稲付城跡
所在 東京都北区赤羽西一丁目
交通 JR赤羽駅より徒歩10分
歴史 稲付城は室町時代中期に太田道灌により築城されたというが異説も
残る。但し、道灌の孫にあたる太田資高が岩淵の砦に居城したことは
『寛政重修諸家譜』に残り、また資高の子太田康資が永禄年間に岩淵
五ヶ村を所有していたことが『小田原衆所領役帳』に記載されているこ
とや、この地に「番場」「根小屋」等、城跡に特有の小字名が残ることか
ら、この地に太田氏関連の城跡があったことは間違いないであろう。
太田康資は後北条氏の娘を娶り重臣に列せられていたが、永禄六年
(1563)下総の里見氏につき、後北条氏に背く。ここで第二次国府台の
戦いが勃発するが、結果的に里見・太田軍は北条軍に大敗を喫し、康
資は安房に逃れることになる。
その後の稲付城については不明な点が多い。
城跡に建てたとされる静勝寺
城跡より赤羽駅方面を望む
一言 城跡は赤羽駅の西側、道灌山と呼ばれる高台の一角に位置する静勝寺
がその地といわれるが、文献上確定されていない。但し静勝寺南方120m
のところで行われたマンション建設工事に伴なう発掘調査で、空掘の跡が
発見されたことから、城跡はこの付近であった事は間違いないであろう。
静勝寺は太田道灌が主君扇谷上杉定正に暗殺された後の永正元年(1504)
に道灌の師であった雲岡和尚がこの地に禅刹を興して道灌寺と称したのが
始まりとされ、境内には江戸時代中期に作成された道灌の木像が安置され
ている。
なお、城跡の遺構は開発に伴ない全く残っていない。
静勝寺に建つ道灌木像廟