アキちゃんが元気になった。すべてが元通りに戻り、みんながそれを喜んでいる。

 まるで何事も無かったかのように、日々が過ぎようとしている。

 きっと、それが一番いいことなのだと思う。僕だって、それくらいわかっている。

 ……けれど。

 心の中に、一つ、小さな重い石が沈んでしまった。

 その石は、とても小さくて、僕自身にさえ分からないほど小さいのに、とても重い。

 その重さが僕を苦しめる。

 重くて、重くて……。僕はそれを捨てられずにいる。

 何故こんなにも重いのか、僕にはわからない。

 わからないから重い。

 助けて、アキちゃん。

 アキちゃん、僕は本気だった。

 誰もが、幼い憧れだと思っているようだけれど、僕は本気だった。

 本気であなたが好きだった。

 自分の幼さを誰よりも僕は知っていた。

 知っていたから、身を引くことしか出来なかった。

 何故、あの時、アキちゃんを頼むと言ってしまったのだろう。

 その一言が、僕の心の中に沈みこむ。

 好きなのに。こんなにも好きなのに。

 僕はどうすればいい?

 やっぱり、あなたが、好きなんだ。

 …………ごめんね。

 






 アキちゃんが退院してから、一ヶ月が過ぎ、新年度が始まろうとしていた。

 僕はアキちゃんの退院祝いの時以来、アキちゃんに会ってはいなかった。会うのが怖かった。

『洋也!』

 そう言って僕の腕を掴んだアキちゃん。あの腕の痛みをまだ忘れられずにいる。

『身代わりになってもいい』

 それを言えた自分の愚かさを僕は思い知った。

 そのあとだった。アキちゃんが全てを消してしまったのは。

 何も見ない、何も聞こえない、ただ透明な瞳が宙を見つめ、動かぬ身体をベッドに横たえる人。

 心臓が止まるほどの衝撃に、僕は震える事しか出来なかった。

 泣く事しか出来なかった。泣いて呼ぶだけで、アキちゃんに触れることすら出来なかった。

 けれど、兄は違った。

 全てを見据え、心さえなくしたアキちゃんと向き合い、呼び戻した。

 僕は……。だから全てを再び諦めるしか出来なかった。

『せんせーをお願い。助けて』

 あの言葉を再び口にしなければならないと知って、情けなさに叫びたくなった。

 いっそ、嫌いになれたらいいのに。大嫌いになれて、どうしてこんな人を好きになったんだと、自分を責められたらいいのにとさえ思った。

 出来もしないのに……。

 会えばきっと、アキちゃんは笑いかけてくれるだろう。前と何も変わらないままに。

 だけど、僕はそんなのは堪らない。

 僕はあなたに会うのが怖い。あなたのその純粋で透明な心の前に立つのが怖い。

 何もかもを見透かされそうで怖い。

 僕は兄が憎い。

 あなたをあれだけ苦しめ、追いつめ、泣かせた兄が憎い。それを許したあなたも憎いんだ。

 何事も無かったかのように笑っていられる人たちも憎い。

 僕は笑えない。笑えないよ。たとえ、それであなたが悲しもうとも。

 だから会いたくない。

 この心の中の、小さく、重い石が消えるまでは……。

 

 

