえば、第1楽章の幽玄とした響きは、第4番を支配している黄泉の世界にわずかに日が射し込んだ光景のようだ。また、シベリウスの交響曲創作全体の流れを見る中では、過渡的とも思える第5交響曲のオリジナル版の持つ意義は小さくないだろう。 |
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| ところで、最近オリジナル版の終楽章について妙なことを感じた。シベリウスはこの交響曲を作曲している1915年4月に、「16羽の白鳥が彼の上を旋回し、やがて陽光の照るもやの中を、銀のリボンのように消えていったことを、『生涯のもっとも大きな感銘の1つ』」と書き、「その鳴き声はサリュソフォーン(金属製のダブルリード楽器)の音、あるいはトランペットに近い」と記したという(音楽之友社「北欧の巨匠」より)。オリジナル版の終楽章には、ホルンなどによる2分音符での「白鳥の主題」の合間、このCDでは2'34に、初めて聴くとどきっとするようなトランペットの不協和音が表れる。また、弦のピチカートが「白鳥の主題」を奏する中で6'16から何度もオーボエで繰り返される不協和な音型も聴かれる。曲の中でいささか唐突なこれらのフレーズは、シベリウスの霊感に表れた白鳥の声ではないだろうか? これらのフレーズはどちらも遠くから聞こえてくるように演奏されている。これはまさに白鳥が飛び去る情景をイメージしているのではないだろうか? 文献類ではこのような解説は目にしたことはないが、私個人としてはほぼ確信に近い。一方で、一度は霊感を与えてくれた白鳥の姿であっても、交響曲を研ぎ澄ますためにはあえて削除する姿勢には、シベリウスの厳しい批判精神を見る思いもする。 |
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| 来日公演の後であらためてこのCDを聴いてみると、「ゼロから音を積み重ね」、ピアニッシモを大切にするヴァンスカの音作りに気付かされる。例えば、改訂版の第1楽章6'10あたりからの繊細なピアニッシモなど、私の安いステレオではじっくり味わうことが出来ないのだが、実演に接した後だと実に丁寧に弾き込んだピアニッシモであることが確認できた。ヴァンスカのシベリウスはフォルテッシモとピアニッシモの大きな対比を見せながら、時に大胆にテンポを変化させながら、繊細にしてダイナミックな演奏を展開している。 |
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| この演奏では、第1楽章冒頭の飾り気のないホルン、同じ楽章の中間部での弦の細かなさざめきなど好きなところが多いが、とりわけ気に入っているのが第1楽章コーダでの野性的な金管の咆哮と、終楽章で2度目に「白鳥の主題」が表れてからコーダへ向けての雄大な響きだ。その前にわずかにテンポを落とすあたりも心憎い。また、この演奏は楽譜通りコーダの6つの和音のうち1打目ではティンパニの復前打音を、5、6打目では同じく単前打音を明確に入れている。もっとも、薄れかかっている実演の印象では、5、6打目はもっと鋭く叩いていたような気がする。唯一気になるのは第1楽章スケルツォでの急激なテンポのアップで、少々興奮気味の実演ではあまり気にならなかったが、冷めた耳でCDを聴くとやはり速すぎる気がする。 とはいえ、来日公演の感動を呼び起こしてくれるこのディスクは、当分の間私の愛聴盤の一つになるだろう。 |
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| 【セカンドチョイス】 オリジナル版はヴァンスカ&ラハティの専売特許なのでセカンドチョイスの余地はないが、第5番は比較的録音は多い。私は第5番の演奏だけでいえばベルグルンド&ヘルシンキ・フィル(EMI)が一番気に入っている。現在国内盤がミッドプライスで出ているので、格好の1枚といえる。 |
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| (99/12/26) | ||
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| 管弦楽のためのセレナード ヘ長調Op31 作曲1913年、改訂1919年、初演1914年1月:ストックホルム(作曲者指揮王立歌劇場管弦楽団)、改訂初演1920年3月3日:イェテボリ(作曲者指揮イェテボリ交響楽団) 第1楽章前奏曲 6'24/第2楽章カンツォネッタ4'43/第3楽章スケルツォ7'30/第4楽章ノットゥルノ8'27/第5楽章フィナーレ8'50 付随音楽「チトラ」組曲 作曲1921年、初演1921年3月29日:イェテボリ 第1楽章Andante sostenuto 3'11/第2楽章Tempo moderato.Allegretto mosso,sempre dolcissimo 4'46/第3楽章Allegro appassionato 5'35 スウェーデン狂詩曲「冬至祭」Op24 作曲1907年、初演1908年4月15日:イェテボリ(作曲者指揮イェテボリ交響楽団) 14'22 |
