Miracle Moon






 突然、秋良が自分の恋人ではないと告げられて……。勝也は混乱した。

 どうして? 何故?

 けれど、何度確かめても、その事実は変わらなかった。そして目の前に突き付けられたのは、自分がどこか別の世界に飛ばされたのだろうということだけ。

 大切な秋良は自分の兄、洋也の恋人だという……。あれだけ酷く秋良を批難し、二人を引き裂こうとしたというのに。あんなに、洋也のことを苦手にしていたのに。

 けれど、ここでの洋也は確かに秋良を大切にし、今まで見たこともないような目で、秋良を見つめている……。

「嫌だ……」

 どうすれば帰れる? どうすれば帰れる?

 必死で考えたけれど、その答は誰も持っていなかった。

 困ったように見つめる、兄と秋良。

 そして気がついた。

 ここにいた勝也と自分が入れ替わったとすると……。

 向こうで勝也はきっと、秋良が洋也の恋人だと言うのではないだろうか……。

「無茶苦茶だよ。どうしよう」

 きっと秋良は酷く傷つく。

「ここにいた勝也って、秋良のこと好きだった?」

 勝也が『秋良』と呼ぶたびに、兄は複雑そうな顔をした。けれどそんなこと、一々気になどしていられない。

 けれど、秋良は答えなかった。勝也は無表情で黙り込む兄にその答えを見つける。

 同じ気持ちなのだ。俺とこっちの勝也は……。

 それならば、秋良を傷つけることだけはしないだろう……。けれど……、けれど。

 戻れないかもしれない。もう二度と、秋良をこの手に抱けないかもしれない。

 刺すような痛みに襲われる。

 嫌だ。嫌だ。

 夏休みはゆっくり二人で過ごすはずだった。学生であることや、教師であることを除けば、きっと気分も変わるのではないかと思っていた。

 毎日、些細なことで喧嘩をした。

 秋良は自分を子供扱いしたし、自分も背伸びをすることに疲れていた。

 子供じゃないと突っ張り、秋良に恋人として扱えよと責めた。

『いつまでも秋良の生徒じゃない!』

 そう言って、ベッドから飛び出そうとして、転んで……。気がつけばこの世界に飛ばされていた。

 何してたんだよ、ここの俺は。

 秋良を兄に奪われるなんて。バカじゃないだろうか。もう一人の自分が情けない。

 

「洋也、ちょっと、二人にして」

 勝也は秋良の部屋へ、連れていかれた。はじめて見る、秋良の部屋は、どこかあの部屋に似ている。空気が持つ、雰囲気なのだろうか。

「勝也、向こうで何か、悩んでた?」

 秋良に問い掛けられ、勝也はつい顔を背けてしまった。そんなこと、秋良に向かって言えるはずがない。

「僕が勝也に、悩ませるようなこと、言ったのかな?」

 勝也は咄嗟に首を振る。

「向こうにいる僕が勝也を選んだのなら……。僕にはその気持ち、わかるような気がするよ」

「え?」

 勝也は不思議そうに秋良を見た。

「君は今、とても苦しそうな顔をしている。早く帰りたいんだろ? 何か、言い残してきたことがあるみたい」

 勝也は何も言い返せず、唇を噛んだ。

「僕もね、勝也が好きだよ。多分、誰よりも、勝也が大切」

「だったら!」

 勝也の切羽詰った問いに、秋良は悲しそうに首を振った。

「だけどね、僕に必要だったのは……、勝也じゃなかったんだ。ある日の運命が、たった一つ掛け違えただけで、こんなにも変わるんだね。僕を必要としてくれるもう一つの手を見つけてしまった」

「それがヒロちゃん?」

「うん……。僕にはその手を取るほうが容易かった」

「ヒロちゃんは、大人だもんね」

 不意に、優しい感触に包まれる。秋良の胸に、頭を抱きこまれたのだと知った。

「違うよ。そんな風に考えちゃダメだ。勝也は勝也で、洋也は洋也。大人とか、子供とか関係ないんだ。僕は勝也が子供だからって、嫌いになったりしない。勝也の真っ直ぐさが好きで、そして同時に、恐くもある」