「勝也、かえらねーの?」

 背中を軽く叩かれ、僕は振り返った。親友とも言っていい西川が立っている。

「うん……」

 僕は返事を濁し、どこか時間をつぶせそうな所を心の中でいろいろと思い浮かべる。もう、そんな所は全て当たり尽くしたあとだ。

 クラブ活動が終わり、辺りは既に薄暗くなっている。黄昏時というのだろうか、春だというのに、寂しい風が吹いている。

「どうしたんだよ、最近」

「別に」

 今帰れば、きっと鉢合わせをしてしまう。アキちゃんの行動パターンを悲しいくらい知っている。

 中学からの帰り道、この時間だと、絶対帰宅途中のアキちゃんに、会ってしまうのだ。それが以前はとても嬉しかったのだけれど。

「クールになったって、もっぱらの評判」

 西川の言葉に僕は苦笑する。

 クールといわれ、本当にそうだった人を僕は知っている。それがいつの間にか、熱い情熱を手にしていた。僕の憧れを奪って。

「大人になったんだよ」

「お前が言うと、まじに聞こえる」

 意味が違うと訂正しようと思ったが、やめておいた。何もかもが空虚だ。同級生の元気ささえ、くだらなく見える。時にはそれらに無性に苛立つ。

 それをクールになったと言われるのさえ可笑しく感じてしまう。

 小さな重い石は、僕の感情を餌にしているのかもしれない。それならば、もっと、全てを食い尽くして欲しい。

 僕があの人を好きだったということすら、忘れてしまえるほどに。

「どこか、寄って行かないか?」

「ダメ。俺もう、腹減ってたまんないもん。それにお前、本当変な噂でてるぞ。真直ぐ帰ったほうがいいって」

 いろんなところで時間を潰す僕を、変な目で見る人たちがいることも知ってはいたが、それすらどうでも良かった。もう少しの間でいいから、離れたかった。僕のこの腕の痛みが消えるまでは……。

 結局、僕はどこへもいけず、嫌になるほど遠回りをして、帰宅した。

「勝也、あんまり煩い事は言いたくないけど。どうしてこんなに遅くなるのかくらい、訊かせてもらうわよ」

 放任主義に近い母親に珍しく小言を言われて、僕は「ごめん」と小さく謝って、部屋に入った。制服を脱ぎ捨てると、大きな息を吐く。

 いつまでこんな事を続けていられるのか、僕にもわからない。わからないから、苛立った。

 その時、トントンと、ドアを叩く音が聞こえた。少し遠慮がちな、癖のある叩き方は、嫌でも誰だかわかってしまう。ぎくりと固まる僕の気持ちも知らず、その人は僕の名を呼んだ。

「勝也? 入ってもいいか?」

「だめ!」

 きっと、母さんが愚痴を零したのだろう。僕の事なら、誰よりもアキちゃんが諭すのに適任だと判断して。それはあながち間違いではないのだけれど。

「勝也……」

 はじめての拒絶に、アキちゃんがドアの向こうで戸惑っているのがよくわかった。

「とっても疲れてるんだ。陸上部でしごかれて。もうへとへとで眠いから、明日にして」

 しばらくの沈黙のあと、「わかった」とだけ言い残して、階段を降りていく足音が聞こえた。

 僕は詰めていた息を吐き出す。きっと傷ついているだろう。でも、今はまだ自分の感情をコントロールできない。

「ごめん、アキちゃん……。時間が欲しいよ。大人になるための……」

 それで何かが変わるわけではないけれど……。

 

