初夜
 


 言葉もなく向かい合ったまま立ち尽くす二人の横を、新幹線が発車する。人々のざわめきがゆっくりと去り、ホームに二人きりのような錯覚を覚える。
「行こう……」
 真央は聡寿のかばんを手から奪い、肘に手を添える。
 ぎこちなく改札を連れ立って出て、真央は少し離れた駐車場へと聡寿を連れて行く。
 紺色のBMWの助手席のドアを開け、そこへ座るように促す。
 話したいことはお互いに山ほどある筈だった。聞きたいことも。
 けれど、言葉が出てこない。話のきっかけがつかめない。
「まず、どこへ行けばいいのかな」
 だからそんな事務的な言葉が口に出る。
「あ、ああ。東京の事務所に……。場所、わかるかな」
「わかる」
 短い返事で真央は車を出した。

 瀞月流の東京事務所に顔を出し、明日挨拶回りするための名簿を手に、聡寿は事務所を出た。
 外では真央が車に乗ったまま聡寿が用事を済ませるのを待っていた。
「次は?」
「この場所……、門田さんに頼まれたんだけれど」
 門田がメモ用に書いた住所を見て、真央はカーナビに住所を入力し、番地近くにマークして案内を選択する。
 車内には曲がる角の指示を出す、カーナビの女性の声だけが時折響く。
 やがて目的地周辺に差し掛かり、真央はマンション名を頼りに、門田のメモの場所へと辿り着く。
「すぐ……、済むと思うから」
「ああ、待ってる」
 まだ隣に聡寿がいることが信じられない。けれど、今更何分か待つなどなんでもない。聡寿が戻ってくれるなら。
 十五分程で聡寿が戻ってきた。助手席に座り、シートベルトを締めるのを待って、『次は?』と尋ねた。
「今日は……、もう予定はなくて。門田さんが迎えに来る人と住む場所の候補だけでも探すようにと」
 その答えを聞いて、真央はわかったとサイドブレーキをおろした。
「どこかいい場所がある?」
「ある」
 真央はようやく聡寿の顔を見て、そして微笑んだ。


「ここは……」
 マンションの前に車を止めると、聡寿は驚いて顔を上げた。
「行こう、聡寿の部屋がある」
「え……」
 真央は後部座席から聡寿の荷物を取り出し、マンションの中へと入っていく。
 外装がクリーム色になり、廊下のタイルの色が変わった他は、七年前と変わらない。一歩中へ踏み込めば、まるで時を戻るような感覚になる。
 エレベーターの前で真央がボタンを押して聡寿を待っていた。
 目の前で扉が開く。乗り込むと真央が8階のボタンを押す。
 箱が昇っていくのに、聡寿は怖くなり始めた。
 この扉が開くと、目が覚めるのではないかと不安になる。
 こんなにも自分の望んだ以上の出来事が起こるはずがないと思ってしまう。
 いつか、どこかで、再会できればそれでいい。その時真央が幸せそうに笑っていてくれたらそれだけでいいと思っていた。
 それが今、彼が目の前にいて、あの時二人が離れてしまった場所へと連れて行ってくれる。
 彼の言葉が本当なら、そこに聡寿の部屋があるという。
 カタンと軽い振動と共に、エレベーターの扉が開く。
「着いたよ」
 真央が「開」のボタンを押したまま、聡寿が降りるのを待っていた。
「聡寿?」
 再会してはじめて真央が聡寿の名前を呼んだ。
 早く降りようと、真央が呼びかける。
「気分悪いのか? 疲れた?」
 心配そうな真央の声に、聡寿は俯いて首を横に振る。
「………んだ」
「え?」
「怖い。……あんたが、今、僕の目の前にいるなんて、これは……、きっと夢だ。だから、降りたくない」
「聡寿……」
 真央は聡寿の手を取り、ぐいと引っ張った。
 つまづきながらも、聡寿は真央に導かれ、廊下に出たところできつく抱きしめられた。
「……真央」
 抱きしめられる腕の強さ、触れる肌の温もり。それらが夢ではないと教えてくれる。
「俺も夢を見ている気がする……。聡寿、お前がいると信じたい。だから……、鍵を開けてくれ」
 真央はスーツの内ポケットから鍵を取り出した。
 聡寿の手を取り、手のひらに乗せる。
「これ……」
 旧タイプの血液タグがキーホルダーとしてつけられたその鍵は、聡寿の手のひらできらりと輝いた。
「聡寿のだよ」
 鍵を握る聡寿の手が微かに震えていた。どうしていいのかわからないように、聡寿は自分が手にした鍵を見つめる。
 その手を真央が握り、シリンダーへと導く。
 鍵を差し込み、ゆっくり右へ回す。
 カチッと音がして、響いた手応えはあまりにあっけなく感じられた。けれど、それは二人にとっての七年を一気に埋める確かな振動でもあった。
 ドアを潜ると、薄闇の向こうに、懐かしい風景が浮かびあがる。
 聡寿は草履を脱いで、玄関を上がる。一歩、一歩とリビングへと近づく。うしろから真央がついてくるのを感じながら。
 リビングのドアを開けると、家具には全て白い布が被せられてあった。
 その配置に眩暈に似た感覚を覚える。
 真央がばさりとその白い布を剥いだ。一枚、また一枚と、白い布を取ると、あの日あの時の風景が甦ってくる。
 リビングの全ての布が剥ぎ取られ、真央の足元には白い布の波が広がった。
「おかえり、聡寿」
 真央が布を踏み、聡寿へと近づいてくる。
 髪が短くなり、頬に精悍さを増した男は、聡寿がこの七年、一日たりとも忘れたことのなかった、何よりも欲しいと望み、諦め続けた唯一の人。
「こんな……、これは……夢?」
 真央は泣くのを堪えるような笑顔で首を振る。
「信じられ……ない」
「聡寿ともう一度始めるなら、絶対ここからって決めてたから」
「怖い……」
「怖い? 何が怖い?」
「こんなこと、夢だとしか思えない」
「俺も夢みたいだよ。聡寿がここにいるなんて。もうずっと夢でもいいや」
 真央が微笑むと、聡寿は手を伸ばしてきた。震える指先が真央の頬に触れる。
 緊張のためか、その指先は凍っているかと思うほど冷たい。
「逢いた…かった……」
 聡寿の目に綺麗な涙が浮かぶ。
 頬に触れた手を握り、真央は聡寿を引き寄せ、抱きしめた。きつく、きつく、二度と離さないために。
「もう…………離さない。聡寿……俺のものだ」
 胸の中で聡寿が頷いた。