江戸城跡

所在  東京都千代田区千代田

交通  営団地下鉄各線大手町より徒歩10分 

歴史  平安時代末期、秩父重継がこの地に居館を築いたのが始まりとさ

     れる。その後秩父氏は江戸氏と改め、この後約190年間繁栄する。

     室町時代の長禄元年(1457)、扇谷上杉定正の家臣太田道灌は

     居館程度の作りであった江戸城を防御施設として整備し、関東制圧

     のための要害として再構築したが、道灌は文明十八年(1586)に

     主君定正に暗殺される。

     道灌死後、江戸城は扇谷朝良・朝興と城主が変わるが、大永四年

     (1524)後北条氏に攻められ朝興は川越城に逃亡、その後北条氏

     の家臣が城代としてこの城を統治する。

     天正十八年(1590)の小田原の役後、徳川家康は関東入府の折

     にこの地を本拠と定める。慶長5年(1600)には江戸幕府が開幕さ

     れ、それまでの大坂(大阪)から遷都される。以降、江戸城は拡張・

     整備を繰り返し、江戸城周辺も日本と首都として発展していく。

     江戸幕府崩壊にともない慶長四年、無血開城。以後、皇居として使

     用されている。

      江戸城本丸跡

      天守台跡

      松の廊下跡 

 

一言   言わずがな、江戸城跡は現皇居。

      現在、本丸・二の丸・三の丸・吹上・西の丸・北の丸の曲輪跡が残り、

      富士見櫓。数奇屋多聞・伏見櫓・桜田櫓が残る。また、城門も十二門、

      水堀も内堀・中堀ともに各所によく残り、中心地として使用された城ら

      しく、その規模は広大で雄大である。但し、外堀((総堀)はほとんど埋

      めたてられ、市ヶ谷・飯田橋付近に残るのみである。

      本丸北隅の高地には外観五層、内部6階、高さ58mの天守閣が1607

      年に建設されたが、1657年の明暦の大火(振袖火事)の際に全焼。

      以後再建されることなく、現在は天主台が残るのみである。

      城跡内はアスファルト道路で整備され、パトカーが巡回している。また、

      ゴミ一つ落ちていないのがかえって不気味な感も否めない。

       平河門付近

       北詰門付近の水堀

 

      この近所の高層ビルに勤める友人に「じゃあ江戸城が見えるんだ」

      と言ったら一笑に付された。「皇居見えるんだ」と聞かなきゃいけない

      んですと。さもありなん。

 

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