岡崎城跡

所在  伊勢原市岡崎町

交通  小田急線伊勢原駅よりバス岡崎城下下車

歴史  岡崎城の築城年については不明だが、平安時代の末、三浦大介義明の

     末弟岡崎四郎義実によって築かれたといわれる。岡崎義実は源頼朝に

     仕え、鎌倉幕府創立の功臣で武勇の誉れ高く、『悪四郎』(この時代の悪

     とは大変強いという意味)と呼ばれていた。

     和田義盛の乱(建保元年=1213)で義実が滅んだあとの240余年程、

     岡崎城の名はその歴史の表舞台に出ることはなかったが、康正ニ年(1

     456)にいたって三浦時高が山内上杉氏から奪ってその属城とした。更

     に明応三年(1494)、時高の養子、義同は時高を滅ぼして子義意を新

     井城へおき、岡崎城を居城とした。

     永正九年(1512)8月、伊勢新九郎長氏(北条早雲)は、伊豆・相模の兵

     を集めて岡崎城に猛攻を加えついにこれを攻めとる。(義同は逗子小坪

     の住吉城に逃れ、相模の支配権を急速に失っていく事になる。)

     その後は北条氏の属城として存続したが、天正十八年の小田原の役後

     に廃されたといわれる。

      岡崎城石碑

一言  城跡は平塚の穀倉地を望む高台に位置し、本丸跡には現在、岡崎城が廃

     城になってから間もなく建立されたといわれる無量寺がある。

     「小田原記」によると『岡崎の城と申すは、昔し頼朝の御時、三浦大介の弟、

     岡崎悪四郎義実が住みし城とぞ聞こえし三浦の一門数年住せし処、要害き

     びしく支度せり』とあるように天下の要害であったという。

     本丸の他、二の丸・三の丸・空掘などが残り、三の丸跡には櫓台あとが残る。

     また、無量寺北西500m位のところに岡崎義実の墓が建っている。

     伊勢原から平塚に抜ける県道近くにあるが、県道からの案内もよく整備され

     ていた。

      城跡から平塚方面を望む

      城跡には現在無量寺が建つ

 

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