For the First Time

 

 

 

「会って欲しい人がいるんだ」

 勝也が言いにくそうに切り出した時、陽はとうとう来たかと、予期していたとは言え動揺してしまう。心が騒つく。

 勝也を信じないわけではないが、その人と勝也が二人並んだ時、自分はどんな顔をすればいいのだろうかと……、いや、どんな顔をしてしまうのだろうか、それが不安なのだ。

「……それって……」

 陽は動揺を押さえ込むように、勝也を見た。

「うん、……秋良さん」

 その名前にどきりとする。まだ、無理だ……。会いたくなどない。

 自分の狭量さに嫌気がさしながらも、会わせようとする勝也に腹さえ立った。

「陽が嫌なら、無理にとは言わないから……」

 二人きりでいると、勝也は陽のことを『アキラ』と呼ぶようになっている。

 彼のことは『アキラさん』か『アキちゃん』と呼んでいるので、陽には違いはわかる。わかるのだが……。

「俺が断わったら、お前、困らないのか?」

 わざわざ自分に尋ねるというのは、相手との約束があるのではないだろうか。陽は以前秋良と会った時、『次に会った時ははじめましてって挨拶します』と言われたのを思い出す。

 それは勝也が恋人を紹介してくれるという約束があるように思えた。

「困らないよ。無理しなくていいから」

 勝也は笑って陽の肩を抱いてきた。勝也が借りているアルバイトの宿泊施設が、いつのまにか二人のデート場所になっている。

 勝也はどこかに出かけようと気軽に言うが、二人で出かけて他の生徒に会ったらと思うと、楽しめそうにないので、もっぱら陽の車でドライブかこの部屋で過ごすことになってしまう。

 はじめてこの部屋に来た時に比べると、それなりに物が増えている。最初はベッドと簡易テーブルしかなかったのだ。

 勝也は陽のためにソファを入れ、テレビとビデオを置き、簡単な料理もできるように調理道具も揃え始めた。

「明け渡す時に大変になるぞ」と陽が言えば、「どこかに落ちつきたいんだけれどねぇ」と勝也は笑うが、高校生の一人暮しは良くないと陽も思う。

「むこうは……何て言ってるんだ?」

「何も言ってないよ。ただ、昔に約束したから、先に陽の気持ちを聞こうと思っただけ」

 勝也の説明に、やっぱりなと陽は溜め息を隠す。

「約束を破ってもいいのか?」

 勝也は陽の言葉に、唇だけで笑った。

「いいよ。そんな約束より、陽が大切」

 少し強い力で抱き寄せられる。こめかみにキスをされて、陽は心に刺さった棘がぽろぽろと落ちていくような気がした。自分の気持ちを優先してくれるという勝也に嘘はないだろう。だったら、約束を破らせたくない。

「わかった。会ってもいい」

「…………いいの?」

 勝也が心配にそうに陽の顔を覗き込む。陽は微笑んで、頷いた。

 陽の笑顔に、勝也はほっとして、唇に優しいキスを落とした。

 

 

