辛垣城跡
所在 東京都青梅市二俣尾
交通 JR青梅線二俣尾駅より徒歩1時間
歴史 平将門の後胤を称し鎌倉時代より西武蔵(青梅市)付近を治めて
いた三田氏が、統治上築城した勝沼城であるのにに対し、有事の
際に篭もる城として築城したのがこの辛垣城である。
室町時代末期当主綱秀の時に、相模から進出してきた後北条氏
に抗し、上杉謙信の小田原城攻めに協力するなど反北条活動を
繰り広げるが、上杉氏撤退の後、三田氏は転じて北条氏の侵攻
を受ける事となる。
永禄5年(1563)綱秀は勝沼城を放棄し、この辛垣城に篭城する
がその翌年3月、北条氏照軍に攻められ落城。綱秀は岩付(岩槻)
の太田資正を頼って落ちる。その際に『からかいの 南の山の 玉
手箱 開けて悔しき 我が身なりけり』との句を残したという。
その年10月、流遇先で自刃。三田氏の栄華はこれにて幕を閉じる
事となる。
物見台跡?から本丸?を見下ろす
本丸跡付近
堀切跡
一言 城跡は有事の際に立て篭もる城らしく、標高450mの急峻な坂を擁す
辛垣山山頂に残る。勝沼城がここより東に位置する事から、辛垣城は
『西城』とと呼ばれる。遺構は残念ながら大正時代末までに行われた石
灰石採掘により原形を留めていないが、それでも堀切や曲輪・竪堀等が
確認できる。
前出の綱秀の句は、当時辛垣城から南に位置する戸倉城の大石定久と
氏照を討つ密約を交わしていたが、逆にそれを利用されて結果的に城を
取られた、という背景から詠んだとされる。
麓にある海禅寺には三田氏の供養塔(室町時代末期から江戸時代初期
設置のもの)が残っている。
海禅寺
三田氏供養塔
城跡は鬱蒼とした木々に囲まれ、薄暗い。
それにしても、本当に疲れる山登りだった。シャレになりません。