願い
【帰りに迎えに来て欲しい】
なんてメールを送られれば、何を差し置いても駆けつける。
今夜のデートのために、前日までかなり詰め込んだので、みんなのちょっと恨めしい視線も気にならない。自分のやることはやった。
当初の予定では、今夜のデート場所である、博物館で直接待ち合わせをしていたのだが、迎えに来てといわれれば、喜んで飛んでいく。
自分の車を運転して、恋人の職場へ馳せ参じる。
けれど厳格な雰囲気はどうにも苦手で、通用門の前に着いたところで、出てきてよコールをする。
「聡寿? 今ついたよ」
「開けてもらうから」
プツッと電話は切れてしまう。
どうにも恋人は愛想がない。電話だと、それが顕著になる。
電動で開いていくガレージに車を入れるしかない。
真央はバックで駐車してドアを開けると、門田が屋敷側のドアの前で立っていた。
「お待ちしておりました」
静かに頭を下げられて恐縮する。
門田に案内されて、真央は緊張しながらついていく。
途中の廊下で擦れ違う弟子が、門田ばかりでなく、真央にも丁寧にお辞儀をして挨拶してくれるので、ますます身の縮まる思いだ。
ここには何度か訪問したことがあり、特別な人の親しい人として、最高級のもてなしをされることは、真央にとっては心臓に痛い思いのするところである。
真央が通された部屋は、いつもの応接室ではなく、奥の和室の一つで、そこには聡寿と別の客がいた。
初老に差し掛かったその男性客は、真央を見てニコニコと相好を崩し、「こちらの方ですか」と何度も頷いた。
「どうぞ、お入りください」
中に聡寿がいるものの、どうしていいのか迷っていた真央は、門田に促されて部屋の中へと入る。
聡寿が自分の隣に座布団を差し出してくれたので、ほっとしてそこに座った。みんなが正座なので、苦手だとも言えずに、真央も正座で座る。
「こちらでございます」
男性は脇に置いた箱の中から、四角い紙の包みを取り出した。それは真央も自宅でよく見かける物だ。たとう紙と呼ばれるもので、着物の収納用袋のようなものである。
多分、彼は呉服屋なのだろう。
慣れた手つきで彼が包みを開くと、黒い薄手の布が現れた。
「お家元がこちらをお選びになられたときは、どうしたものかと思いましたが、こちらの方なら、私も太鼓判を押させていただきますよ」
彼がそう言って布を広げた。
縦に長いそれは、男性物の浴衣で、黒地に濃淡の灰色で麻の葉の模様が描かれている。
呉服屋は嬉しそうに真央に近寄り、それを肩に合わせて見せた。
「え? 俺?」
「こちらは癖のある模様ですので、お似合いになる方は稀でございますが、お家元のお見立ては流石でございますねぇ」
もう聡寿は家元ではないのだが、依然として前の呼び方を改められない人は多い。聡寿は半ば諦めながら、「もう家元ではないんですよ」と訂正する。相手は詫びて呼び方を変えるが、いつの間にかまた家元と呼ぶので困っている。
浴衣を右肩にかけられて、真央はどうしていいのか、聡寿と門田を見比べた。
「立って、羽織ってみるといい」
聡寿に勧められて、真央は立ち上がり、左右の袖を通した。襟元を簡単に合わせると、呉服屋が満足そうに頷いている。
「よくお似合いですね」
門田にも褒められて、真央は引きつりながらも愛想よく笑う。
「これは私の個人名で処理してください」
「承知いたしました」
呉服屋はほくほく顔で帰っていった。
「あのさ、聡寿?」
「それに着替えてくれ。……一人で着られるか?」
言ってから、自信なさそうに聞き直す。もちろん真央は浴衣とはいえ、着物を一人で着られるわけがない。
聡寿は苦笑して真央に服を脱げと言う。
「聡寿、だからさ、この浴衣、俺のなの?」
真央は羽織った浴衣を肩から外しながら聞いてみた。成り行きから見れば、間違いなく真央のものなのだろうが、今一つ確信に欠ける。
「そうだよ。ぴったりだろう?」
確かに袖も裾も、真央にぴったりだった。
「せっかくだから、仕立物を買うよりは、反物から誂えたほうがいいと思って。早く脱げよ」
急かされて、真央はそれでも迷っていた。
「えっと、聡寿が俺にくれるの?」
「そうだよ。勝手に作った物にお金を出せとは言わないさ」
「本当にプレゼント? すごい嬉しいよ!」
真央は喜びに満ち溢れ、聡寿に抱きついた。
「こ、こらっ! は、離れろって」
まだ門田が室内にいるというのに、真央に抱きつかれて、聡寿は慌てて引き離そうとする。
しかし門田はそんなことは意に介さず、見ないふりでそっと部屋を出て行く。
それに気をよくした真央は、ますます聡寿を強く抱きしめる。
「早く着替えないと、遅れてしまう」