 勝也と駅で待ち合わせた。

 どこか喫茶店などで会わされると思っていた陽は、勝也が電車に乗るのに、慌ててついていく。

「どこまで乗るんだ?」

 乗車駅からの金額だけでは、どこに着くのかもわからない陽は、電車に揺られながら聞いた。勝也の言った駅の名前は、彼の自宅の最寄駅だった。

「もしかして、……お兄さんの家に行くのか?」

 たしか独立して、二人で住んでいると聞いていた陽は、そこを訪問することで俄かに緊張する。

「うん……まあね」

「だったら、……車で来たのに」

 そうすれば、すぐにも帰れる気がして、陽は小さくぼやいてしまう。

「でも、多分アルコールなんかも出るから、帰りは送ってく」

「ちょっと待て。もしかして、食事の用意とかしてたりする?」

 陽が眉を寄せて聞くと、勝也は微妙に頷いた。

「それなら早く言えよ。何も持ってきてないじゃないか」

 大人の常識として、他人の家に訪問するのに、手土産もなしというのは、あまりにも気が引ける。

「必要ないよ。そんなこと気にしなくていいって」

「そういうわけにいかないんだよ」

 陽は勝也を小突いて、むっとしたように横を向いた。

「参ったなぁ。本当に、そんなこと、気にしなくていいのに」

 勝也はのんびりと言う。

「お前がお兄さんの家に遊びに行くのとは違うんだから……」

 少し気が重くなった陽は、つい愚痴を零してしまう。

「ごめん……」

 勝也が謝るのに、陽は仕方ないなと溜め息をつく。

「何が好きなんだ?」

「え?」

 陽の質問の意味がわからず、勝也は問い返した。

「あの人、……どんなものが好きだ? お兄さんの方でもいいけど」

「あ、あぁ、好きなものねぇ。なんだろ?」

 勝也が不思議そうにするのに、陽は小さく吹き出した。

「知らないのか?」

「うーん、これといっては。別になんでも食べると思うけど。あ、つるんとしたのが好きかも」

「つるん?」

 なんの事かわからずに、陽は首を傾げる。

「ほら、ゼリーとか、ババロアとか、プリンとか。喉越しのつるんとしたもの。ヒロちゃん、……って兄貴のことだけど、それをよく作るんだ。似合わなくて笑える」

 勝也は本当に可笑しそうに笑う。

「作るって、……料理するってことか?」

「うん。なんでも作るよ。デザートはアキちゃんと住むようになってからだけどさ。あの大きな身体で、デザートの本なんか買うなっての」

 その同じくらい大きな身体で勝也は笑う。

「へー……」

 なんとなく、勝也がゼリーを作っている姿を想像して、陽も笑う。

「でも、俺も好きだな、ゼリー系」

「えっ……」

 勝也は我が身に降りかかる難題を抱え込んだように、ぐっと喉に何かを詰まらせたような声を出す。ようはそれが可笑しくてまた笑ったのだった。

 

 