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| 思うに、管弦楽のためのセレナードこそステーンハンマルの最高傑作ではないだろうか。ステーンハンマルの音楽の特徴は何かと問われれば、私は気品の高さとすっきりしたロマンチシズムだと答えている。そんなステーンハンマルの良さがすべて凝縮された作品が、管弦楽のためのセレナードだと思う。曲は1907年滞在中のフィレンツェで着想され、翌年作曲が始められたが、大部分は帰国後の1912〜13年に書き上げられた。ステーンハンマルはフィレンツェからの手紙の中で「このような美しく、こわれやすい南についての詩を北国の人間にしかできないようなやり方で私は書きたい」とこの曲について書き記している。 |
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| この曲は1914年作曲者の指揮でストックホルムで初演された後、1919年に改訂され、20年3月改訂版による初演がイェテボリで、これも作曲者自身の指揮で行われた(初演の6楽章版はヤルヴィ指揮イェテボリ交響楽団のCDがある)。この作品は今日までステーンハンマルの代表作として評価されている。この曲から思い浮かべるのは、北欧の春の柔らかい日差しだ。淡い光が心を和ませ、自然が息づき、優しく楽しげに歌う、人々の心はわきたち、それでもなお夏を待ちわびている、そんな夢のような風景が脳裏をよぎる。太陽に憧れる北国の人々の心情が伝わってくる、まさにステーンハンマルが意図したとおりの曲だと思う。ステーンハンマルのセレナードは彼の気品を音にしたような曲といって良いだろう。 |
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| 第1楽章前奏曲は冒頭から明るく繊細で、ウィットを感じさせる歌に溢れている。とりわけ弦楽の響きがシルクの肌触りを思わせる。第2楽章カンツォネッタは優しく、少し憂いを帯びたワルツのリズム。途中のヴァイオリン・ソロがひときわ魅力的で、美しいメロディーを奏でる。第3楽章スケルツォはわずかながら烈しさも感じることがある。続けて演奏される第4楽章ノットゥルノは一転して、魔法のような美しい歌。第5楽章フィナーレは陽気な歌と静かな歌とが交互に表れ、最後は静かに終わる。このあたりも大変奥ゆかしい。 |
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| 演奏は是非ともサロネンの指揮をお薦めしたい。このセレナードは重い響きはご免蒙りたいものだが、サロネン指揮するスウェーデン放送交響楽団は、繊細この上ない響きに溢れ、この曲のもつ優しさを120%引き出している。 このCDには付随音楽「チトラ」とスウェーデン狂詩曲「冬至祭」がカップリングされている。「チトラ」はインドの作家タゴールの劇の付随音楽。タゴールは1913年にノーベル文学賞を受賞したが、これをきっかけにスウェーデンではちょっとしたタゴール・ブームが起こったらしい。そのような最中に、タゴールの劇のための音楽を委嘱されて書かれた作品がこれだ。 「冬至祭」はアルヴェーンの「夏至の徹夜祭」の対になるような曲で、ステーンハンマルにしては珍しく民謡の素材を前面に出しており、後半には合唱もつくという豪華な曲。サロネンの演奏はヤルヴィと比べてテンポをやや遅めにして、縦ノリのリズムを明確に刻んでいる。また民俗曲の旋律を演奏するヴァイオリン・ソロがヤルヴィ盤よりもずっとフィドルの奏法をうまく模しており、さらに弦楽合奏全体からもフィドルの音色を巧みに引き出しているため、土俗的な味わいが全編に色濃く流れている。このため、ヤルヴィ盤よりも「スウェーデン狂詩曲」であることを強く感じさせる、大変魅力的な演奏となっている。 3曲が全て曲、演奏とも最上であり、ステーンハンマルの叙情を満喫できるお買い得な1枚となっている。 |
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| 【セカンドチョイス】 CDは現在6種類あり、比較的当たりはずれは少ないと思う。その中では、A.デイヴィス&ストックホルム・フィル(Finlandia)がもっとも入手しやすいと思われる。どちらかというと厚みのある演奏で、サロネンの繊細さには及ばないがこの曲の良さを伝えるには不足はない。 |
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(98/08/09、 99.04/03改訂) |
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ラウタヴァーラ(Einojuhani Rautavaara 1928- 、フィンランド):ピアノ協奏曲第3番「夢の贈り物」、「秋の庭」ヴラディーミル・アシュケナージ(p、指揮)/ヘルシンキ・フィル Ondine ODE-950-2 1999年8月録音 |