自分からは温かい胸から抜け出せず、抱きしめる人に離してくれと願う。
真央は聡寿に優しくそっと口接けてから、腕の輪を外した。
黒地に麻の葉柄の浴衣とグレーの帯、下駄と扇子まですべてを揃えてもらい、聡寿自ら着付けてくれて、真央は慣れない浴衣姿になった。
聡寿は真央を着替えさせると、自分も浴衣に着替えた。
聡寿の浴衣は白絣に、地織りの波模様の涼しげな浴衣だった。
いつもとは違う聡寿の姿に、真央はこのまま自宅に連れ帰りたくなる。
しかしこうして揃って浴衣を着て出かけるなど、滅多にない機会だからと、聡寿を抱きしめるのは後の楽しみに取っておくことにした。
門田は真央の車で博物館まで二人を送り、その車を二人のマンションに返してくれるという。あまりに申し訳ないと思ったのだが、慣れない着物で運転をしてもしものことがあっては大変なので、その厚意に甘えることにした。
帰りも迎えに来ると言ってくれたが、そこまでは申し訳ないので、帰りはタクシーに乗ると言って、そのまま帰ってもらうことにした。
二人が今夜のデートにこの博物館を選んだのは、ここの庭園で「七夕の夕べ」というイベントがあって、その招待状を真央が貰ったからだった。
最近建て直した博物館の外門を、真央がデザインしたという縁で送られてきたのだが、真央は同伴する相手に会社の人間ではなく聡寿を選んだのは、今日が七月七日だったからだ。
離れていた時に、聡寿に逢いたいと願い、それをただ一度だけ文字にした日。
その日を忘れたくないのは、真央の我が侭だ。
博物館の庭園には、散歩道に沿うようにロウソクの灯篭が並べられている。
低い位置に並べられた光は、緑の庭園の中で、天の川のように光の流れとなっている。
中央の池で、蛍光インクを塗った星型のプレートを浮かべて流すのが、このイベントのメインとなっているからか、周囲はカップルでいっぱいだった。
その中に男二人というのは、悪目立ちするかと心配になったが、夜の暗さと誰もが自分達のことしかないのか、二人で肩を並べていても、注目される心配はなかった。
池を渡るように橋がかけられていて、二人で歩を揃えて渡る。
水面には既にたくさんの星が浮かび、幻想的に輝いている。
ちょうど池の向こうで、ゲストのトークショーが始まったからか、橋の上には二人きりという嬉しい時間を得られて、欄干にもたれて水面と空の星を眺めて楽しんだ。
「あんた、今年は笹を用意しなかったんだな」
昨年大きな笹を用意して、瀟洒なマンションに似合わない飾りつけをした真央を、聡寿はからかう。
「うん、だってさ、東京だと笹を川に流せないだろ? それじゃ意味がないような気がしてさ」
今時はどこの川も流せないと思うが、そこはあえてつっこまないことにした。
「だから今年はここにしたのか?」
池に浮かぶ星々。よく見ると、その表面には二人分の名前が書いてあったり、願い事が書かれてあったりする。
「それもあるけどさ。家には短冊を用意してあるよ」
「笹もないのに?」
「毎年、一枚ずつ書くっていうのはどうかな。それを大切にしまっておいて、俺が死んだら棺に入れてもらうんだ」
真央の言葉に聡寿は渋い顔をする。
「死んだら……なんて、言うな」
冗談にしても、辛すぎる。そんな日が来るなんて、考えたくない。
「心配ないよ。俺は、聡寿より絶対に長生きして見せるから」
「また、そんな、根拠もないことを……」
是非そうして欲しいと願いながら、あてのない約束などして欲しくなかった。
「絶対頑張る。一分、一秒でも、長生きする」
あまりに頑固に言うので、聡寿は怒っているのも馬鹿らしくなって、クスッと笑いを漏らした。
真央が聡寿の肩を抱き寄せた。
「聡寿を一人ぼっちになんてさせない。ずっと傍にいる」
「………………」
言いたい言葉が出てこない。
いつもの真央の暢気な発言なのに、想像以上に真剣に受け取ってしまい、それで感動している自分が情けない。
嬉しい。
真央は明るく、陽気で、いつも前向きだ。
「あんただったら……ほんとに遣り遂げそうだよな」
彼だからこそ、自分は今、ここで、彼の横に立っていられる。
「もちろん」
肩を抱いていた手が上にあがり、うなじを撫で、髪を梳いて、耳朶をつまむ。
「…………約束だぞ。破ったら、許さない」
命令しているのに、声が震えてしまう。それでもきっと真央なら、わかってくれる。
「帰ろう、聡寿……」
まだイベントは続いていた。
けれど二人は自分達の部屋から、夜の空を見上げたくなった。
聡寿は返事の代わりに、自分の耳朶で悪戯を仕掛けようとする真央の手を取った。
出口へはまだ誰も向かっていない。人気のない道を、手を繋いでゆっくりと、歩いていった。