石神井城跡

所在  東京都練馬区石神井台1丁目

交通  西武池袋線石神井公園駅より徒歩10分

歴史   石神井城は豊島氏によって鎌倉時代末期に築かれたとされる。

      豊島氏は平安時代末期から続いた名族で、その祖豊島清光は源

      頼朝の武蔵入りに大きく貢献したとされ、また室町時代には、山内

      上杉氏の臣として石神井川流域に広大な領地を有する国人領主と

      して成長していた。

      その後、文明八年(1476)に起こった関東管領家執事職を巡る長

      尾景春の乱に対し、時の領主豊島泰経とその弟泰明は景春に与し

      たため、鎮圧軍の太田道灌に攻められることになる。

       翌文明九年、道灌軍は豊島氏の属城である平塚城を攻める為に

      江戸城を出るが、泰経はその隙に江戸城を奪うべく石神井城より出

      陣する。が、しかし道灌軍は転じて石神井城方面に侵出し、江古田・

      沼袋付近で両軍は激突する。(江古田原・沼袋の戦い)

      結果、豊島軍は敗れ、泰経軍はこの石神井城に逃げ込むが、道灌

      軍は追撃の手を緩めず、城を包囲する。4月18日、泰明は和議を申

      し込むが条件面で折り合わず、結局道灌軍の力攻めにより落城する。

      その時、泰明は娘とともに入水したと伝えられるが、真相は夜陰にま

      ぎれて平塚城に落ち延びた様である。

        石神井城址石碑

        三宝池より主郭部分を望む

一言   城跡は石神井公園内の小高い丘に残る。当時は石神井川と三宝池を天

      然の堀として利用し、また土塁と空掘をめぐらし外敵に備えていたという。

      遺構として現在、主郭部分を残す程度であるが、当時の城域は九ヘクター

      ルにわたる広大なものだったらしい。ただ現存する主郭部分であるが、旧

      状保存のためフェンスが張り巡らされ行くことが出来ない。ただフェンス付近

      でも堀切・土塁等が容易に確認出来る。

       城跡の南側には、豊島氏代々の菩提寺である道場寺や、豊島氏ゆかり

      の三宝寺がある。また、三宝池には、落城時に入水したとされる照姫の悲

      しい伝説が残る。

       フェンス越しに見る空掘・土塁跡

       伝説が残る三宝池

     

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