練馬城跡

所在  東京都練馬区向山3丁目

交通  西武豊島園線豊島園駅より徒歩1分

歴史   鎌倉時代末期、豊島氏の一族で、ここより南西に位置する石神井城

      の城主豊島泰景の弟、豊島景村が築城したとされる。

      豊島氏は平安時代から続く名門で、室町時代には山内上杉氏の配下

      として石神井川流域に広大な領地を持つ国人領主に成長し、鎌倉公

      方の守護役や関東管領の守護役を務めるなど名声も得た。

      しかし、文明八年(1476)に勃発した長尾景春の乱において豊島氏

      は景春側に与し、鎮圧軍の太田道灌に攻められることとなる。

      翌九年四月、当時石神井城の城主だった豊島泰経は、この練馬城近

      くの江古田付近で道灌軍と野戦を行う。(江古田・沼袋の戦い)

      記録では、この練馬城からも城兵が出撃し、泰経軍と合流して道灌軍

      に当たったとされるが、結果は豊島氏の敗北に終わる。

      泰経は居城石神井城に逃れ、やがてその石神井城も攻められ落城する。

      練馬城の落城の月日については明らかではないが、この江古田・沼袋

      の戦い直後に落城したとされている。

        現在は遊園地・豊島園に

        正面入口の花壇が居館跡

 

一言   練馬城は豊島氏拠点の一つだったことから豊島城とも呼ばれる。

      現在、城跡には遊園地の豊島園と化している。

      当時は、北側に流れる石神井川を天然の堀として活用し、北以外の三

      方に土塁を設けて外敵の侵入を防いでいたという。

      但し、昭和2年から始まったの豊島園建設及び整備が急速に進行する

      に従い、堀は埋めたてられ土塁は崩されて、往時の面影は全く見ること

      ができない。また、石神井川も、護岸工事により整備されている。

      なお、正面入口にある花壇が居館跡、入って右手にある丘が櫓台跡と

      伝えられている。

        入口右手にある丘が櫓台跡

        櫓台跡に建つ祠  

        当時は石神井川を天然堀として活用

 

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