解衣の……
 


「来月から一月ほど京都に帰るんだ」
 聡寿の言葉に、真央は飲みかけのミネラルウォーターを噴き出してしまった。
「京都!? え??」
「ちょっ、もう……。いつも言ってるだろう。ペットボトルから直接飲むなよ。それをまた冷蔵庫に戻すし」
 聡寿は慌てて着物の懐から懐紙を取り出し、吹き零れた水滴を拭き取る。真央は手に持っていたペットボトルを冷蔵庫に戻し、必死の形相で聡寿に向き直った。
「え、……だって、いつ?」
 子供みたいな注意をされたことは真央の耳には届かなかったらしい。聡寿の肩をがしっと掴んで揺さぶってくる。
「10日から。文化の日に京都で大きなイベントがあって、それにうちも参加するから、準備と公演の手伝いのために」
「いつ! 聡寿、いつなんだよ」
「だから、京都へ行くのは10日から。公演は3日」
「そうじゃなくて、いつ帰ってくるんだよ。いや、帰ってくるんだよな?」
 真央のまじめな質問に聡寿はむっとする。
「帰ってきちゃいけないのか?」
「え? …………っ、あ」
 問い返されて真央は自分の失言に気がついたらしい。
「……聡寿」
 情けない顔で自分を見つめる真央に、聡寿は淡々と告げた。
「予定通りなら、帰ってくるのは11月10日。予定が変わるなら電話するから」
「……うん。……ごめん」
「そんな……情けない顔をするなよ」
 聡寿にも真央の不安はわかっていた。聡寿が京都へ帰る。そのまま帰ってこないのではないかという不安は、どんな努力をしても、真央の中から消えはしないだろうと思う。
「ちゃんと帰ってくるから……」
 優しい囁きに、真央は恋人の身体をぎゅっと抱きしめた。


「ただいま…………って、いないんだよな……」
 聡寿が京都へ行ってしまってから半月。それまでにもすれ違いの多い二人だったが、それでも毎日顔を見れたし、何気ない会話が楽しかった。
 一人で部屋に帰り、誰もいない部屋を見ると、とてつもない喪失感に襲われる。
 もしかして……。疑ってはいけないけれど、もしかして、もしかして、向こうで強く引きとめられてしまうのではないか。そうして、聡寿は戻ってこれないのではないか……。
「会いたい……。聡寿……」
 せめて声だけでもと思うのに、聡寿の携帯はほとんどが留守番電話サービスへと繋がってしまう。たまに繋がっても、後援会の人たちにあちこちに引っ張り出されているらしく、とても疲れているようで、早く休ませたくて早々に電話を切ってしまう。
 毎日おやすみだけでも言いたいのだが、それすらも三日に一度がいいところになってしまっている。
 冷たいベッドがたまらずに、真央はいけないことだとわかっていながら、聡寿のたんすから着物を一枚引っ張り出してきてしまった。
 青紫のその着物は、ぼかしの柄がとても綺麗で、聡寿がよく着ている。それを京都に持っていかなかったとたんすを開けてはじめて気がついて、何故だか真央は安心した。これがあるなら、聡寿は帰ってくると約束されているようで。
 自分では着つけられないが、そっと広げて袖を通してみた。二人の身長差を示すように、真央の足首が見えてしまう。
 ふわりと広がったのは聡寿の愛用している香の薫りと、そして聡寿自身の匂い。
 ガウンのように羽織って、襟を合わせてみる。
「早く会いたいよ……」
 真央は着物を脱いで抱きしめるようにベッドに横になった。聡寿の匂いがして、それで安心して、真央はすぐに寝入ってしまった。

 夜中、何かを引っ張られるような感覚に、真央はあわててそれを取られまいとぎゅっと握り締める。
「……もう。皺になるやろ」
 肩を揺すられて、それが夢ではなかったのだと認知できる。
 目を開けると聡寿が着物を真央から取り戻そうとしていた。その顔が少し呆れていたので、真央は慌てて飛び起きた。
「え? あれ? 聡寿?」
「どうして着物なんか……」
「夢じゃないよな?」
「だいたい、チェーンをかけないと危ないだろう」
「あれ? どうしているの?」
 およそ会話として成り立たない言葉が行き違う。
「聡寿……」
 まだ少し寝ぼけているような笑顔で、真央は聡寿の手を引っ張った。起こっていた言葉とは裏腹に、聡寿は素直に真央の胸にもたれかかってきた。
「帰ってきたんだ……」
「夢かもよ? あんたが僕の着物を引っ張り出したから、それに呼び出された幻かも」
「それでも嬉しい」
「あほやなぁ。衣を抱きしめて寝るなんて、死んだ人にすることや。僕が幽霊かも知れへんって言うてるのに」
「えっ! だめ。俺を置いていったらだめ」
 死ぬなというのではなく、自分を置いていくなという真央の言葉に、聡寿は京都での疲れが吹き飛んでいく。
「嘘や。ちょっと二日だけ休みもろうて、帰ってきたんや。また京都へ戻らんとあかんけど……」
「聡寿……、疲れてるのにありがとう」
 着物の代わりに本物を……、いや、着物が聡寿の代わりだったのだ、だから柔らかな身体を抱きしめ、二人でベッドに横になる。
「何でチェーンをかけへんのや。物騒やのに」
「うん……、なんとなく。お前が帰ってきたときに困るだろうと思って、一人のときはかけない癖がついてるのかな」
「危ない……」
「うん、でも、おかげで聡寿をこうして抱きしめられるし」
「あほ……」
 ぎゅっとしがみついてくる聡寿の髪に口づける。
「着物はちゃんと戻しておくつもりだったんだけれどなぁ」
「たためもしないのに?」
「あっ」
 今更気がついたというように、真央はばつが悪いのか、聡寿をぎゅうぎゅうと抱きしめる。
「こら、苦しいやろ」
「今度、着物の畳み方、教えて」
「あかん」
 聡寿の即答に、真央は眉を下げて情けなさそうな顔をする。
「どうして……」
「どうしても」
 本当は、そうしてくれた真央の気持ちが嬉しかったから。けれど、それは言わない、……言えない。
「うーん、だったら、聡寿がもう留守にしなければいいんだ」
 真央の子供っぽい提案に聡寿は思わず笑ってしまう。そう、自分だって、もう二度と京都には行きたくない。聡寿の家は、ここだとわかっているから、「帰る」のはこの胸の中だけ。
 聡寿に笑われたことが少し不満で、真央は唇を少し尖らせて、そして、聡寿にキスをした。