「恐い?」

 勝也が聞くと、くすりと胸が揺れた。

「多分……、向こうの僕も、その真っ直ぐさが恐いんだよ。自信が……、ないんだね。自分が勝也の将来を曲げてしまうんじゃないだろうかと思って。それを手放せない、自分が醜いと、思っているよ」

「秋良」

 勝也は秋良にしがみついた。思えば……、いつも秋良を抱きしめることはあっても、こんな風に抱きしめられたことはなかった。勝也の胸に広がるのは、暖かで穏やかな安堵感だけだった。

「一人で走ろうとしないで。きっと君が、僕と同じ物を見ようとしてくれたら、分かり合えるよ。年が違っても、立場が違っても、同じ物を見ることは出来るじゃない? 同じ位置に立つより、同じ物を見て、同じ気持ちを抱くことのほうが大切だよ?」

「秋良……」

 抱きしめる手に力を込める。柔らかで甘い匂いは、少しも変わることがなくて……。この身体は、自分のものだと思えて……。

「秋良、もう、戻れないかもしれない」

「諦めないで」

「嫌だ。待てないよ。秋良も僕のこと、好きだったんだろ? この世界にいる間だけ、僕の恋人でいて」

 勝也は甘い胸から身体を起こし、秋良を見た。瞬間的に、秋良の瞳に怯える色が走る。

「ヒロちゃんには黙ってる。絶対ばれないようにする。だから!」

 勝也は秋良の顎を捕らえ、顔を近づける。だが、秋良はそれを必死で押し返そうとする。

「やめ、……勝也」

「お願い、秋良。ここにいる間だけでいい。俺、秋良がいないと……」

「くっ……」

 互いの手が、相手を掴もうとし、相手を押し返そうとする。そして、そのまま床に倒れこむ。

「やめろ、勝也!」

「嫌だ。僕のものだ。秋良!」

「いや! やめろ!」

 必死の抵抗にあい、勝也は悲しくなる。こんなにも、こんなにも愛しているのに……。

「お願いだよ、秋良。僕を拒まないで……」

 勝也がシャツのボタンに手をかけると、秋良はその手首を掴み、引き離そうとする。ボタンが一つ、弾け飛んだ。

 現われた薄い肩に、勝也は唇を押しつけ、強く吸う。

「嫌だ! やめろよ!」

 秋良の叫び声に、ドアが激しくノックされる。二人とも一瞬、身体を凍りつかせる。

「秋良! どうした!」

「開けるな! 何でもないよ。なんでもない。入って来ないで、洋也」

「大丈夫なのか?」

 扉の向こうの心配そうな声。それに向かって秋良は、大丈夫だと答える。

「どうして助けてって呼ばないの?」

 秋良の頬に、勝也の涙が落ちる。

「君は、僕を抱けないよ。だって、僕は君の好きの秋良じゃないもの」

「秋良……」

 秋良は微笑んで、再び勝也の頭を両手で引き寄せた。

「好きだよ。だけど、君も僕の勝也じゃない。僕の勝也が本当に僕を望むのなら、僕はこの身体をいつでも投げ出せる。けれど、君は僕の勝也じゃないもの」

 震える肩は、確かに秋良よりも広く、大人びていた。けれど、そこにいるのは紛れもなく、必死で大人になろうとしている、また成長途中の勝也だった。

「こっちの俺、あなたに愛されてるんだ……」

 ぽつりと漏れる言葉に、秋良は、肩を撫でてやる。

「君のことも……、好きだよ」

 その言葉でわかった。こんなにも、秋良は広い愛で自分を見てくれる。その広さを認められなかったのは、自分だ。

 秋良はきっと、向こうとこちらで、自分たち兄弟をそれぞれに救ってくれた。

 自分はきっと、それを知る必要があった。

 好きだと言う気持ちだけをもって、秋良を見つめ、苦しめていたことを知るために……。

「帰りたい……」

 帰って、秋良を優しく抱きしめ、そして、こんな風に抱きしめられたい。

「帰れるよ、きっとね」

「うん……」

 もうしばらくだけこうしていさせて……。

 勝也はそっと目を閉じ、息をつく。優しい鼓動が、聞こえてきて、泣きたいほど、幸せだった。