新井城跡

所在  三浦市油壷

交通  京浜急行三崎口駅からバス油壷下車

歴史  新井城は鎌倉時代からつづく、名門三浦氏の居城であった。

     室町時代後期、相模一帯を治めていた三浦氏だが、伊勢新九郎(北条早雲)

     の進出によりその領土を奪われ、徐々に衰退していく。

     逗子住吉城を奪われた三浦義同(道寸)・荒次郎義意父子は永正九年(151

     2)、この城に篭もり徹底抗戦を繰り広げる。しかし江戸城主上杉朝興との連

     携もうまくいかず、3年もの間篭城を続けたがついに兵糧が尽き、永正十三年

     (1516)7月11日、義同・義意父子以下、兵達は討って出て遂に滅亡する。

     (『北条記』によると、その滅亡年は永正十五年(1518)とある)

     義同辞世の句

     「うつものも うたるるものも かはらけよ くだけてあとは もとのつちくれ」

     義意辞世の句

     「君が代は 千代に八千代も よしやただ うつつのうちの 夢のたはぶれ」

     

     油壷湾の名は滅亡当日、三浦城近くの湾一面がその血で赤く染まり油を流し

     たようになった事から由来するという。

      ニの丸付近に建つ石碑

一言  新井城の本丸には現在、東大の理学部臨海実験所が建ち、入ることはでき

     ない。(遊歩道から覗くと大きな堀切りが残っていた)ニの丸付近は「油壷マリ

     ンパーク」に変貌している。

     マリンパークの駐車場横には上記の石碑の他、義意の墓所が残っている。(

     義同の墓所はここより一段降りたところにある)

     墓所はこの土地の所有者?である海蔵寺(開基は道寸義同)が建てたものら

     しく、墓所近くには「ここは観光地ではない」「勝手にはいるな」「三浦市の横暴

     を許さない」「秋田書店は勝手に写真つかうな」などと物騒な杭が乱立している。

     (この写真も怒られるかも。何があったか知らないが、なんか気分を害した。)

     城跡は駐車場・マリンパーク・実験所になったり、関東大震災による隆起で往

     時の面影は薄らいでいるが、3年間篭城を続けることが出来た事から、その

     構えは秀逸だったと思える。

 

      本丸跡に建つ東大臨海実験所    

      文句が書かれた杭 

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