静寂の朝に


 
 正午の学生食堂は、騒めいていた。空いている席を探す者、お喋りをしているのか食べているのかわからない者、本を読みながら食事をしている者。思い思いの風景は、若さと活気に満ちていた。
 聡寿はいつも食堂の裏手の住宅街の甍が見える席を好んだ。大学が高台にあるので、眼下に見える屋根の波は、晴れている日は眩く、独特の美しさを見せていた。
「聡寿、今度の日曜日なんだけどさ……」
 隣に座っていた真央が、そう言いかけた時、入り口から彼を呼ぶ声がした。
「真央! ずいぶん探したんだぞー」
 元気な声とともに現われたのは、髪を茶髪にし、派手な形をした同級生だった。
「真央、今度の日曜日、空いてるか? 空いてなくても、空けてくれ!」
 彼の友達はそう言うと、顔の前で両手を合わせて拝み込んできた。
「何かあるのか?」
 真央は理由を聞かずに断固として断るのだったと、後にかなり悔やんだ。
「実はさ。前から狙ってた聖子ちゃんがさ、デートを受けるのにある条件を出してきたんだ」
「条件?」
「ああ。聖子ちゃんの友達の明菜ちゃんがさ、お前のこと好きなんだってよ。それで、俺にお前を誘ってくれたなら、今度の日曜にデートしてもいいって」
「冗談。俺は行かないからな」
 真央は慌てて断った。聡寿の前で、いらぬ事を聞かせてくれるなと相手を睨んだが、彼は自分のデートの段取りのことで精一杯で、真央が睨んでも効果はなかった。
「なんで。お前ずっと前に、明菜ちゃんのこと好みだって言ってたじゃないか」
「ばっ、馬鹿!」
「それに、お前がいつだったか、女を乗り換える時に手を貸してやった借り、俺まだ返してもらってないぞ」
「何百年前のこと言ってるんだよ! 知らねーぞ、そんなことっ!」
「俺はしっかり、二年前のことだって覚えてるもんねー」
 真央は頭を抱え込んでしまった。と、聡寿が静かに立ちあがった。
「聡寿?」
「お先に」
 真央の縋りつく目をものともせずに、聡寿はトレーを持って背中を向けた。
「俺、こいつと日曜日に約束しているんだ。な? 聡寿」
「村社。譲ってくれないかな。俺と真央の一大事だと思ってさ」
「先約だって言ってるだろ」
 二人のがなり声をうるさいとばかりに、聡寿は一瞬眉を顰めると、落ち着いた声で言った。
「僕はまだ約束をしていなかったから。お二人でどうぞ」
 そのあまりに静かな口調に、真央は哀しくなった。結局、嫉妬も妬いてもらえないのだ。
「悪いなー。サンキュウ」
 友人の軽い声に、真央は再び頭を抱え込んだ。
「俺、立ち直れないかも」
 
 
 日曜日は雨だった。
 真央はダブルデートに、昼食まではなんとか我慢をして付き合い、昼食後はそれぞれのカップルでと別れたとたん、相手の女の子に交際している人がいるからと、逃げ出した。
 その足で聡寿のマンションまでやってきたが、彼は留守だった。
「雨なのにどこに行ったんだろう」
 雨が嫌いな聡寿。また部屋で一人、憂欝をもてあましているんじゃないかと、今日一日とても気になっていたのだ。
 真央は聡寿の憂欝が移ってしまったかのように、ドアの前に座り込んだ。
 
 
 聡寿は重い気がする傘を畳んで、マンションのエレベーターに乗り込んだ。
 門田の家へ行き、東京に住んでいる弟子たちの舞を見てきた。まだそこかしこに樟脳の匂いがついているように思って、頭痛を振り払うために蟀谷を押さえた。
 エレベーターから吐き出されると、自分の部屋の前に蹲る影に気がついた。
「何をしているんだ?」
 真央は突然かけられた声に驚いて顔をあげた。
「あ……、いけねー。ウトウトしてた」
「今日はデートじゃなかったのか?」
 聡寿はそう言うと、ポケットから鍵を取り出した。
