Jealousy
「三池、なんか、鞄が動いてる」 登校したばかりの勝也が鞄を机の上に少々乱暴に置くと、隣の席の同級生が顔を引きつらせながら、勝也の鞄を指差した。 「え?」 なるほど、鞄を見ると、ごそごそと何かが動いている。確かに。 動くはずのないものが動くと、とても気持ち悪い。見ているものをホラーチックな世界に呼んでいるようで。 けれど勝也には、その正体がなんであるのか、ある程度予想できた。 「げっ、どうするよー」 そのまま押し込めていられる訳もないので、勝也は鞄を開けた。中のものを傷つけないように。もしも傷つけたりしたら、怒る兄などは気にしないが、あの人を悲しませるということが、気がかりだった。 「にゃー」 予想していた通り、鞄の中からは白い小さな猫が顔を出した。閉じ込められて窮屈だったのか、顔を出してしきりに鳴いている。 昨日から秋良が修学旅行の付き添いで出かけ、兄も何やら急ぎの仕事があるとかで、母親がミルクを預かっていた。それが何故、勝也の鞄に入ってきたのかは謎……、多分、お弁当を入れるために開けていた鞄に悪戯で入りこみ、勝也が気づかずにお弁当を入れて閉め、そのまま家を飛び出してきた……。 「お前ー、良く潰れなかったよなー」 心底ほっとする。この小さな猫に何かがあったら、怖いのは兄ではなく……。 「ひゃー、ちっせぇー。これ、三池んちの猫?」 同級生達がミルクの鳴き声に呼び寄せられるように勝也の机の周りに集まる。 「あー、まぁ、そう」 勝也は答えながら、ミルクが鞄から飛び出さないように背中を押さえ、ポケットから携帯電話を取り出した。短縮で家に電話をかける。 「…………出ねえよ。あー、もう、探しに出てんのかな」 家への電話を切り、母親の携帯を呼び出す。今度はすぐに繋がった。 「あ、母さん、ミルクが俺の鞄に入ってたんだよ」 『えー? どういうこと?』 どうやらミルクがいなくなったことに気がついていないらしい。 「だから、ミルクが俺の鞄に入っちゃってて、学校まで連れてきたんだってば。このままってわけにいかないから、引取りに来てよ」 『ダメよー。これから料理教室なんだもの。洋也に電話するか、職員室で預かってもらって』 「んなこと、できるわけないだろ」 のんびり話す母親に切れそうになりながら、勝也は必死で訴えた。もうすぐ予鈴が鳴りそうだ。 『じゃあ、早退したら? ミルクに何かあったら、秋良さんに申し訳ないでしょ?』 「だからー、預かったの、お袋だろっ! 学校サボれなんて言う親がどこにいんだよ」 『今、ちょっとだけ迎えに行こうかなーと思ったけど、そんな言い方する息子の言うことなんて、聞いてやらない』 「おいっ!」 すぐ拗ねるんだからっ! いや、下手に出てお願いするべきだったか。勝也は情けない顔で、切れた携帯を、のろのろとポケットに戻した。 洋也に事情を話せば、確かに迎えに来るだろう。この猫のためなら。それが秋良にどう伝わるかを考えたら、やはり頼みにくい。 「おふくろさん、来れないって?」 一部始終を聞いていた同級生達が面白そうに勝也を見た。日頃クールな勝也が母親にやり込められた場面を見たのが面白いのだろう。 「あれ……、ミルク?」 勝也の背後から、ひょこっと京が顔を出した。それまで怯えたように首を竦めていたミルクが嬉しそうに、京に向かって甘えた声を出した。 「何、月乃、この猫知ってんの?」 普段余り感情を出さない京が、その小さな猫を見て、優しい表情を浮かべるのに、同級生達は驚きをもって見つめた。 「……うん」 話しかけられると、途端に京は表情を消す。 京が鞄の中に両手を入れてミルクを抱き上げたので、勝也は押さえていた背中を離した。 「連れてきちゃったのか?」 「入りこんじゃったんだよ。あー、もう」 「香那子さんに迎えに来てもらえば?」 「料理教室だってよ」 勝也が答えたとき、予鈴が鳴った。もうすぐ担任がやってくる。勝也の周りにいた同級生達も自分の席に戻っていく。 「どうする?」 京は勝也の前の席なので、ミルクを抱いたまま自分の席に座り、後ろを向いて勝也に尋ねた。 「ヒロちゃんに迎えに来てもらうよ。それまで鞄の中に入れとくしか……」 「可哀想だよ」 仕方ないだろうと答える前に教室の扉が開いた。担任がやってきたのだ。 「おはよう」 いつものように、教室全体を見回して、欠席者がいないか確かめていた陽の目がある一点で止まる。 「月乃……、それは、ぬいぐるみか?」 京が抱いている小さな白い猫を認めて尋ねると、生徒たちが笑った。 「生きてます」 受け答えとしては合っているが、妙に噛み合わない二人の会話に、生徒たちは余計に笑う。 「生きてるって……。学校にそんなもの持ってくるのは」 「月乃が連れてきたんじゃなくて、俺です。俺の家の猫」 京の後ろから勝也が立ちあがって、弁解した。 「三池の?」 お前の家は猫を飼ってなかっただろう……、と言いかけて、陽ははっと口を閉じる。勝也の家のことを知っているような発言はしてはいけない。 「はい」 「そうそう、先生、勝也の鞄から出てきたんだよ」 「家の者に迎えに来てもらいますから」 戸惑う陽に、勝也は言ってから、京に向かって両手を差し出した。