七夕


「いかがですか?」
 浴衣を着た女性に、何かを手渡された。
 思わず受け取ってしまった真央は、手渡された紙をじっと見つめる。
「今日、七夕なんでぇー、短冊にお願い事を書いてもらって、笹につけていただいているんですー」
 言われて目を上げると、巨大な笹竹に、色とりどりの短冊がびっしりと飾られている。
「何かのイベント?」
「はい、書いていただけたら、こちらを差し上げてますー」
 それはある化粧品メーカーの広告が大きく書かれた団扇とサンプル品だった。
 真央は苦笑して短冊を受け取った。近くにテーブルが用意されており、そこにカラーペンも置かれている。
 真央はペンを取り、何を書こうかと短冊を見た。
 願いはいつも一つだけ。
 その願いが叶うなら、何もいらない。すべていらない。何もかも投げ出せる。
 唯一つの願いが、どうしても叶わない。
 通行人に軒並み声をかけているのか、真央が書き悩む間にも、数人が書き終えて笹に吊るしていく。
 その姿を見送りながら、真央は意を決してペンを動かした。
 一言だけの短い言葉を書き綴り、真央は急いでそれを手の届く限りの高い場所に結んだ。
 こんなの、お遊びの軽い行事だとわかっているのに、真剣になってしまう。
「ありがとうございましたぁ」
 団扇とサンプルを渡される。苦笑してそれを受け取り、歩道をゆっくり歩く。
 あぁ、そうか……。
 真央は立ち止まり、ガードレールに腰掛けた。
 ここは……、そう、あの日、はじめて彼に声をかけた場所。
 真央は夜空を見上げる。
「東京の空じゃ見えないなよな」
 星は少なく、空も狭い。
 あの日、ここで彼を見つけたのは、もしかたら奇跡だったのかもしれない。
 真央は通り過ぎる人たちの中に、その人を探す。
 もちろん、見つかるはずもない。
 遠い空、星は見えないけれど、ベガとアルタイルは今も輝いていることだろう。
 西の空からは見えるのだろうか。
 お前たちはいいよな……、一年に一度だけでも、毎年会えるんだから……。
 真央は視線を落とす。頬に落ちてくる髪はもうない。
 いろんなことが変わってしまった。
 そして今、真央は一人で座っている。

 逢いたい……

 願いはただそれだけ。
 それだけ叶えてくれるなら……。
 他には何もいらないのに……。







 蛍がふわりと部屋の中に迷い込んできた。
「おお」
 同席していた人たちの間で感嘆の溜め息が漏れる。
 団扇であおぎ外へと誘導してやるが、その蛍はどうしたことか、団扇の風に逆らうように、部屋の中を泳ぐように飛んだ。
「あ……」
 下の席に座っていた聡寿の元へ、蛍はふわりふわりと飛んでいき、肩に着地する。
 聡寿は驚いて、身体を固くする。
「お家元の香りにつられたんでしょうかね」
 後援会の人たちが微笑みながら、聡寿を見る。
 蛍の夕べと名づけられた夕食会が祇園の料亭で行われており、後援会の人たちが聡寿を招いてくれた。
 月に一度程度行われるこんな会食は、正直なところ、聡寿の苦手するところだったが、無碍にできるわけもなく、愛想笑いを浮かべながら、忍耐の数時間を過ごす。
 聡寿は肩に止まった蛍を凝視する。
 蛍を観賞するために部屋は薄暗くされていたので、蛍の明滅に聡寿の頬が仄かに光る。
 どうしていいのかわからずに、聡寿は飛んでいけと指先で蛍の止まった場所の近くを軽く叩く。
 けれどどうしたわけか蛍は聡寿から離れない。
「家元、どこかに泣かせたおなごはんがおられるんと違いますか?」
 少しからかいを含んだ声がかけられる。
「え?」
「今夜は七夕ですさかい、お家元に逢いたいっちゅう女性が、情念を蛍の光に変えて飛ばしはったみたいな感じですな」
「七夕……」
「年に一度でも会いたいというそんな熱い想いを持った人がいてはるんと違いますか?」
 からかいというよりも、場を和ませるために言ったのだろう。誰もが聡寿を微笑んで眺めている。
「…………」
 聡寿の唇が微かに動いた。何かを尋ねるような響きは、庭の流水の音に消されるほど小さなものだった。
 聡寿はもう蛍を外に追いやれなくなっていた。
「失礼します」
 門田が小さな虫篭を持ってきた。網目の細かいその虫篭は、蛍用の小さなものだった。
「店から戴いてきました」
「でも、捕まえるのは可哀想……」
 蛍の寿命は短い。それを捕まえるのは……。
 まして、あんな話を聞かされた後で、この蛍の死ぬのは見たくない。
「明日の朝、鴨川にでも離してやりましょう。今夜だけ、灯りを借りていきましょう」
「ありがとう」
 門田はそっと包み込むように蛍を両手の手のひらで捕まえる。そして、篭の中に離してやった。
 篭の中に入っても、蛍は明滅を繰り返す。
 その灯りを見つめ、聡寿は大切そうに膝の上に乗せる。
 織姫と彦星が出会うという今夜に来てくれたこの淡い光が、どうぞ未来に続きますように。
 聡寿は庭を飛び交う無数の蛍よりも、この一つの光の方が宝物のように感じられた。