TENDER
 



 その日、オフィスは凶悪な空気で満ちていた。
 鬼気迫る、緊迫した空気が、皆の表情を必死にさせる。
「紙、滑らすなよ、見たやつかどうか、わからなくなるだろ!」
 怒鳴り声が響くが、それに反論する者はいない。ある者は手元の、またある者はダンボールの書類を、1枚1枚、充血した目で舐めるように確かめていく。
「こんな古い書類ケースにあるわけないわよー」
 女子社員の泣き出しそうな声がヒステリックに響く。しかし慰める者もいなければ、励ます者もいない。既にそういう感覚は皆から遠のきつつあるのだった。
「みんな、ごめんな」
 室長の声がポツリと聞こえる。
 はじめの頃こそ、笑いながらも『すぐに見つかりますよ』と、明るく答えていた部下達も、今はもう、溜め息を隠すのに懸命だった。
 溜め息を隠すのは、とりもなおさず、誰もが室長が好きだからに他ならないが、それを表明する元気も、余裕も、どこを探しても無い。
 今、熱烈に欲しているのは、室長の元気な声や笑顔ではなく、一枚のA4の書類だった。
 それが見つからなければ……。一瞬浮かんだ考えを、慌てて首を振ってかき消す。
 とにかく、あるはずなのだ。この部屋に。
 室長は『午前中に、デスクで見た覚えがある』と言ったのだから。ならば、その書類はこの部屋の中にあるはずだ。今日は誰も外回りに出ていないのだから。
『契約書』と書かれていて、半分が日本語、半分が英語。そこに竹原建設の社印と社長の署名、相手の会社の社印と署名がある。
 今年後半の竹原建設の社運を賭けた仕事である。その契約書がなくなった。この部屋で。
「室長、とにかく、よく思い出してください。これだけ探しても見つからないということは、どこか別の場所でご覧になったのではありませんか?」
 秘書の倉持に言われて真央も考えてみるのだが、記憶はどうしても、朝、この机で見たとしか思い出せないのだ。
「あー、もう……、どうしよう」
 真央は自分の机の書類をそれこそ1枚1枚、重なっていないか、貼りついていないか、食い入るように確かめている。
 そこへ内線電話が入った。誰もその電話に出る余裕はない。電話の呼び出し音すら、聞こえていないかもしれない。
「はい、デザイン室です」
 室内で一番落ち着いているというか、落ち着かざるをえない倉持が、その内線電話を取った。
『竹原室長にご面会です』
 受け付け嬢が柔らかい声で教えてくれる。
「どこの誰かな? 今日はアポイントはないはずだけど」
『すみません、お名刺を頂いたのですが、……読めなくて』
 後半は潜めた声で囁くように言われた。舌打ちしそうになる気持ちを沈め、真央に向き直る。
「室長、お客様がお見えのようです」
「だれ?」
 真央は書類をめくる手を止めずに聞き返した。
「わからないそうです」
「んー、忙しいって、断わってきて」
「わかりました。……今、下ります」
 真央に返事をして、そのまま受け付け嬢に言って、倉持は電話をおろした。
「行ってきます」
「頼むね」
 本当に声だけで送り出される。
 部屋を出る倉持に、恨めしそうな視線が突き刺さる。逃げ出すわけではないのにと、倉持は苦笑いする。

 エレベーターで1階まで下り、ロビーに歩いて行くと、受け付けの隣にある応接セットのソファに、一人の青年が座っていた。
 会社を訪問してくるにはあまりにラフなその姿に、真央の私的な客なのではないかと感じた。
 倉持が通りかかると、受け付け嬢が手の平で、やはりその青年を指し示した。
 倉持は頷いて、彼の座るソファに歩み寄った。
「お待たせしました」
 びくっと驚いたように、青年は立ちあがった。倉持を見て、不思議そうにしながらも、頭を下げる。
