【飢え渇く獣のお話】
それはそれは昔のおはなしです。
あるところに、とてもとても大きな獣がいました。
その爪は鋭く、捉えた獲物を決して逃す事はありませんでした。
その牙は強靭で、突き立てればどんな獲物も屈服して獣の食料となりました。
そして何と、獣の皮膚は鱗でも毛皮でもなく、灼熱の赤に輝く炎に覆われていたのです。
その炎の為に、獣に立ち向かうもの達はすべて、骨まで残さず焼き尽くされていました。
獣は大地の王者として幾星霜もの時間を君臨し、
好きなだけ肉を食らい、望むがままに血を啜りました。
しかし、獣はどれだけ肉を食らおうとも、血を啜ろうとも、
なぜか猛烈な喉の渇きと飢える苦しみからは逃れる事ができなかったのです。
獣が渇きと飢えに苦しみ続けて、とうとう千年の時を迎えました。
その頃には人間達も数が多くなっており、やがて国家を形成して、
そして更に時代が進むと、自衛の為と称して幾度も獣に戦いを挑んできました。
無論、人がどれほどの数だけ集まり、どれほどの強力な武器を手にしたところで、
あらゆるものを焼き尽くす炎に守られた獣には、到底、叶うはずも無く、
戦いを挑んだものたちは、屍を残す事さえなく焼け死んでいきました。
その一方、獣にも変化がありました。
千年の年月の間に、膨大な知恵と知識を蓄えていたのです。
戦いに挑んでくる人間達の言葉を模倣し、会話という行為を覚えました。
それから間もなく、自他の区分を付ける事ができるようになったのです。
自他の区分が付けられるようになり、気が付けば、獣はひとりぼっちでした。
もしかすると昔は同属がいたのかもしれませんが、
獣は何分、それまで自他の区別など付けた事など無かったので、
目の前にある動く肉はすべて獲物でしたし、動かない肉はすべて食料でした。
なので、仲間と呼べるものは、そのときには既に誰一人いませんでした。
それに気が付いて以来、獣は無闇に殺し、無闇に血肉を食らう事をしなくなりました。
獣が言葉を話し、獣が無闇に人を殺さなくなった事を知った人間は、
いつしか獣を「神さまの使い」と呼ぶようになりました。
更には、一月に一度という、獣のささやかな食事の周期に合わせ、
農作物や、鶏やら牛、そして仕舞いには人間の女子供まで、
「生け贄」と称して奉げてくる様になりました。
無論、鶏や牛を丸ごと平らげても、獣の渇きと飢えは止む事がありませんでした。
ましてや、人間の女子供などでは、量的に考えても足りるはずがありませんでした。
獣は、「生け贄」の人の助けを請う声、許しを請う声をちゃんと理解できたので、
最初は決して、人間達の奉げる「生け贄」の人を、口にはしませんでした。
しかし、獣が口にすることを拒んだ「生け贄」達は、
「穢れたもの」だから「神さまの使い」の口に合わないんだ、
と国家から烙印を押されて、死ぬよりも酷い目に合わされていました。
獣はその事を知って以来、奉げられた「生け贄」の人だけは、
どんな嫌でも、残さずに食べてしまう事にしました。
その頃から、獣が何も指図していないにも関わらず、大災害が起きた次の月には、
必ず女子供をひとり以上「生け贄」に奉げる、という掟が作られてしまいました。
それから更に、数百年の時が過ぎ去ります。
その年には大きな災害も無かったので、獣は安心していたのですが、
なぜかその月は、人間が奉げる「生け贄」の中に、ひとりの女性がいました。
「主の食している供物は、主のために奉げられたものではない」
その女性は唐突に語り出しました。
「主の食している供物は、人が、神のもとへ、奉げたものだ」
獣には最初、その女性の言葉の意味が、よくわかりませんでした。
どうやら話は命乞いではなさそうなので、改めて聞き直し、そして尋ねました。
「わたしには、おまえの言う事の意味がわからない」
獣は「神さまの使い」と呼ばれる手前、
本心を隠し、威厳を保ちつつ答えることにしました。
「確かに供物はわたしの口に合ってはいないが、
人はわたしを『神さまの使い』と称し崇め敬っている。
そのわたしが供物を受け取り、食らった所で、何が悪いものか」
獣の問いに、女性はひるむ事無く、淀む事無く答えました。
「供物は、人々の信仰の対象、信仰する人々の心そのものに帰すべきものだ。
それが相応な供物であれば、人々は皆、後に蓄えとして自らを祝福できる。
それが不相応な供物であれば、人々は皆、その仕打ちを自ら負う事になる。
己の信仰に対する誠実さというものは、己のみが計る事ができるものだ。
己の信仰の深さは、己の心に裁量を委ねられるものなのだ。」
「ならばおまえはわたしに、この供物を神のために奉げよとでも言うのか。
千年来、一目も見ていない神を信じ、その神のために奉げよと言うのか」
「主が神の使いであろうと、神そのものであろうと、
むしろ、神が本当にいようといまいと、それさえも関係はないのだ。
人々が奉げた供物を、主が口にした時点で、既に間違いなのだ。
