玄関の呼び鈴

なぜ? 呼び鈴のボタンを門柱に付けるのですか!
  35年ほど前に都・住宅供給公社が分譲した住宅地に住んでいる。狭山丘陵の南に位置する東大和市の一角にあり、静かで自然環境に恵まれ気に入った場所である。近所の人々にも恵まれ子育てを通じて親しくなり、子供達が巣立った今でも道路を挟んで居を構える14軒の内6軒とは家族ぐるみの付き合いをさせて頂いている。
  お宅へ伺うときには呼び鈴など押さず大抵は外から“中村さーん”と声を掛けて用事が済んでいる。長年住んでいるとだんだん知り合いが増えてくるが、通勤途中や休日の買い物の時に挨拶する程度でお宅に伺うなどの行為の必要はほとんど無かった。
  地域活動に参加して少し様子が変わってきた。近所の方と電話で連絡を取ることも多くなり、電話だけではすまないことも増え、家庭を訪ねる機会が増えてきた。

  この時とても違和感を感ずることがある。今までのご近所づきあいと異なり屋外から“鈴木さーん”と呼ぶわけにはいかない。当然、呼び鈴を押して来意を伝えることになる。
  立派な門構え、玄関ポーチがあり夜間は玄関灯が灯してある。にもかかわらず、多くのお宅では呼び鈴のボタンが門柱に付けられているのである。
訪問者は道路で呼び鈴を押し応答を待つことになる。来意を告げても“お入り下さい(玄関のポーチまでを期待)”と声を掛けられることはほとんど無い。相手が出てくるまで路上で待つことになる。
出てくるのに暫く時間が掛かる事も間々あり、夜間で雨が降っていてもである。
  更に相手が玄関からわざわざ傘を差して出てくることが多いのである。明かりが灯り、屋根のある玄関ポーチがあるにもかかわらず路上で書類が雨に濡れることを気遣いなが渡したり、説明をしたりする仕儀になるのである。

  “なぜお入り下さい”と言えないのだろうか。『人間って』言葉の通り支え合って群で生活する動物であったはず。いつの間にかオランウータンの様に孤独で淋しい動物に変化してしまったのだろうか?

  長い付き合いでない人を家に上げろと言うのではない。せめて、玄関ポーチで応対すべきではないだろうか、知人ならば玄関の中までは招き入れて応対すべきではないかと思うが如何だろうか。
  近頃の子供は人付き合いや仲間作りが苦手であり、“近頃の子供達は・・・・・・・”更に“教育が問題だ・・・・・・・”などと各所で議論されているのを聞く。
他と同様に子供の問題は大人の問題の反映に過ぎない。子供達は上記の環境でしかも個室を与えられて成長してきているのである。これでは人付き合いや仲間作りが上手くなるはずがないのではないか。
  先ず、門柱に付けられた呼び鈴を玄関ポーチに移動すことを提案したい。
近所の人との関係が少しずつ親密になり、地域社会の絆が増してくるのではないかと思う。
ここから教育問題にしろごみや環境保護の問題など大きな社会問題の解決の糸口が見えてくると思う。