 ふわりと漂ったのは、どこか日本的な香りだった。その薫りを懐かしいと感じたのは、真央が時々そんな香りを漂わせていたからだ。
 まだ若いその青年が、優雅に腰を折るのを見て、倉持も軽く頭を下げた。
「申し訳ありません。竹原は今、手が離せないのです。私は秘書の倉持と申します。代わりにご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
 倉持の言葉に、青年は少し淋しそうな表情をしたが、すぐに柔らかい微笑みを浮かべた。
 綺麗な男の人だと感じていたが、その笑顔の清廉さに、倉持はどきっとする。
 春らしい綿の長袖セーターに、綿のパンツ。淡い草色のセーターがよく似合っている。
 自分の上司と同じくらいの年齢だろうと思いながら、ラフな姿をしていても、気品を感じさせる優雅な仕草と落ち着いた物腰に、失礼だとわかっていても、視線をそらせなくなっていた。
「これを渡して頂けますか? 僕の書類に紛れてしまっていたようです。なければ困るのではないかと思いまして」
 面差しに似た優しい声と共に差し出されたのは、茶色の封筒だった。封筒に社名は入っていない。
「拝見してもよろしいですか?」
 中の書類にもしやと思いあたり、倉持ははやる気持ちのままに尋ねてしまった。
「どうぞ」
 失礼な申し出を嫌な顔もせずに、青年は許してくれた。
 封のされていなかった封筒の口を開け、倉持は中の書類を引き出した。
 それは、今でも上で、戦場の有様を呈しながらも、皆が探しつづけている『契約書』に間違いがなかった。
「ありがとうございます」
 思わず、感謝の声が零れていた。
「やはり、お困りでしたか?」
 僅かな申し訳なさを滲ませて、青年はほっとしたように微笑んだ。
「室長に会っていってください」
 倉持はその時にはある確信を持っていた。
 真央にあの笑顔を取り戻してくれた人。その人が、目の前の彼なのではないかという確信。
 この人に見せる、真央の笑顔を見てみたい。
 それは倉持らしからぬ悪戯心だったかもしれない。
 青年の持つ雰囲気は、真央の持つ空気にとてもよく似ていた。
「お忙しいのでしょう?」
 青年は申し訳なさそうに辞退する。
「これが見つかれば、あとは暇なのです、実は」
 倉持が言うと、青年はふっと笑う。
「でも、僕はそれを渡すだけのつもりでしたから」
 固辞しようとする青年との押し問答の末、『黙って帰しては私が叱られすから』と倉持が切り札を出すと、青年は戸惑いながらも頷いた。
 受け付け経由で渡された名刺を倉持も見たが、なんと読めばいいのかわからなかった。
「失礼ですが、なんとお読みするのでしょう?」
 上昇するエレベーターの中で倉持が尋ねると、相手は気にする様子もなく答えてくれた。
「むらこそです。むらこそそうじゅと言います。名字も名前も読みにくいですよね」
 名刺には、何かの流派の名前と、聡寿の名前しか書かれていない。
 和紙で作られたその名刺からも、いい匂いがしていた。
「瀞月流と言うと?」
「能狂言の小さな流派です」
 聞き覚えがあるような、無いような、あやふやな記憶だったが、思い出す前にエレベーターは15階に着いてしまう。
「こちらです。ちょっと……、その、落ち着かない状態ですが」
 倉持は断わってから、ドアを開いた。
 零れ出てくる殺気立った空気に、思わず身を引いてしまう。優雅な人と一緒にいたために、この空気をすっかり忘れていた。
「室長。竹原室長!」
 倉持は一歩を踏み出し、叫ぶように真央を呼んだ。
「あー、見つからない!」
 それが返事ですか。嫌味を言いたくなるのを堪えたのは、お客様の前だから。
「見つかりましたよ」