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| ピアノ協奏曲第3番「夢の贈り物」 作曲 1998年 第1楽章 Tranquillo 9'58/ 第2楽章 Adagio assai 11'51/ 第3楽章 Energic 5'58 「秋の庭」 作曲1999年 第1楽章 Poetico 26'26/ 第2楽章 Tranquillo 5'10/ 第3楽章 Giocoso e leggiero 10'32 |
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| ラウタヴァーラのロマン的な音楽は、天使とともに彼岸に到達してしまったのではないか? これがラウタヴァーラの最新作、特に「秋の庭」を聴いての漠然とした感想だった。80年代から90年代にかけてラウタヴァーラのロマン的な傾向はますます強まり、近年の作は一躍脚光を浴びた交響曲第7番「光の天使」にしても、その後の「最後の処女地にて」、あるいは室内楽の弦楽五重奏曲「未踏の楽園にて」など、どれをとっても芳醇で夢心地のようなゆったりした響きにあふれている。ただ、その中にあってところどころこれらの曲が20世紀末の作品であることが垣間見え、一般的な意味での現代性も顔を覗かせる。しかし、1999年作曲の「秋の庭」にはあからさまな同時代性はより薄くなり、全編を通じて「甘い不協和音」が横溢している。しかも、近年のラウタヴァーラの曲は、ロマン的といっても基本的にやや暗い中間色で彩られていたが、この新作は同じく中間色とはいいながら、色調はより明るい。これもまたこの曲の天国的な性格をより強めているようだ。ひたすら甘美な世界に誘うその音楽は、まさに「彼岸の音楽」というにふさわしいのではないだろうか。表向きは「天使」をタイトルにはしていないものの、私にはこの曲はより一層「天使」の世界に同化しているとしか思えない。ただ、ここまで来ると次はどの方向を目指すのか、従来からの路線にまだ突き進む余地はあるのか、など無学の私は妙なことを考えてしまう。 |
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| ピアノ協奏曲第3番「夢の贈り物」はアシュケナージとヘルシンキ・フィルのために書かれた曲で、アシュケナージのピアノの弾き振りへのこだわりに応えた曲になっているという。確かに急激なテンポの変化は少ない(もっともこれは近年のラウタヴァーラの曲に総じていえる性格でもあるが)。一部にはピアノの打楽器的な双方も見られるが、ほとんどは流麗でたゆたうようなピアノの書法で一貫しており、極めて詩的な世界が現出している。左手で旋律、右手で流麗な美しいアルペジオという奏法がしばしば用いられるが、これがオケの繊細な和音の中で表れると万華鏡のような雰囲気を醸し出す。しかし、作曲年代が異なるとはいえ、現代的な手法による第1番、ほの暗い第2番との落差には驚きを禁じ得ない。第2番には現在のラウタヴァーラにつながるものを見いだすことはできるが、第2番が作曲された1989年から今日まで、一層ラウタヴァーラのロマン的な傾向が強まっていることを実感させられる。 曲は穏やかに弦で提示される4つの音が全曲を通じて重要な役割を果たし。このモチーフが形を変えて繰り返し使われることによって、全曲の統一感が出されている。第1楽章は4つの音によるモチーフを含めて3つのテーマが自由に組み合わされる。雰囲気は指示通り穏やかな音楽だ。それ以上に夢見心地の第2楽章(ラヴェルのピアノ協奏曲が連想された)が素敵だ。混乱を極めた後の20世紀末的陶酔感というか、「とにかく私の曲に浸ってくださいな」というメッセージが見えてくるようだ。終楽章は熱狂的に盛り上がった後、第1楽章で3つ目のテーマとして用いられた上行音階が表れてクライマックスを迎え、最後は微妙な音が彩なしながら静かに終わる。ラウタヴァーラとアシュケナージというのは、あまりぴんとこないつながりだが、アシュケナージのマイルドな演奏スタイルは確かに近年のラウタヴァーラの曲とよくマッチしている。 |
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| ところで、録音で聴いた限りという条件付だが、私はアシュケナージのピアノの響きが好きだ。音がクリアで肉付きがよく、広がりが豊かでいつ聴いても安心できるピアノである。もっとも、彼の録音はほとんどがDeccaなので、CDで聴くアシュケナージのピアノは多分Deccaの録音スタイルの影響もあるのか思われたが、今回のOndineの録音でも同じ響きを堪能することができた。2レーベルの録音を聴きながら、アシュケナージのピアノそのものが先に挙げたような特色を持っていることを実感できたのも、今回のCDを通じて得た楽しみの一つである。 |
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| なお、曲の後にこのCDの曲についてのラウタヴァーラとアシュケナージの会話が収録されている。私は英会話はだめだが、英会話ができる人はもちろん、ライナーノートをつきあわせながら聞けばある程度わかるので、おまけとしてはなかなか面白かった。 |