主が口にした事で、人々はそれを己の信仰に対する肯定と捉える。
人はそれで、それだけで、容易く充たされてしまうのだ。
自分の行いが正しかったと信じることに、主は荷担しているのだ。
たとえそれが、供物を口にする事が、主にとって、どんな理由であったとしても」
獣は、気が付きました。
獣が「神さまの使い」と呼ばれ、人間が「生け贄」として女子供を差し出してくる。
しかし獣が口にしなければ、生け贄は穢れたものと呼ばれ死ぬよりも辛い目にあう。
獣はその現状を嘆いてはいたもの、何ひとつ変えようとはしていなかったのです。
「ならばおまえはわたしに、どうすればよいと言う気だ。
いまやこの国にわたしを知らぬものは無く、どこへ行っても崇められ、奉られる。
わたしは飢えも渇きも抑えることができないし、それを知るものはわたしを怖れ、
例えわたしがなにものであっても、生け贄をやめようとはしないだろう」
獣の問いに、女性は瞑目して言葉を返しました。
「主の飢えと渇きを抑えられぬなら、癒せばよい」
それを聞いて、獣は耳を疑いました。
しかし、それが決して獣の聞き違いではなかったと知ると、
獣は怒りを抑えられず地面に爪を突き立て、大地を引き裂きました。
「おまえに何がわかる。この飢えと渇きが癒されることなどはない。
いままで、さまざまな、いや、あらゆるものを食ったし、飲み干した。
山をまるごと食らい尽くしても、湖をまるごと飲み干しても、
それでも、わたしの飢えと渇きを癒すことなどできなかった。
何を食らい尽くしても、何を飲み尽くしても、足りない。
この分では、わたし以外の、なにもかもが無くなってしまう。
わたしは、そんなことはしたくない。それは耐えられない」
獣は、獲物の血肉に限らず、石や木、砂や鉄に至るまで、
世界中にある、形のあるものはすべて、食べてみたことがありました。
それでもなお、獣の腹を僅かでも充たした事など、一度もありませんでした。
だから、獣にはどうしても、自分の腹を充たすもののことなど、
信じられそうにありませんでした。
しかし、女性は瞑目したまま、続けて言ったのです。
「知っているのだ。主が何故、食っても飢え続けるのか。
知っているのだ。主が何故、飲んでも渇き続けるのか。
そして、何を食っても充たされぬ主が、何を飲んでも癒されぬ主が、
唯一充たされる、癒される方法を、知っているのだ」
「・・・出鱈目を言うな」
「出鱈目などではない。
何もかも焼き尽くす、その炎こそが、飢えと渇きの原因だ。
そして、主にはまだ、食らい尽くしていないものがある。
そして、主にはまだ、飲み干していないものがある。
主は、今、ここにいる。
その、ただひとつの事実こそ、それの証明だ。
今日は、主にそれを伝えに来ただけだ。
だから、今これから話をするが、主が信じるかどうかは、主の自由だ」
賢い獣は、そこまでの言葉を聞いただけで、
それだけで、女性の言おうとしている事が何であるのか、
女性の話が示している「今までに食べていない、獣をみたす唯一のもの」が、
果して何であるのか、察してしまいました。
獣の身を守っていた赤い炎は、あらゆる敵を焼き尽くすと同時に、
獣が口へと運んだ獲物の血肉さえ、残らず焼き尽くしてしまっていたのです。
だから、獣が、どれほど肉を食らおうと、どれほど血を啜ろうと、
木や土を貪ろうと、湖を飲み干そうとも、それは獣の口に触れる頃には、
焼き尽くされ、跡形も残ってはいなかったのです。
千年に渡って獣を苦しめてきた、飢えと、渇きの原因、そして、
それを充たす、おそらく唯一の方法を、見出してしまった獣は。
その驚くべき事実に怒り狂い、その女性が話を始める前に、ひと呑みにしてしまいました。
しかし、やはりその女性が指摘していた通り、そして獣も気が付いてしまった通り、
その女性の血肉は「今までに食べていない、獣をみたす唯一のもの」ではないため、
飢えを、渇きを、僅かに抑える事さえもできませんでした。
獣は、数百年ぶりの怒りと興奮を、抑える事が出来ませんでした。
「生け贄」を「食べた」後は、数日間動かずに眠り続ける事にしていたのですが、
今回ばかりは、それから三日三晩、一睡もすることが出来ませんでした。
そうして獣は、興奮も冷めることなく、悩んだ挙句。
まず、鋭い爪を自らの脚に突き立て、そこから滲み出す己の血を舐めました。
獣は、どんな獲物をも焼き尽くした灼熱の炎に、
千年以上も包まれているにも関わらず、
決して焼き尽くされる事なくずっとそこにあった、
獣自身の肉を食らい、獣自身の血を啜ることにしたのです。
獣は、自分の血の味を知り、
とても永い、永い間、苦しんだ飢えと渇きを、
己の血肉でのみ充たせるという事を、改めて確信して。
そして間もなく、自らのなにもかもを食らい尽くしてしまいました。
それでも、獣は、その己を食らい尽くす、最後の瞬間だけは充たされて、
生け贄の女性にでも、いるかどうかさえ定かでない神にでもなく、
己の境遇そのものに、感謝したとかしなかったとか。