 倉持が行ってやると、一斉に皆の手が止まる。
 書類の入った封筒を揚げると、食い入るような視線が集まった。
「聡寿!」
 だが、真央だけは、倉持のうしろにいる人物を見て、目を見張る。
 真央は倉持を押しのけるようにして聡寿に近づいた。
 きまり悪そうに、聡寿は倉持を見ながら、なんとか抱き寄せられるのだけは身を引いて阻止した。本当に、今にも、抱きしめられそうに感じたのだ。
「僕の書類の方に紛れていたんだ。朝、あわてて会社に行ったから、その時に間違えたんだと思うけど」
 聡寿は小声で説明した。
「えっ、そうだったのか……」
 自分の失敗に気がついて、真央は恐る恐る、室内を振り返った。
「もー、室長! 何が、ここで見た記憶がある、ですかー。全然違ったんじゃないですか」
「室長の言葉、信じてたのにー」
 真央は口に手をやり、天井を見上げる。
「紙であちこち手を切っちゃいましたよ」
「これ、片付けるんですかー」
 口々に吐き出されるのはもちろん愚痴だけれど、それほど悪意に満ちていないのは、言っている人達の表情を見ればわかった。
「ごめん!」
 真央は両手を顔の前で合わせ、大きな声で謝った。
「ほんと、ごめん!」
 その姿を見て、聡寿はくすっと、思わず笑ってしまった。
 家で真央が謝るのと、ほとんど変わらなかったのだ。室長という立場にある者が、こうもあっけらかんと謝罪するというのは、他の会社では珍しいのではないだろうかと思う。
 けれど、皆はそれを微笑ましく見ている。揶揄する人もいなければ、侮る部下もいない。
「見つかって良かったじゃないですか」
「今度、奢ってくださいね」
 ニコニコと大変な労力を気にも止めず、労いの言葉さえかけるのは、皆が真央を好きだからだろう。
「ところで、どなたですか? 紹介して下さいよ」
 一人の声を皮切りに、聡寿が注目の的になっていく。
 真央のかわらない姿に思わず微笑んでいた聡寿は、視線を感じて、頭を下げて挨拶をした。
「ええーと。俺の大切な友達。村社」
 紹介者の特権とばかりに、背中を押すふりをして、真央は聡寿の肩を抱いた。
「お忙しいところ、お邪魔して申し訳ありません」
 聡寿が口元をほころばせて挨拶すると、女性達から感嘆の溜め息が漏れた。
 誰もが一瞬息を止める美しさ。それが笑顔なのだから堪らない。
 真央でさえ、ぼうっと見つめてしまっていた。
「ずるい。家でそんな顔、しないのに」
 耳元で囁くように、拗ねてみせる。
「あほ」
 真央にしか聞こえないように、聡寿も言い返す。
 そんな二人の様子を見ながら、倉持はなるほどと、頷いていた。
 真央が真央らしくなったわけ。
 自堕落で、手をつけられないと、秘書として就けられた仕事を恨んだ日もあった。
 それが、笑顔を取り戻すきっかけ。あれは、どこかのお家騒動だったのではなかったか。その時に目にした流派が、確か、瀞月流。
 倉持が秘書として就いて7年。この頃の真央は、以前にも増して、眩しいほどに輝き、意欲的になっていた。
『すべてこの人……』
 最近、真央から漂ってくる薫りは、この人のものだったのだ。
「駄目、駄目、駄目!」
 真央が叫ぶのに、倉持ははっと我に返った。
「いいじゃないですかー。ちょっとお茶するくらい」
「僕はいいですよ」
 女性達が聡寿をお茶に誘っているらしい。
「駄目! 絶対駄目!」
 真央が激しく抵抗している。そうすると、女性達がむきになる。
「室長、だって、さっき、おごってくれるって言ったじゃないですか」
「それは、つれてってやるよ」
「村社さんも一緒がいいです」
「だから、それは駄目!」
「村社さんがいいって言ってるのに」
 女性達から頼まれると嫌とは言えない真央が、今日は珍しく頑張っている。