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| (00/04/09) | ||
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ピアノ三重奏曲イ長調Op7(クーラ) 作曲1907年、初演1908年3月27日ヘルシンキ |
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| クーラは1883年に生まれ、1918年34歳の若さでフィンランドがロシアから独立した際の内戦の最中、銃弾により命を落とした。作曲家として活躍途上で亡くなり作品数も決して多くないこと、その作品も大規模な管弦楽曲はほとんどなく、合唱曲、歌曲が作品の中心だったせいか、クーラはフィンランド以外ではほとんど無名だ。したがって、そのような作曲家の、しかも学生時代の作品であるピアノ三重奏曲が一般に知られていないのは、当然のことだろう。しかし、このピアノ三重奏曲は、心の深いところからの哀愁と、若々しい新鮮な情熱に満ちた逸品だと思う。 |
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| クーラのピアノ三重奏曲は1907年、彼がヘルシンキ音楽学校に2度目の入学をしていた時代に作曲され、翌1908年3月27日、24歳の時に彼の作品コンサートで紹介され、高い評価を得た。 |
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| 私が北欧の音楽に興味を持ったきっかけが切手収集だったので、未知の作曲家の場合切手になっている人のCDに優先的に手が伸びるのが常だった。切手になっているクーラだったが、音楽については何も知らない時に初めて手に入れたのがこのピアノ三重奏曲だった。これを買った頃は今ほど室内楽に関心はなかったのだが、初めて聴いたときから満足度100%のご機嫌盤となり、現在に至っている。 |
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| この作品は4楽章で演奏時間55分以上にもなる。ピアノ三重奏曲でこれだけの大作というのはあまり例がないだろう。演奏時間から想像されるように、クーラのピアノ三重奏曲は、堅固な構成に支えられた作品というよりは、哀愁に満ちたメロディーが次から次へとわき出てくる曲だ。この曲が書かれた頃にはシベリウスの教えも受けていたが、少なくともこの曲はシベリウス的な凝縮された雰囲気はない。もっとも、1907年頃というと、シベリウス自身まだ後期の作風を完成させた時期ではない。 |
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| 第1楽章の最初の主題には何となくフランス的な雰囲気を感じる。クーラは1909年秋にフランスに留学し、ドビュッシー、デュカス、ショーソンらのフランス音楽の影響を受けた。もちろんピアノ三重奏曲はその前の作品だが、後のフランス音楽への傾倒が頷けるような気もする。しかし、第2主題になるともはや北国の骨太の音楽が蕩々と流れはじめる。どちらの主題もゆったりしたテンポで、ヴァイオリンもチェロもロマンティックに思い切り歌い上げるといった趣の楽章だ。 |
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| 第2楽章のスケルツォは耳に残りやすく、中間部では第1楽章と似た雰囲気のメランコリックな旋律が聴かれる。 |
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| 第3楽章は重く引きずるような弦のユニゾンの後、第1楽章の雰囲気を引き継ぎつつ、よりメランコリックに、より荘重なテーマが繰り返されながら、クライマックスを築く。そして、穏やかな歌が流れた後、この楽章の最後は再び冒頭の重く引きずるような楽想で閉じられる。何度も繰り返されるテーマは曲全体を聞き終えた後も、耳に染み入るような味わい深さがある。 |
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| 終楽章は明るいテーマで始まるが、楽章が進むにつれて第1楽章が回想され、抒情的なゆったりした雰囲気が立ちこめていく。この曲はたとえ陽気な楽想が表れても心底陽気に歌うのではなく、いつの間にかほの暗い歌が流れ出し、憂愁に沈んでいく感じがする。しかし最後は躍動感あるエンディングとなる。 |
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| 曲全体を通して一貫した抒情的な雰囲気が感じられ、メロディーの美しさと相まって55分という演奏時間を少しも感じさせない。演奏そのものについては、技術的な問題もあるのかもしれないが、曲自体にそんなことを全く感じさせない魅力がある。 |
