この夜空に誓う

 


 深夜。
 ドアが微かな音をたてて開く。
 リビングのフットライトが人の動きを感知して小さな明かりを点す。  入ってきた人影が冷蔵庫を開けると、庫内の灯りが精悍な横顔を照らしだした。
 中から冷えたレモン水を取り出して、ペットボトルのまま口をつけてごくごくと飲む。
 外の暑さが体内から冷えていく感覚を味わう。
「帰って来れたんだ?」
 リビングの電気が瞬いて、部屋が明るくなると共に、眠そうな声が響いた。
「ごめん。起こした?」
 パジャマ姿のまま陽がリビングへと入ってくる。
「喉が渇いたから目が覚めたんだ」
 陽の言い訳に勝也は微笑んで、細い身体を抱き寄せた。
「ただいま」
 柔らかい頬へ、長い睫毛が影を落とす眦に、そしてふっくらと艶やかな唇へとキスを落とす。
「おかえり」
 クスクスと笑ってそのキスを受けていた陽は、お返しにと勝也の頬へキスをする。
「今夜は帰れないかと思ってた」
「俺も無理だと思ったんだけどね、最後の抵抗で、試験勉強を盾にしてきた」
 勝也の説明に陽は笑い声をたてる。
「みんなの叫びが聞こえそうだな」
「まあね。でも、たまには俺が学生だって、思い出してもらわないとね」
 陽にレモン水のボトルを手渡して、勝也は着ていたシャツを脱いだ。
「先に寝てて。シャワー浴びてくる」
「うん……」
 脱いだシャツを手にバスルームへと向かう勝也の後を、陽はペットボトルを持ったままついていく。
「どうしたの? 一緒に入る?」
「いや、俺はもう入ったから。それよりさ、お前、明日は……って、もう今日か。誕生日だろう? 何か欲しいもの、あるか? 迷ってしまって、結局買ってないんだ」
 誕生日と言われて、勝也は今日が何日かを思い出した。
「誕生日? あ、そうかー。でも、陽は今日も夏期講習でしょ? 夜にデートとかできる?」
「ゴリ押ししたんだ、俺も」
「ゴリ押し?」
 夏休みとはいえ、今は3年生を受け持っている陽は8月も半分は学校で受験対策の補強授業を受け持っている。
 夏休みこそこき使おうとする勝也のアルバイト先の会社の執念とも合わさって、二人は普段よりすれ違う日を過ごす羽目になってしまっている。
 こうして一緒に暮らしていなければ、一週間顔をあわせないなんて日もざらになってしまっただろう。
「明日は休みを取ってきた。だから、お前が帰るまでに買い物だけでも済ませておこうかと思って」
 陽の申し出に、勝也はにっこり笑って愛しい人を抱きしめた。
「明日、空けてくれただけで嬉しい」
「そうは言うけどさ、せっかくの二十歳の誕生日なんだし、記念になるものを贈りたいんだよ。成人式用のスーツにしようかと思ったんだけど、それなら一緒に行って、デザインを選びたいだろうしと思って」
 逞しい腕に包まれたまま、陽はそっと背中に手を回す。
「じゃあ、明日デートしよう。それで、一緒に買い物に行って、食事して、大人になった俺にお酒を奢ってよ」
「だって、アルバイトは?」
「二日間休み貰ったんだ。そうか、なんだかとっても休みたくなったのって、誕生日だったからかな」
 勝也の言葉がこの時はとても子供っぽく思えて、陽は楽しそうに笑った。
「お酒って……もう普通に飲んでるだろう」
「明日からは、堂々と飲めるからいいな」
「ばか……」
 笑い合って、唇を重ねる。
 誕生日の一日は、こうしてゆっくり始まった。


 朝はゆっくり目覚め、勝也の気に入りのデザイナーズショップで秋の新作のスーツを選んで、ランチを食べ、ドライブをしながら郊外のオーベルジュへ。空きはなかったが近くのロッジを紹介してもらえて、ディナーも運んでもらうことにした。
 テラスにテーブルを運び、そこで20年物のシャンパンを開けた。
「ありがとう、陽」
 誕生日のお祝いのおめでとうという言葉に、勝也はとても嬉しそうに礼を言った。
 世間では夏休みでは? と疑いたくなるほど二人共に忙しく、誕生日の日付すら忘れていた。きっと、陽と出会っていなければ、アルバイト先のラボにこもりきりの夏休み、そして忘れ去られたままの誕生日だっただろう。
「誕生日を覚えててくれる人がいるっていいな」
 勝也は本当に嬉しそうに細長いグラスを傾ける。
「来年も、再来年も、覚えててやるよ」
 陽の言葉に勝也は笑みを深くする。
「ずっと俺と一緒にいてくれるってことだよね」
「お前が望む限りは」
 勝也は席を立ち、陽のうしろに回って、宝物のように恋人を抱きしめた。
「ずっと、ずっと、一緒にこの日を過ごしたい」
「二十歳……なんだな……」
 しみじみと言う陽に、勝也は「ん?」と問い返した。
「もう、成人だ」
「ん……そうだね。あんまり意識はしてないけど」
 胸に回された手に、陽は自分の手を重ねる。
 いつも自分を抱きしめる大きな手。実年齢寄り大人っぽく、精神的にも周りの同年齢の者よりはしっかりしている。
 けれど……。
「今日からは……お前のこと、誰にも遠慮せずに愛せるんだ……」
「……陽?」
 ぎゅっと握り締める手に力がこもる。何かの不安を隠すように……。
「生徒だったお前を好きになって……、この日まで待てずに一緒に暮らして……。本当なら大人の分別で、俺がお前を諭して、我慢して、見守らなくちゃならないのに……」
「陽……」
 勝也はぎゅっと陽を抱く腕の力を強くする。
「今日からは、お前は大人だし、俺のことを愛してくれるなら、俺は何の制限も受けずに、お前のことを愛してると言える。……この日がとても待ち遠しかったんだ……」
 椅子から立ち上がると、勝也の腕の中でくるりと向きを変えた。
「おめでとう勝也。……そしてありがとう。この日のお前を……俺にくれて」
 テーブルに置かれたランプの炎が二人を柔らかく包む。
 赤く照らしだされた陽の頬を一筋の涙が煌めきながら落ちていった。
 どんなに辛い状況でも決して涙を見せない強い人の、出会ってから今日までのすべての感情を包み込んだ一粒の涙は、この世で一番綺麗な星にも敵わない美しさだと、勝也は感じた。
 揺らめく瞳がもう一粒の感情を押し流す前に、勝也は恭しく口接けた。
 どんな言葉よりも、幾千の言葉よりも、伝えたい想いを伝えるのは、この口接け以外には見当たらなかった。
 ただ唇を重ねるだけの、誓いのためのキス。
 押しつけるような拙いキスが、ゆっくり離れていく。
 見つめ合う瞳には、星空も、ランプも、何も映らなかった。
 ただ二人だけ。
 言葉を失くしたように見つめ合い、勝也は愛する人を強く、深く抱きしめた。
 自分が強く望んだ。自分が気持ちを押し付けた。
 奪うように愛を求めた。
 縛るように自分へと気持ちを向けさせた。
 そこに年下の打算がなかったとは言えない。
 愛し合うことで罪を問われるのなら、自分の方だ。
 なのに、陽はその罪を一人で背負い、勝也に重さを見せないようにしてくれていた。
 抱き返してくれる腕の力に、勝也はそれでも一言だけは伝えたかった。





「ありがとう」