SAYONARA
「おめでとう、勝也」 高校の合格発表の日、僕は秋良さんに祝ってもらった。発表を見て、家に電話して、その足で彼の学校へ飛んで行った。 休み時間になって、職員室に戻ってくる彼を捕まえるのはたやすく、僕は勝利のサインを送る。 その時の秋良さんの笑顔。それが僕にとっては、一番のお祝いになる。 「それでね、入学式での挨拶、頼まれたんだ」 「すごいじゃないか。勝也なら、堂々としているだろうなぁ。見てみたいな」 そういって微笑んでくれるのが、僕には一番大切なこと。 彼の仕事が終わるのを待ちかねて、一緒に家に帰る。彼が僕の兄と暮らす家。そこへ足を踏み入れるのは、正直なところ辛い。 二人の生活を垣間見るのが辛いのだ。けれど、どうしても僕はこの人から離れられない。 はじめて出会った時、彼は僕の前に教師として立った。 頼りなさそうな先生。からかえば面白いかもしれない。 そんな先生は、けれど僕の中でその印象を見事に変えていった。 頼りないのは事実。けれどその真っ直ぐな真剣さは、当時の僕にとっては脅威ですらあった。変に大人ぶっていた僕を正面から見てくれた。 その薄い色の瞳に囚われた。そして目を逸らせられなくなった。 けれど……。 「今日、洋也は遅いんだ。直接、向こうに行くんじゃないのかな」 秋良さんは自分の部屋で着替えながら、僕に教えてくれる。僕の家での祝賀会に、当然ながら、二人を呼んだ。 「着替えなくてもいいんじゃないの?」 ドアの所で立ち止まり、僕は彼の横顔を見つめていた。 「うん、でもさ、一日学校にいると、結構埃まみれになるんだよ。お母さんに悪いだろ」 自分に惚れている男の前で、遠慮もなしに、秋良さんは布を剥いでいく。 薄い肩の線、淡く影を落とす鎖骨。 見ないでおこう、見るなよと念じながら、僕はそれらから目を離せなくなっていた。 「合格のお祝い、何がいい?」 薄い乳首の色に喉がからからになる。 「勝也?」 「え?」 慌てて顔を背ける。 「何、アキちゃん」 いつもの様に、明るい声を出さなくては。そう思うのに、どうしても声が掠れてしまう。 「合格祝いは何がいい?」 「うーん、何にしようかなー」 笑って言ってあげなくちゃ。脳はそう命じている。絶対買えないような物を言って笑わせて、適当に僕達の年代が欲しがるものを言ってあげなくちゃ。 そう強く思うのに、どうしても言葉が出てこない。ちらちらと、白い肌が目の端に映る。そしてその向こうのベッド。 そのベッドが長く使われていないだろうことは、ベッドカバーが深くかけられていることからもわかった。 「どこかに出かけるのでもいいよ?」 僕が迷っていると思っているのか、秋良さんが遠慮はするなと提示してくれる。けれど、僕が一番欲しいものは、だめなのだ。 奪うつもりはない。それは、わかっているのに。わかっているのに、言葉が出てこない、いつもの軽い調子の言葉が。 「勝也? 言わなきゃ、何もなしだぞー」 冗談混じりに、秋良さんは近づいてくる。細い腕を伸ばし、僕の耳朶を軽く抓んだ。 「都庁なんて、買えない物もなしな?」 クスクスと笑う、その優しい声に、僕は熱く苦い想いが喉元を駆け上がるのを感じた。 「アキちゃん……!」 「勝也、こら」 いつものおふざけと思っているのか、秋良さんは背中から僕に抱かれた姿だけれど、ちっとも慌てていなかった。それが何故か急に腹立たしくなった。 「勝也、離さないと、何も買ってやらないぞ」 前に回された僕の手をトントンと宥める様に叩く。 だめだと、頭ではわかっているのに、明るい声でびっくりした?と言いながら離れろと自分に命令しているのに、どうしても出来ない。 「勝也」 不安そうな彼の声に、早く離してやらなければと言い聞かせているのに、それは出来なかった。 