 ホームから出ると既に銀色のアウディは停まっていたが、勝也はそれを待たせ、陽を連れて駅前のケーキ屋さんに入った。

 いくつか美味しそうなデザートを詰め合わせてもらい、洋也の車に乗り込んだ。

「アキちゃんは?」

 陽が簡単に挨拶をするのを待って、勝也は助手席にいない秋良の所在を尋ねた。

 そりゃ家にいるんだろう、どうしてそんなことを尋ねるんだろうと、陽は首を傾げる。

「先に行ってる。デザートを作ると言ってた」

 ハンドルを握りながら答える兄の台詞に、陽は眉を寄せる。

「先に行ってる? ……って、どこへ?」

 勝也に囁くように尋ねると、勝也は困ったように笑いを引きつらせる。

「俺の……家かな?」

 その疑問形はなんだ? 陽は軽く勝也を睨む。

「お前、……嘘をついたな」

「嘘じゃないよ。一度で済ませたほうが、陽も気が楽かな? って思ってー」

 勝也は笑って誤魔化そうとする。

「一度でって、なにがだよ」

「秋良さんと、お袋。二回も別々に挨拶したくないよね?」

「えええっ? お前、お母さんにも会わせようって言うのか?」

「お袋には会ったことあるよねぇ。でも、連れてこいってうるさくてさ。なら、一度にしたほうが陽もいいかなって……」

 勝也の気軽さに陽の方が笑いたくなる。これが質の悪い冗談だと言われているような気がして。

「連れてこいって……まさか……」

 聞いてはいけないと思うのに、聞いてしまう。つまり、心づもりが必要なのではないだろうか。

「ええっとー、俺の恋人として。もちろん」

「家の人に言ったのか?」

「当たり前でしょ。大切な人ができたよって、言ったよ」

「それが俺だってことも?」

「もちろん」

 黙ってハンドルを握る兄をちらりと見る。後ろ姿しか見えないが、どんな風に思っているのだろうか。弟の恋人が、男で、しかもこんな年上で、極めつけは担任の教師だ。

「気にしなくていいよ。よかったわねって言ってたし。うち、オープンだし、子供の自主性に任せてくれてるから」

 膝に乗せたケーキが少なくはないだろうかと陽は心配になる。だが、たしかデザートを作っているんだと、お兄さんは言ってた。

 そんなことでも考えていないと、本気で逃げ出してしまいそうだった。

 

 

 玄関先で降ろされて、洋也が車をガレージへ移動させて行く間に、勝也はさっさと玄関を開けてしまう。

「ただいま」

 気楽に声をかける後ろ姿が憎らしい。

 そりゃ、お前は自分の家に帰るだけだものな、振り返って自分がいなければ困るだろうな、困ればいいんだ。とまで思ってしまう。つまり、逃げてしまいたい。

「おかえりなさい」

 奥から優しい声が聞こえ、勝也が手招きする。仕方なく、自分の足を励まして、陽は玄関へと足を踏み入れる。

「いらっしゃいませ」

 どう挨拶していいのかわからないまま、とりあえずは頭を下げると、母親はにこにことスリッパを差し出してくれる。

 覚悟を決めて上がるしかないと思ったところへ、その人がやってきた。

「こんにちは」

 青いシャツにデニムのエプロンを着けている。優しい笑顔に、思わず一歩引いてしまう。

 大丈夫だと思っていたのに、足が竦むのだ。

「玄関もなんですから、上がってくださいな。どうぞ」

「陽」

 そっと背中に回された勝也の手が、陽の強張りを解いてくれる。ゆるく背中を押されると、ようやく足が動いてくれた。

「お邪魔します」

 陽の挨拶で、みんなも移動し始めた。

 リビングに通されると、母親と秋良はキッチンへと戻って行く。

「これ、お口に合うかわかりませんが……」

 陽が綺麗なリボンをかけられた箱を差し出すと、母親はキッチンから出てきて、嬉しそうに受け取ってくれる。

「ありがとうございます。ここのケーキ、美味しくて、我が家はみんな大好きなんですよ。でも、次からはお気遣いなくいらしてくださいね。たいしたお構いもできませんけれど、その分我が家だと思って寛いで下さい」