 次の日の放課後、今日も遠回りかとうんざりしていると、校門から少し離れた場所に、見慣れた車が停まっているのが見えた。

「ヒロちゃん……」

 僕が気がつくのと同時に、向こうも気がついたらしく、窓が開けられた。

「乗れよ」

 短い一言に抗えず、僕は助手席に乗りこんだ。

「どこへ行くつもり? ヒロちゃんのマンションなら、お断りだよ」

 僕の不貞腐れた言い方にも何も言わず、兄は車を走らせた。

「ちょっ、ここはもっと嫌だって!」

 車が僕を運んだのは、僕の母校だった。つまり、アキちゃんの職場でもある。

「もう帰ってるさ。お前、昨日言ったんだろ? 明日にしろって」

「……うん」

 つまりアキちゃんは昨日の僕の言葉を信じて、既に今日は家に向かったのだろう」

「何故、気に入らない原因を秋良に向けるんだ、お前は」

「なんのことだよ」

「いずれ、お前と真剣に向き合わなくちゃならないと、こっちは覚悟しているっていうのに」

「それ、どういう意味だよ」

 兄の意外な告白に、僕は両手を握り締める。

 兄は、洋也はウインドーに肘を置き、前髪をかきあげる。その目は遠く、校庭を眺めているようだった。もう、人の姿も見えない校庭を。

「本気なら、奪えばいい」

 僕は兄のその言葉に笑ってしまう。哀しい笑いがこみ上げてきて、怒りさえ湧き起こる。

「じゃあ、くれるっていうの? 僕がそれを望めば」

「誰がそんな事を言った。いつでも、勝負は受けて立つというだけだ。誰にも、それがたとえお前でも、秋良は譲れない」

「だったら、どうしてそんなこと言うんだよ!」

 思わず、手が出た。肩口を掴んだけれど、兄は驚くようでもない。アキちゃんと出会う以前の、冷たい表情で、視線を動かす事すらない。

「お前には、……勝てないからだ」

 勝てないと言う意味がわからず、僕は掴んだ手を離せずにいた。

「秋良にとって、お前は特別なんだ」

「特別?」

「お前が真剣に望めば、秋良はお前を選ぶ」

「そんな事、……あるわけない」

 ずっと、真剣に望んできた。本気だった。その気持ちを否定されたくはない。

「お前が真に秋良を望むなら、奪えばいい。それに対してなら、こちらも真剣に受けて立つ。けれど昨日お前は逃げただろ。どうして逃げる? お前が逃げるのなら、闘うつもりはない。秋良を本当にお前から遠ざけてみせる。それでもいいのか?」

 僕は兄の肩を掴んでいた手を離した。

「もう、だめなんだ。アキちゃんを見れない」

「だったらこう言おう。お前が秋良を苦しめるのなら、許さない」

「よく言うよ、そんな事」

 笑い声が涙で揺れる。

「このまま秋良を避け続けるのなら、一生続けろ。中途半端な事はしてくれるな。あとはこちらでフォローする。お前の事など思い出す隙間も与えないようにしてやるから安心して、思うがまま、秋良から逃げろ」

 兄弟とも思えない冷たい台詞に指先が冷たくなる。

「それが嫌なら、真剣に向き合え。もう、どちらかしかないだろ」

「僕が本気になって、アキちゃんを奪ってもいいのかよ」

「かまわない。お前が幼いのをいいことに、秋良を奪ったのはこっちだ。けれど、譲れと言われても、何もせずに渡したりはしない」

「アキちゃんが僕を選んだら?」

 さっき兄は言った。僕が真に望んだら、アキちゃんは僕を選ぶのだと。兄の本心をきくまでは、勝負は受けられない。からかわれるのはもうたくさんだ。

 この気持ちを、本気だと思わない相手に、玩ばれたくはない。

「消えてやるさ、綺麗に。もうお前たちの前に姿も見せない。それくらい出来る」

「わからない……。ヒロちゃんが何を考えているのか」

 シートベルトを握り締め、僕は首を振る。

「一度しか言わない。言うつもりもなかった事だ」

 兄は一つ溜め息をつき、静かな声で話し始めた。

「僕は、秋良のことで、お前を弟だとは見ていない」

「ヒロちゃん……」

「いつもお前が脅威だった。秋良は無条件でお前を受け入れる。そんな事を許されているのは、お前だけなんだ。お前がそれに気がつくのが怖かった」

「だったら、どうしてわざわざ教えるんだよ」

「お前を、一人の男として認めているからさ」

 兄はハンドルに手を置き、指先でそれを叩く。

「お前が脅威だった、いつも。お前が真剣に秋良を思っている事を知りつつ、俺はお前の幼さにつけ込んだ。秋良を手に入れるために。そしてより、お前に脅えなければならなくなった。だから、いつかこの日が来る事も覚悟していた。弟を選ぶか、秋良をとるかと訊かれたら、僕は秋良を選ぶ」

「僕だって、アキちゃんを選ぶさ」

「分かっている。だからこそ、真に望むなら、逃げずに闘え。僕も逃げたりはしない」

 適わないと思った。兄の真剣さに。

「母さんでさえ、僕の気持ちを思慕だといったのに、どうしてヒロちゃんにはわかるのさ」

「男が、大切な人を『頼む』だなんて、真剣でなければ言えない。本気の想いでなければ、言えないことだ。お前は立派な男だと思う。そんな奴、今まで会ったこともない。そんなに純粋で、深い想いを持った奴から、秋良を預かった。けれどもう、僕は秋良がいくら望んでも、笑って見送ってやるなんで、……出来ない。譲れない。けれど、お前が真剣に望むなら、もう逃げなくていい。いたずらに秋良を苦しめるより、決着をつけよう。『時』が来たんだ」