「勝也、どうした?」 暖かな手を重ねられて、涙が出そうになった。 どうして、僕のものじゃないんだろう。最初に見つけたのは僕なのに。 秋良さんは僕の腕の中に、すっぽりとおさまる。 もう僕は、アキちゃんに泣きながら、しがみついた僕じゃない。秋良さんよりずっと大きくなって、もうこうして抱きしめられる。 鼻先で柔らかい髪が揺れている。甘い匂い。僕が抱きしめるのに、何がいけないと言うのだろう。 「勝也」 きつく力をこめても、秋良さんは逃げる様子を見せなかった。きっと、僕の鼓動は伝わっているだろう。どきどきと、勢いよく打ちつける心臓の音が。 けれど秋良さんは責めるでもなく、逃げるでもなく、じっと、僕の腕に抱かれるままになっている。 「欲しい」 決して言うまいと思っていた言葉。一生、飲みこんで、口にするまいと決めていた想い。騙し続ける自信さえあった。 「あなたが、欲しい……」 それは、口にすれば、ひどく簡単なことのように思えた。 暴れて逃げ出すかと思った人は、けれど、静かに僕の手に、その優しい手を重ねた。 「抱けよ」 空耳かと思った。自分に都合のいい、幻聴かと思ったりした。 「抱けよ。そんなに欲しいのなら、抱けばいい」 けれど、空耳なんかじゃなかった。 「身体だけでいいのなら、勝也のものになってやる」 ぴくんと震えた僕の手を、彼は強く握り締めた。 「本気にするよ」 不思議と、声に震えは出なかった。どこか、現実ではないと思っているのだろうか。 「兄さんには、なんて説明するのさ」 本気じゃないくせに。そう思った。兄を出せば、慌てて逃げ出すんだろうという苛立ちが募った。 「洋也は、関係ない」 「何故」 「お前のためなら、騙し続けてあげる」 「そんなこと、できるわけないじゃない」 きつく抱きしめる。きっと秋良さんは自分の言っている意味がわからないのだとさえ思った。 「出来るよ。出来る。勝也のためならね」 そうして秋良さんは、今着たばかりのシャツのボタンを外そうとした。 「いつか、越えなくてはいけない壁なら、勝也だけに責任を負わせたくない」 その言葉が、ゆっくりと、僕の身体の中に満ちて来る。 「この日が来るのは、わかっていたから」 優しい声は、はじめて出会った頃から何も変わらない。秋良さんの純粋さの証明のようでもあった。 「今まで、勝也が僕に甘えてきてくれたのは、僕のためだと知っているから」 僕はゆっくり目を閉じる。 「ずっと、可愛い勝也を演じてくれていたこと、知ってる。ごめんな」 「どうして謝るの」 「わかってても、そうしてくれていることに安心していた」 「アキちゃん……」 静かな室内に緊張が走る。 「それは僕の罪だから」 「あなたは悪くない」 「だけど、心はあげられない。僕は……、僕は」 僕は愛しい身体を拘束していた手を解いて、口を塞いだ。それ以上は言わなくていい。 「いいんだ。僕が好きなのは、僕の自由だから」 だから、あなたの気持ちも自由なんだ。 「今の言葉が、僕にとっては、最高のお祝いだよ」 そっと、手を離す。 ドアの所までじっと見つめながら退いた。 「外で……、待ってるね」 そういって笑うと、秋良さんの目から、涙が溢れて頬を伝った。
その涙だけは、僕のもの。 僕の宝物。 それだけでいい。 いつだったか、兄の言った言葉の意味を、僕はこの時はじめて知った。 『お前が真に望めば、秋良は受け入れるだろう』 その事実だけでいい。あなたを壊したくはないから。 だから、僕はまた『僕』に戻ろう。 「アキちゃーん、まだぁ?!」 もう少しー、と、中から元気な声が応える。 あなたは必ず答えてくれる。 それだけで、いいんだ。 それだけで……。
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