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(98/08/09、 99/04/02改訂) |
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| 1.アリエッタOp12-1(1867年)、2.子守歌Op38-1(1883年)、3.蝶々Op43-1(1886年)、4.孤独なさすらい人Op43-2(1886年)、5.音楽帳Op47-2(1887年)、6.メロディOp47-3(1887年)、7.ノルウェーの踊りOp47-4(1887年)、8.夜想曲Op54-4(1891年)、9.スケルツォOp54-5(1891年)、10.郷愁Op57-6(1893年)、11.小川Op62-4(1894−95年)、12.家路Op62-6(1894-95年)、13.バラード風にOp65-5(1896年)、おばあさんのメヌエットOp68-2(1989−99年)、15.あなたのおそばにOp68-3(1898−99年)、16.ゆりかごの歌Op68-5(1898-99年)、17.昔々かしOp71-1(1900-01年)、18.パックOp71-3(1900-01年)、19.過去Op71-6(1900-01年)、余韻Op71-7(1900-01年) |
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| グリーグの抒情小曲集は全10集66曲からなっている。グリーグはこれらを新進作曲家、ピアニストとして活躍を始めた1864年から、晩年の1901年まで、折に触れて書きつづってきた。グリーグという人は、『ペール・ギュント』やピアノ協奏曲のような剛毅な作風の曲も書いたが、本質的には素朴で抒情的な人だったといわれている。抒情小曲集は、そういったグリーグの人柄が等身大で音になった作品といえるだろう。 |
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| 抒情小曲集は全曲録音するとCDにすると3枚になるが、ここでギレリスは20曲を録音している。抒情小曲集はもちろん様々なタイプの曲から成っているが、全体として感じられるのは山や谷、素朴な農民の生活、民俗音楽など、ノルウェーの自然の息吹で、グリーグはこれらをさらりとしたタッチで描きあげた。 |
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| 演奏のギレリスといえば「鋼鉄のタッチ」で知られた巨匠だが、残念ながら私は彼のCDは他にベートーヴェンのソナタを少々、チャイコフスキーの協奏曲が1枚持っているだけに過ぎない。しかし、そこでの彼の演奏はパワフルで、とりわけチャイコフスキーはこの曲の中で1番好きなものだ。それらと比較すると、もちろん曲の性格が全く違うが、抒情小曲集を聴くと、何と温かく人間的な人なんだと思わずに入られない。1カ所たりとも技巧を振りかざすことなく、どんな弱音でも心を込めて描ききっているのがなんとも言えず素晴らしい。 |
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| また、選曲の良さもこのCDの魅力だ。一番番号の早い「アリエッタ」と一番最後の「余韻」が同じメロディーを持っているのはグリーグ自身が意図してやったことだが、この2曲を最初と最後にして、その間に各曲集から叙情的な曲と民族的な曲を巧みに織り交ぜており、まさにおいしいとこ取りといった感じだ。 |
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| そして、最後に付け加えておきたいのが、このCDの録音のこと。もう20年以上前の録音だが、曲の性格にあった素晴らしい録音だと思う。グリーグのしみじみした叙情性を味わうには、残響過多のぎらぎらした録音や、妙に冷たく堅い響きの録音はふさわしくない。最近のピアノ曲の録音はどちらかというとかつてより豊かな響きを求める傾向があるが、そういった録り方は抒情小曲集ではマイナスになるように思われてならない。この録音は、ギレリスが紡ぎ出す、グリーグに求められる温かく艶やかな音を、それにふさわしい温かな音として見事に再現しており、見事という他はない。 |
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| 【セカンドチョイス】 入門編としては抒情小曲集全曲を聴くことはないと思うが、ステーン=ノックレベルク盤(Naxos)は全3枚を買っても国内盤1枚程度の値段なので、思い切ってトライする価値はある。有名曲の割に抜粋は以外とCDが少ない。 |
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(98/08/09、 99/04/04改訂) |
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