「いいんだね」

 声が震えた。

 武者震いというのだろうか。兄の真剣さに飲まれたのだろうか。けれど、このチャンスを二度と、兄は、洋也はくれないだろう。なら……。

「秋良が家で待っている。僕はマンションで待つ。秋良に何を言ってもいいが、傷つけることだけは許さない。そして……、簡単には渡すつもりはない。この二つだけは覚えておけ」

「わかってる」

 僕はシートベルトを外し、車を降りた。ここからなら家は歩いてすぐだ。

 兄は何も言わず、車を走らせた。テールランプを見つめ、僕は深呼吸をする。

「負けない」

 呟くように言った。絶対負けない。この想いだけは、誰にも……。

 

 

 ごくりと息を飲み、玄関を開けた。そしてアキちゃんの靴を見つける。

「ただいま」

「あら珍しい、秋良さんの靴を見つけても飛び込んでこないなんて」

 母さんがくすくすと笑う。けれど僕は黙って、自分の部屋へ向かった。ある確信を持って。

 そしてすぐに、僕の部屋がノックされる。

「勝也?」

 不安そうな声に、心が痛んだけれど、僕はその痛みを無視した。今は心の重さのほうが、痛みより苦しいのだから。

「いいよ、入って」

 ゆっくりとドアが開く、そして、愛しい人が、誰よりも大切な人が、ドアの向こうに姿をあらわした。

 入院中は、信じられないくらい痩せていたけれど、ずいぶん血色が良くなっている。まだもとの体重には戻っていないんだろうけれど、それでもその姿を見て、ほっとするのも事実だった。

「勝也、昨日は……」

 そう言ったまま、アキちゃんは口を噤んだ。じっと、僕を見つめたまま。

「アキちゃん」

 乾いた声が出た。

「アキちゃん、僕」

 その次の言葉を言おうとして、アキちゃんを見た。そして、目の前の不安な顔に、あの日のアキちゃんの顔が重なる。

『洋也!』

「僕……」

 言ってしまえばいい。真剣なのだと、愛していると、言ってしまえばいい。アキちゃんならきっと、笑ったりしない。きっと、真剣に考えてくれる。

 けれど……。

『洋也! 帰ってきたんだね! 洋也』

 思い出さなければ良かった。思い出したくなかった。そして辛い記憶は、過去の記憶までをも呼び戻す。

 目の前で、青い顔の先生が倒れていった。胃を押さえ、意識をなくして、倒れて行く姿が……。

「勝也。どうした? 学校で何かあるのか?」

 きっと、アキちゃんにはわかっているのだろう。僕の悩みが自分にあることを。そして、それを口にして欲しくないという無意識の思いが、学校という言葉をアキちゃんに言わせた。

 目を閉じて、僕は僕を殺した。

「そうなんだよー、アキちゃん、もうねー、今度の担任もひどいのー」

 いつもの口調。いつものようにふざけて愛する人に抱きつく。

 そして気がついてしまう。あなたがあきらかにほっと肩の力を抜くのを……。唇が奇妙な笑いの形に歪む。それをその愛しい肩に隠す。

「もう、勝也はー」

 聞こえた声は、安堵に塗りかえられる。

 頭を撫でられる。幼い子だと、確認しているのだろう、残酷な優しい手。

 それでいい。あなたの残酷さなら、僕は受け入れる。

 もう二度と、あなたにあんな顔をさせたりしない。

 ずっと、騙し続けてあげる。






 

叶うなら…… 

このまま、あなたを凍らせてしまいたい。

 僕がもっと、一人前の男として、あなたを迎えられるその日まで。

 けれど、それは叶わない夢。

 だから、凍らせるのは、僕の心でいい。

 もう二度と。

 もう誰も。

 好きになったりしない……。