河村城跡
所在 足柄上郡山北町
交通 JR御殿場線山北駅徒歩30分
歴史 平安時代後期、平将門の乱(939)鎮圧に功績のあった藤原秀郷を祖とし、
秦野盆地に居を構えた波多野氏の一族である秀高が築いたとされる。秀高
は足柄平野北西部を支配し、河村姓を名乗る。
その後南北朝時代に至り、河村一族は南朝側に属して北朝側の足利尊氏ら
と敵対する。正平七年(1352)、河村秀国は新田義興・脇屋義治らとともに
河村城に篭もり畠山国清率いる大軍と交戦するが、翌平正八年ついに落城
する。
その後河村城は関東管領の山内上杉氏、大森氏と支配者を替え、戦国時代
には小田原北条氏の支配下におかれたが、天正十八年(1590)秀吉の小
田原攻めにより北条氏が滅亡すると、河村城も廃城となったとされる。
河村城跡石碑
本丸跡は広場として整備
石碑横にある祠
一言 城跡は旧皆瀬川・酒匂川に挟まれ周辺山地と分断された、標高230mの山頂
に残る。河村城周辺は相模・駿河・甲斐三国の境界に位置するため、その昔か
ら交通の要衝として軍事的に重要視され、戦国時代に北条氏も甲斐の武田信玄
の侵攻に備えて大規模な改築が行われたとされる。
遺構としては本丸跡・竪堀・土塁・井戸跡などが残るが、非常に保存状態(本丸
等は広場として整備されているが)がよい。特に東端にある堀切は幅20m・深
さ11mのものと幅30m・深さ15mのものとがあり、訪れる者を魅了するであろう。
本丸より東側曲輪を望む
本丸と曲輪を分断する大堀切