小田原城跡

所在  神奈川県小田原市城内

交通  JR東海道線・小田急線小田原駅より徒歩10分

歴史  小田原城は鎌倉時代初期、鎌倉幕府の重臣だった土肥遠平

     が小早川氏を称して小田原に館を築いたのが始まりといわれて

     いる。その後、応永二十三年(1416)上杉禅秀の乱で功のあっ

     た大森頼春が小田原の地を与えられ、防御施設を整えた。

     その子藤頼の代に、伊豆一国を乗っ取った伊勢新九郎(のちの

     北条早雲)が鹿狩りを口実に箱根山中に兵を伏せ、突如攻め入

     り藤頼は防戦の甲斐なく逃亡する。

     早雲はこの城を拠点に相模進出を狙うと共に大改築を行い、氏

     綱・氏康・氏政の代にかけて拡張がすすめられた。こうして小田

     原城は天下の堅城として名を馳せ、永禄三年(1560)に上杉謙

     信、同十ニ年には武田信玄が攻め寄せるが、攻略できず撤退し

     ている。

     難攻不落を誇った小田原城も天正十八年(1590)、豊臣秀吉に

     よる「小田原攻め」により開城、氏政・氏照は切腹、氏直は高野山

     に追放と、関八州の覇者として君臨した北条氏はその幕を閉じる。

     その後、関東に入部した徳川家康は江戸幕府を開き、小田原城は

     その家臣大久保氏・阿部氏・稲葉氏・再び大久保氏と、その城主を

     変え幕末を迎える。

      小田原城遠望

      小田原城天守閣

 一言  戦国時代、小田原城は城下町をも取り込んだ一大城郭で、その全周

      は約9Kmに及んだ。前述のとおり、謙信・信玄両雄がこの城を囲んだ

      が、遂に落せず撤退させている。後年、秀吉がこの城を攻めた時、そ

      の経験が仇となり、北条氏は時代の趨勢を見極められず、滅亡する。

      北条氏時代の本丸跡は現在の天守閣が建つところではなく、天守閣の

      北側小峰丘陵にあったといわれる。江戸時代に小田原城は、その規模

      を三分の一に縮小したものの、箱根の山々を臨む交通の要所として重

      要視されていた。

      明治3年に城の建物は全て破却されたが、現在本丸・二の丸・内堀・外

      堀の一部が残り、昭和三十五年に鉄筋コンクリートの天守閣が復元さ

      れた。現在小田原城付近は文化施設、公共施設、公園(動物園)として

      整備されている。

      

       本丸跡は公園として整備

       二の丸付近の堀

       住吉堀付近

      

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