 両手で嬉しそうに箱を抱え、ニッコリ笑って言われると、『次?』といわれた疑問は、とりあえず飲み込んでおく。

「なに作ってるの?」

 勝也はキッチンカウンターから、キッチンの方を覗き込んでいる。

「さくらんぼが美味しい季節だから、チェリータルト。色が綺麗に出るといいんだけれど……」

 秋良の声に、陽はどうしても緊張してしまう。意識するんじゃないと思いながらも、つい秋良を見てしまう。

「秋良さん、シロップはできた?」

 母親の声に、秋良は味見してくださいと、小さめのボールを差し出した。

「好みの甘さでいいのよ」

「うーん、どうだろう。甘いの、大丈夫ですか?」

 突然振り向いて尋ねられて、陽は硬直してしまった。

「甘いの、苦手ですか?」

 優しい笑顔を、陽は思わず見つめてしまい、答えを口に出せない。

「甘いの好きだよ。大丈夫。ね?」

 勝也の声がすぐ横で聞こえ、肩に手が置かれた。

「あ……、はい。甘いの、好きです」

 陽の答えに、秋良はニッコリ笑う。そして陽と勝也の後ろに視線を移し、更に笑みを深くして「おかえり」と声をかけた。

 振り向かえると洋也がただいまと返している。

「もうすぐパパがワインを買ってきてくれるから、帰ってきたらみんなでパーティしましょ」

 母親はケーキを冷蔵庫に入れ、アイスティーを運んできた。

「どうぞ、ゆっくりしてください」

「ありがとうございます」

 まだ慣れないながらも、陽は勝也が促すままに、ソファにすわる。

 洋也が母親の代わりにキッチンに入り、タルト作りを手伝い始める。

「あと二人この子には兄がいるんですけれど、今日はどちらも帰って来ないんです。ごめんなさい」

 母親が謝るのに、陽はとんでもないと首を振る。

「いない方がいいよ。うるさいもん。今日はアキちゃんとお袋に会わせるだけのつもりだったから」

「最初からたくさんいたら、朝比奈先生も驚かれると思いまして。また今度はみんなと会ってくださいね」

 屈託なく話す母親に、陽は聞かずにはいられないことを聞く。

「あの、……よろしいんですか?」

 本来なら、よくも我が子をと罵られても仕方のない立場である。それなのに、この歓迎ぶりに、正直なところ身の置き場のない思いさえ感じる。

 だが、陽が何を心配しているのか、母親はわからないようである。

「息子の恋人が、男でもいいのか、って、陽は聞いてるんだよ、母さん」

 勝也の詳しい説明に、母親はあらと目を見開き、そして笑い出した。

「勝也の選んだ人ですから、私達は何も言いません。もちろん主人も同じ意見ですから、心配なさらないで。朝比奈先生がとても素敵な人で、喜んでいるくらいです」

 本当に自分と同じ年の息子がいるのかと不思議なくらい若い母親は、時に少女のような笑顔を見せる。

「朝比奈先生もアキラさんってお名前なんですか?」

 勝也の呼びかけに、母親がさらりと尋ねてきた。ドキッとしながらも、横目でキッチンにいる人を覗う。

「……はい」

「この子がヨウ先生、っていつも言ってたものですから、ヨウなんとかっていうお名前かと思っていました」

 キッチンの二人は今の会話が聞こえていないのか、何故か二人でボールを取り合っている。ホイップクリームをどちらが作るかで揉めているようだ。

「そう、……学校でも生徒たちに呼ばれているんです」

「じゃあ、私達もそうお呼びしてもいいかしら?」

「はい」

 同じ名前が重なっては、相手の人が気の毒だと陽は思ってしまう。だが……。

「朝比奈先生が呼ばれ慣れているお名前のほうがよろしいですものね。でも、ご家庭で呼ばれているお名前の方がよろしければ、言って下さいね。わかるようにちゃんと呼ばせてもらいますから」

 陽の方を気遣ってくれる母親の言葉に、陽は驚いてしまう。先着順というわけではないが、自分の名前で呼ばれることは諦めていたのだ。母親があの人のことを「アキラさん」と呼ぶのを聞いてから……。

 だから陽は拘ることなく言えた。

「家でも弟にヨウという方で呼ばれていますから、気になさらないで下さい」

「弟さんがいらっしゃるの?」

「俺と同じ年。同じ高校だよ。よく似てるんだ」

 勝也が何かを急ぐように付け加える。

「まあ、先生の弟さんならしっかりされているんでしょうねぇ。……勝也はもう、頼りなくて。ご迷惑かけているでしょう?」

 母親の言葉に、陽も勝也も吹き出してしまった。母親がびっくりする。

 キッチンでは時間がかかって、あまり楽しくもないホイップクリームは結局洋也が作ることになったらしい。ハンドミキサーを使う洋也の傍で、秋良はボールの中を少し不満そうに覗き込んでいる。

 なんだか……、ここにいるのが自然なような、もっと早くに座りたかったなと、陽は笑いながら、そんなふうに感じていた。

 母親が「アキラさん」という名前をどう呼び分けるつもりだったのかは、聞きそびれてしまった。それを知ったら、とても笑ってなどいられなかっただろうが、母親の意図を素早く察して話題を冬芽のことにそらせた勝也の勝利だと言えるだろう……。