「すぐに逃げ出したさ。もうあいつに借りだなんて言わせないために、午前中だけ我慢して付き合ってきたんだ」
「じゃあ、昼からここに?」
 聡寿は驚いて真央を見た。少し疲れた影が見えるのは、何時間も聡寿を待っていたためだろうか。
「ん……? まあな」
 だが、真央は決して聡寿に負担をかけさせるようなことは言わなかった。だからこそ、聡寿は、真央と長く付き合ってこられたとも言える。
「中で待っていれば良かったのに」
 それでも聡寿は少なからず申し訳なさを感じて、そう言った。
「聡寿。それは、合鍵というものを持っている相手に対して言う言葉だ」
 聡寿ははっとして真央を見つめ、そのまま黙り込んで部屋の鍵を開けた。
 残暑の熱気が押し寄せてきた。
「シャワー、浴びてくるといい」
「そうさせてもらおっかなー」
 真央はおどけて言うと、浴室へ消えていった。
 決して真央は言わない、鍵をくれとは。けれどそれを欲しがっていることは知っていた。聡寿に自分のスペアキーを渡したとき、彼は明らかに期待の目をしていたのだ。
 それがわかっていながら、聡寿は知らないふりをしたのだ。どうしても、これ以上、自分の気持ちを深みに沈めたくなくて。
 シャワーを浴びてくると、真央はさっぱりした顔つきで、聡寿の差し出したビールを嬉しそうに受け取った。
 ゴクゴクと上下する喉に、なぜか艶かしさを感じて、聡寿は目をそらした。
「シャワー、浴びてくる」
 聡寿は呟くように言って、真央の側を離れようとした。だが、肩を抱かれ、彼に引き寄せられてしまった。
「離してくれ」
「駄目だ。嫉妬も妬いてくれないつれない奴に、俺の気持ちがどれほどなのか、見せてやるんだ」
 真央の唇が喉に吸いついてくるのに、聡寿はなんとか逃げようと必死になった。
「聡寿」
 真央の傷ついたような瞳を見て聡寿は抵抗の力を緩めた。
「違う。匂いが気になるんだ。その……、着物の匂いがついている気がして……。真央にそれを嗅いで欲しくないんだ」
 真央はたどたどしく告白する聡寿の声に、彼を解放してやった。
「ベッドで待ってていいか?」
 聡寿は何も言わずに浴室へ行った。
 
 
 浴室から出てきた聡寿は、ベッドで待っていた真央の目の前でガウンを肩から滑らせた。薄暗い部屋に、聡寿の白い肌が蜻蛉のように揺れた。
「聡寿……」
 真央の伸びてきた手に、聡寿は素直に身を委ねてくる。いつも、少なからず躊躇する彼のそんな行動を不思議に思いながらも、久しぶりに抱く恋人の肌に、真央はすぐに溺れていった。
「愛してる」
 真央は口づけの合間も、聡寿の昂ぶりに手を這わせている間も、何度もその言葉を繰り返した。
 嫉妬を妬いてほしいわけじゃない。この台詞に応えてほしいわけじゃない。だけど、何度抱いても聡寿を手に入れたという確信が持てない苛立ち。それが真央から、余裕を奪っていた。
「聡寿、愛してる」
 今夜は殊更その言葉を口にしている。そう思いながら、返ってくる聡寿の甘い喘ぎに、真央は日頃の辛さも忘れていく。
「んんっ……、ま…お……」
 聡寿の身体の奥深く受け入れてもらえたとき、聡寿が微かに自分の名を呼んだ。
「ごめん、きついか?」
 綺麗な眉が寄せられ、固く閉じた瞳から、涙が一雫こぼれた。けれども聡寿は首を横に振った。
 肩に爪をたてられ、引き寄せられるようにして、真央はゆっくり動き始めた。
「……聡寿」
 名を呼ぶ。応えてくれることのない、相手。けれど、今は確かに、彼を抱いているのだ。その事実が大切なのだ。それは真央にとって、哀しい呪文だった。
「……聡寿」
 聡寿をこの手に抱けるのが、大学の間だけだとしたら、二人はもう、折り返し地点を過ぎてしまった。
 今年の秋、冬。春、夏、再び秋、冬、そして春が来る前に、この愛して止まない人を手放さなければならないのか?
