Suspicion

 




 待ち合わせの時間はもう一時間も過ぎている。
 勝也が待ち合わせに遅れるなど大変珍しいことなので、陽はどうしたのだろうかと心配していた。
 今までにも数度だけ、待ち合わせに遅れることはあったが、事前にちゃんと連絡をくれていて、陽を心配させることなどなかった。
 陽もただ待っているだけではなかった。何度か携帯に電話もし、メールも送信している。けれど携帯は繋がらず、メールの返信もない。携帯は電源を切ってあるか、電波の届かないところにいるので、メールにも気づいていないのかもしれない。
 けれど待ち合わせの時間はもう過ぎているのだし、連絡を取ろうとしてくれるのならば、留守番電話サービスのメッセージにもメールにも気づくはずだと思う。
 一時間を過ぎて、陽は堪え切れなくなって、勝也の家に電話をしてみた。
 もしも、万が一、事故などに遭っていれば、自分の所に電話は来ないと、最悪の事まで考えたのだ。そこまで酷くなくても、熱でも出して寝込んでいるのではと、そちらも心配になった。
 数度の呼び出し音の後、勝也の母の香那子が電話を取った。
「朝比奈ですけど、勝也君は家にいますか?」
 香那子は陽からの電話に愛想良く対応してくれる。
『あら、今日は一緒におでかけだと聞いていたんですけど……。その前に洋也のところへ寄ると言ってたので、何かあったのかしら。ちょっと確認してみましょうか?』
 勝也の兄の名前が出て、久しく忘れていたもやもやが胸の中に渦巻き始める。
「いえ、じゃあ、僕の方から電話をしてみます」
 そう言って電話を切ったものの、『向こう』へ電話をかける気にはなれなかった。
 普段なら間違いなくかけていただろう。何も気にせず、勝也はそこにいるかと聞けただろう。
 けれど一時間以上を心配して過ごし、イライラし始めたところへ、あらたに不安の種を植え付けられて、とても平静で電話をかけることはできそうにもない。
 それはもう、嫉妬というもので間違いなかった。
 ずっと忘れていたもの。いや、忘れようとしていたもの。
 勝也の気持ちを受け入れてからは、疑う気持ちも持たなかった……と思う。それは勝也が、常に自分を優先してくれていたからだ。
 なのに何故……。
「お兄さんの家なら、余裕で電波が入るじゃないか」
 だから携帯が通じない理由を、悪い方向へと考えてしまう。
【待ち疲れた。もう帰る】
 イライラの勢いに任せてメールを送る。
「バカ」
 メール送信完了のメッセージに向かって文句を言ってみた。