ミルクを引き取ろうとしたのだが、ミルクは久しぶりに会った京から離れようとしない。 昨日、散々苛められた、……勝也は遊んでやったつもりだが……、勝也より、いつも優しく撫でてくれる京のほうが良いのは、まぁ当然と言えば当然で。 ミルクは京から離れまいと、学生服に爪を立ててしがみついている。 「三池より月乃の方になついてるじゃん。どっちの猫かわかんねーよな」 同級生のからかいに、勝也は溜め息をつく。 「俺、連れて帰ってようか?」 京が内緒話をするように囁くが、まさか友達をサボらせる訳にもいかない。 「こら、ミルク。お前ー」 勝也がむきになって京から猫を引き剥がそうとするものだから、ミルクはますます京にしがみつこうとし、京はその小さな身体が乱暴に扱われることに心配して勝也の大きな手からそれを守ろうとして……。 「なーにいちゃついてんの、お前ら」 ぴゅーと口笛が鳴り、二人はぴたりと動きを止める。 勝也が顔を上げると、冷めた目で、陽が勝也を見ていた。 「すぐに電話してきますから」 勝也は諦めて洋也に電話をかけることにした。まさかミルクも、洋也より京の方がいいとは言わないだろう。 「生物部に確か空いているケージがあったはずだから、借りてこい。授業の間は……、僕が預かるから」 勝也と京が立ちあがり、揃って教室を出た。生物部が部室として借りている第一実験室にはケージは見当たらず、隣の準備室を覗くと、そこに少し大きめのケージがあった。 「ほーら、ミルク、入ってような」 京がそっとミルクをケージの中に入れると、ミルクは不満そうに鳴いた。 「可哀想に」 「仕方ねーよ。自分の悪戯のせいだもんな」 陽の冷たい視線を思い出し、勝也は子猫にやつあたりをする。 「何かやらなくて平気かな?」 「あとで牛乳か、パンか買ってくるよ。ヒロちゃんならすぐに来てくれるだろうし」 溜め息をついて洋也に電話をかける。が、洋也は応答に出なかった。 「どこ行ったかなー、もうー」 勝也はケージを持ち上げ、二人で教室に戻るために廊下を歩く。教室に戻るまでに、ホームルームを終えた陽と出くわした。 「職員室で預かるから」 「はい。京、悪かったな」 勝也が京の肩を叩くと、京はミルクを心配そうに見てから、陽に会釈をして階段を昇っていった。 勝也は陽の後ろをついて階段を降りる。 「猫なんて、いつから飼い始めたんだ?」 「俺の家の猫じゃないよ」 職員室へ向かう階段に人影はなく、勝也は少し砕けた言い方をした。 「じゃあ、月乃の猫か?」 「違うって。ヒロちゃんちの猫だよ。昨日から預かってたの」 「だったらどうして月乃の方になついているんだ?」 担任の自分やクラスメイトにも、あまり感情や表情を見せない生徒だが、唯一勝也とだけは親しそうに話をする。その間にはいつも割りこめないような空気を感じてしまう。 勝也の方も、友達はたくさんいるが、京には親しさを通り越した優しさを見せる。 そのわけを勝也自身から聞いてはいたが、頭では納得できても、気持ちが時折、不安を訴える。 「さあ? 俺はこの猫好きじゃねーけど、京は好きなんじゃないの? 動物って、自分を好きになってくれる人を見分けるって言うから」 「好きじゃないのに預かったのか?」 勝也は1階に降りたところで陽の腕を引き、来客用の玄関へと入りこんだ。 「三池っ!」 陽は慌てて逃れようとするが、勝也はケージを下に置くと、細い身体を抱きしめた。 「勝也、……やめろ」 抱きしめてくる身体を押し戻そうと腕を突っ張るが、勝也はびくともしなかった。 「ねぇ、……もしかして、妬いてくれたの?」 「…………」 もしかしてじゃない。心の中ではそう言っていたが、それを口に出せなかった。 抵抗をやめた陽を、勝也は強く抱きしめる。 「陽……、好きだよ。陽だけ」 知っている。信じられる。少なくとも今は。 「この猫、あの人のか?」 けれど、その人が自分の心から消えてくれる日は来ない。 あの人の猫だから、嫌いなのか? こんな小さな生き物に、妬くくらい、お前はまだ……。 「陽……」 誤魔化すように口づけられ、陽は目を閉じた。 自分は勝也の同級生に妬いたのだろうか、それともまたあの人に? この小さな猫に? わからないまま深く口内を舐められ、逞しい背中に腕を回した。 結局、洋也に電話は繋がらず、あと二人の兄も大学にいて抜け出せないとかで、ミルクを迎えにきたのは母親だった。 「お前、あの猫、どうして嫌いなんだ?」 放課後、二人きりになって、陽はもう一度尋ねてみた。落ちついて考えてみれば、勝也がそんなやきもちで小さな生き物を嫌ったりするだろうかと、不思議に思ったのだ。 「だって、持っただけで潰しそうだもん。小さくて、ふにゃふにゃで。嫌いなんじゃなくて、怖いんだよな。でも、怖いなんて恥ずかしくて言えないよね?」 陽は自分が勝也にまんまと騙されたような気がしたが、それを訊くのはやめた。 自分も怖かったのは同じだから。勝也の周りのもの、どんなものにでも嫉妬を感じる自分が。 あの人だけでいっぱいだった嫉妬が、すべてのものが対象になるなんて。 それがごく普通のことだと、勝也が陽に教えるのは、もう少し後のこと。 |