「聡寿……!」
 何度も、何度も、聡寿の中に自分の熱を分け与えたはずなのに、確かなものなど何も得られない。
 聡寿の言うように、永遠などというのは、存在し得ないものなのだろうか。
 荒い息を繰り返していた二人が落ち着く頃、聡寿が起き上がるのがわかった。
「頼むから、側にいてくれ」
 真央の呼びかけに答えず、聡寿はするりと真央の手をかわし、部屋を出ていった。すぐにシャワーの音が聞こえてきた。
「どうして……」
 真央は唇を噛みしめた。また冷たい水を浴びているのだ、聡寿は。自分が冷たい雨を浴びることで、真央が手にした聡寿の温もりさえ奪ってしまうのだ。
 真央は寝返りをうって、ドアに背中を向けた。やがて小さな音ともに、聡寿が入ってくるのがわかった。
「泊まっていく。いいだろ?」
「駄目だって言っても、泊まるんだろ?」
 ずいぶん意地悪な答えが返ってきて、不満の一つも言ってやろうと、身体を起こしかけた。と、その時、真央の頬に冷たく固いものが押し当てられた。
「え?」
 聡寿の手からそれを奪うと、ルームライトにかざしてみた。
「え……、これって」
 それはどこからどう見ても鍵だった。まさか以前渡した自分の合鍵を突き返されたのだと一瞬青くなった真央に、聡寿は軽く微笑った。
「あんなふうにドアの前で待たれたら、近所迷惑になるから。変質者なんかと間違われて通報されても、身元を引き取りにいく気はないし」
 あまりにも呆然としていたので、聡寿が「いらないなら返してくれ」と差し出した手から、真央は慌ててその大切な鍵を遠ざけた。
「間に合った」
 意味不明の真央の言葉に、聡寿は首を傾げた。
「今日中に間に合ったよ、聡寿。ありがとう」
 真央は満面の笑みを讃えて、聡寿を抱き締めた。
「今日、何かあったのか?」
 聡寿は抱き締められた不自由な姿勢から、なんとかベッドサイドの時計を見た。時刻は午後十一時四十五分を過ぎようとしている。
「最高のバースデープレゼントだ」
 真央のとんでもない言葉に、今度は聡寿の方が驚いた。
「今日が誕生日だって?」
「ああ。だから、どんなことをしても、お前と一緒に過ごしたかったんだ。本当は、去年もかなり無理言って側にいたんだぞ。思い出さない?」
 聡寿はどうしても思い出せなかった。聡寿にしてみれば、真央という人間は、思いもかけないことばかりしてくれるのだ。
「いいよ、思い出せないなら。だけど、今日は側にいてくれよな。抱き合って眠ろう」
 真央の言葉に、思わず聡寿は笑ってしまった。今日の昼の重苦しい気持ちが綺麗に晴れていく。
「今日はあと十分程で終わるけど?」
「こいつー!」
 二人は笑いあってベッドに倒れこんだ。
 聡寿の笑顔があればいい。それを見られるのは、きっと俺だけだから。
 真央は幸せな気分で、恋人をその腕に抱いて眠った。
 聡寿が一年前の出来事を思い出したのは、翌朝、朝日が差し込んできたときだった。
「またいちびりって言った……」
 真央の寝言で思い出したのだ。
「あの日だったのか」
 聡寿は幸せな笑みをこぼした。
「真央が生まれてきてくれて、本当によかった」
 真央の薄く開いた唇にキスをした。
「愛してる」
 聡寿の想いをこめた告白は、真央の意識には届かない。
そうすることでしか、聡寿は真央を愛していけない。
 朝日を浴びて、銀色の鍵がきらめいていた。