 マンションに帰った途端、携帯が鳴り始めた。
 ディスプレイを見ると、勝也からである。
 何を今更、と思うと、出る気にもなれず、鳴り終わるのを待って、電源を切ってやった。
 あとはどうにでもなれという心境である。
 言い訳なんか聞きたくもない。
 陽はイライラしたまま、外出用にきていたジャケットを脱ぎ捨てる。
 今度のデートの時にこれを着て来てと言われて、勝也からプレゼントされた藍色の薄手のジャケットは、陽も気に入っていて、大切に着ようと思っていたものである。
 部屋に一人でいると、だんだんと後悔が押し寄せてくる。
 こんなに怒る必要などなかったのではないか。
 理由も聞かずに勝也からの連絡を拒絶するなど、とてもおとなげない行動だ。自分らしくない。これじゃあまるで冬芽と同じじゃないか。
 携帯の電源を入れてもう一度勝也に電話をしてみる。それが一番いいのはわかっているが、どうしても動く気になれない。
 陽は情けなさに押しつぶされそうになりながら、掃除機を取り出した。何かをしていればくよくよと考えなくていいかもしれないという、逃げの方向性だ。
 コードを引っ張り出して、コンセントに入れたところで、玄関のインターホンが鳴った。
 もしかして……と身体を固くしていると、もう一度インターホンは鳴って、立て続けにせわしげなく鳴り続けた。
 慌てて玄関に走る。
 スコープから覗くと、丸い小さな窓の向こうに、勝也が立っていた。
「開けて、陽」
 ドア近くに立つ陽の気配に気づいたのか、勝也が頼み込む。
 ふうと一つ深呼吸をして、陽はドアを開けた。
「ごめん。遅くなって」
 ドアに入るなり、勝也は頭を下げた。陽は何から言えばいいのかと、言葉もなく勝也の頭を見つめる。
「ほんと、ごめん」
 頭を上げた勝也は真っ直ぐに陽を見つめてきた。曇りのない瞳が、真摯に自分を見つめてくる。
 何を疑っていたのだろう……と、陽はそれのでの自分がバカらしくなってきた。
「何してたんだよ」
 それでも、一度生まれたこのつまらない嫉妬心を消して欲しい。それは勝也にしかできないことなのだ。
「いや……あのさ」
「隠すなよ。お前が今までどこにいたのか、俺は知ってるんだから。隠されたら、何もかも疑ってしまう」
 傷つきたくない。疑いたくない。陽は必死で感情を押さえ込みながら尋ねた。
「兄貴は今アメリカに行ってて、向こうからデータを送って欲しいって言われて、すぐに済むはずだったんだ。実際にすぐに終わったんだよ。で、帰ろうとしたら、秋良さんの悲鳴がして。それで慌てて戻ったら、あそこんちの猫が怪我してて、秋良さんがパニクってて、急いで病院に連れて行って、治療してもらってる間も猫が騒いじゃうもんだから、電話できなかったんだ。家まで送って行って落ち着いたところで、電話見たら、どうしてだか電源切ってしまってて。ほんと、ごめん」
 聞いている間に、またイライラしてくる。
 どうしてあの人にそんなに親切にするんだよ。
 つい口に出してしまいそうになる。
「俺のことなんて忘れてたんだな」
「違うよ。……でも、待っててくれるって、甘えてた。ごめん」
「許さないって言ったら?」
 どうしてもイライラが消えずに、それをぶつけてしまう。勝也が甘えていたと言うのなら、自分も勝也に甘えている。このイライラを消してくれるのは勝也しかいないのだから。
「許してくれるまで謝る」
 予想した通りの答えにほっとする自分がいる。
 猫は大丈夫だったのかと聞こうとした所へ、勝也の電話が鳴る。
 勝也はそれに出ようとせず、陽を見つめ続ける。
「出ろよ」
「いや、いいよ」
「誰からだよ」
 勝也は渋々という様子で、電話を取り出して、着信の相手を見て顔を顰めた。
「あの人から?」
「……まぁ、そう」
「出れば?」
 勝也は首を振って、陽がしたのと同じように、電源を切ってしまった。
「待ち合わせに遅れたからって、心配して電話をくれたと思う。自分も謝りたいって言ってたから」
 そんなことされたら、笑ってかまわないですよと言うしかないではないか。
 あの人なりの気の遣いようではあるが、今はそれが煩わしくてしようがない。
「俺はまだ許してないぞ」
 遅れたことなんて、どうでもいい。事故や病気を心配して、それが外れていたのだから、むしろ良かったと思うくらいだ。
 ただ、あの人を優先し、自分に連絡がなかったということが悔しいのだ。
「ごめん。……ほんと、ごめん」
 何度も真面目に謝る勝也に、陽は自分から抱きついた。
「陽?」
「俺はただやきもちを妬いているんだからさ、そんな必要ないって、抱きしめればいいんだよ。ほんとバカだな、お前」
 身体中から生えている棘を、その大きな優しい手で払い除けて欲しい。
 陽が甘えてみせると、勝也はぎゅっと抱きしめてくれる。
 それだけで凍えていた息が融けるようだ。
「今度したら許さないからな」
「絶対しない」
 ずいぶんな我が侭だと思う。それなのにきっぱり宣言する勝也に笑ってしまう。
「猫は大丈夫だったのか?」
「軽い怪我で、すぐに治るって」
 電源を切ったままの携帯は気になったが、勝也がここにいるのなら、それ以上の心配はない。
 陽が勝也の腕の中で顔を上げると、真剣な瞳が自分を見ていた。
「愛してる。陽だけだよ」
 もうその言葉を疑わない。
 陽が微笑む。
 その綺麗な微笑みに、勝也は感動の溜め息をついて、唇を重ねた。