「お茶だけ。ね、室長」
「駄目だって。こいつも忙しいし、俺たちも忙しい」
「真央さんはこのままお客さんと一緒に帰ってもらってもいいかと思っていたんですが、お忙しいのですか?」
 書類さえ見つかれば、明日の会談の準備をするだけなので、本当に真央の用事はなくなる。
「えっ」
 真央はやったとばかりに、倉持を見た。
「でも、お忙しいのでしょう?」
「うー…………」
 唸る真央を見て、聡寿は優しく笑う。
「倉持さーん、私たちも、あがっていいですよね。書類、見つかったんだし。この片付けは、明日しまーす」
「いいですよ。皆さん、これで解散で」
「やったー。村社さん、一緒にお茶に行きましょう」
 聡寿はちらりと真央を見て、誘ってくれた女性に、やんわりと断わった。
「すみません、この後、約束があるので」
 女性達は残念とばかりに、溜め息を漏らした。
「また今度、誘ってください」
 綺麗な笑みで断わられては、女性達もそれ以上は強く押せないようだった。
「聡寿、送っていくから」
 真央はポケットに車のキーの存在を確かめて、倉持に帰ると耳打ちした。
「お疲れ様でした」
 手を振る社員たちに礼をして、聡寿は真央の後に続いた。
 名残惜しそうに見送られ、聡寿は真央とエレベーターに乗りこんだ。
「なんだよ」
 恨めしそうな目で睨まれ、聡寿は無表情に聞いた。
「あんな綺麗な笑顔、俺には見せてくれない」
 子供のように拗ねられて、聡寿は呆れてしまった。
「いつもとかわらないと思うけれど?」
「全然、違う」
 聡寿は悲しそうに溜め息をこぼす。
「後援会の人達に見せる愛想笑いを毎日家でもしろって? あんたがしろって言うんならしてもいいけど、それなら別に暮らそう」
 聡寿の言葉に、真央は目を見開く。
「あんなしんどい笑顔をしなくていい場所が、僕には必要なんだ……」
 真央は背中を向けた聡寿を思わず抱きしめた。
「…………ごめん」
 背中から届いた謝罪に、聡寿はほっとする。
 聡寿にもわかっているのだ。自分がどれだけ真央に対してわがままを言っているのか。
 そうすることで、一緒にいるという現実を確かめているのかもしれない。そうしないと、これが夢なのではないだろうかと、不安になってしまう。
 わがままを言って、受け入れてもらって、その上しっかりと抱きしめてもらえる。
「あんたが……好きやし……」
 抱きしめられる腕の力が強くなる。
 とんと、エレベーターが地下一階に到着する。名残惜しそうに腕が離れて、扉が開いた。
「この後、……約束がある?」
「ないよ」
 人目のないのを確かめて、真央は聡寿の肩を抱き、自分の車へと連れていく。
 パタンとドアが閉じられて、二人の唇が重なった。


「抱き上げてもいい?」
「重いよ」
「軽いよ。全然平気」
「恥ずかしいだろ」
「誰もいないから。な?」
「…………もう」
 わがままを言いながらも、結局は真央の願いを聞き入れてしまう。
 真央は嬉しそうに笑って、聡寿を抱き上げた。
 本当に裏表のない、明るい性格だと思う。
 自分に見せる笑顔は特にそうだが、秘書にも部下達にも、屈託なく笑いかける。この笑顔を見せられて、嫌だと言える人はいないだろうと思うほどに。
『彼の笑顔が、あなたを救ったんですね』
 門田の言葉が胸にしみる。
「聡寿?」
 泣き出してしまいそうになって、ぎゅっと真央に抱きついた。
 心配そうに、真央が名前を呼ぶ。
「優しくしろ」
 恥ずかしさを隠して、命令口調で囁いた。
「仰せのままに」
 優しい声で返され、その言葉のままに、ベッドに下ろされる。
 見つめてくる瞳に、ほっとして微笑みかけて、聡寿は目を閉じた。
 優しくされるだけでは足りない、二人の時間のために。