素直な心
 
 門田さんと真央は癒着している。
 あるとき、ふと聡寿はそう思った。もちろん、それに対して、嫉妬心は感じない。むしろ、二人の繋がりがあったからこそ、聡寿は今こうして、真央と共に在るのだから、感謝しなくてはならないだろう。
 けれど、何故だか不愉快に似た感情を持ってしまう。
 例えば、聡寿の帰宅時間に妙に詳しい。寝ていたはずの時間に、ちゃんと起き出して、目を覚まして待っている。
 例えば、見えにくい場所に出来ていた打ち身なのに、帰った途端、ばれていた。
 そして、聡寿がたまたま平日にぽっかり休みの日が出来てしまった。明日会うはずの相手の都合が悪くなり、スケジュールが空いてしまうとわかって帰宅したその日、真央が『明日は休みだ』と言った途端、むっとしてしまった。
 だからつい言ってしまった。
「もっと早くに言ってくれれば僕も休んだのに」と……。
 その時の真央の顔は……、とても驚いていた。何が起きたのかわからないような表情だった。
 だいたい、その日相手のキャンセルを聞いた時点で、真央が休みを取ったのなら、さぞかし会社に迷惑をかけていると思った。真央だって、決して暇な身分ではない。きっと、秘書が予定の調整に走り回ったに違いないと思うと、素直に喜べなかった。
 今は、こうして一緒に暮らせる。そのことだけで十分なのに。
 そう思いながらも、聡寿は考え込んでしまう。
 もっと、自分に与えられたものに対して、素直に喜べたらいいのにと。
 そう……、例えば、門田さんの身近にいる、あの青年の様に……。
「聡寿、明日の朝、早いのか?」
 ベッドに入ると、真央が目覚まし時計を手に尋ねてきた。
 休みのはずだろと責めてこないので、また腹が立ってしまった。
「八時にあわせておいて」
 心にもないことを言って、背中を向けてしまう。
 ごめん。
 真央のように、素直にその一言が言えたら、どれほどいいだろう。
「おやすみ」
 こめかみにそっと唇が落ちて、部屋の中に沈黙が降る。
「真央……」
「ん?」
「明日……、午後からなら時間とれるから」
「ほんとに?」
 真央は起きあがって、嬉しそうに声を出す。
「うん」
 聡寿は頑なに背中を向けたまま、固く目を閉じて返事をする。どうしてもっと、素直になれないのだろう。
「終わる頃に電話くれよ。迎えに行くから。昼食も一緒にとれるか?」
「多分……」
 口の中に広がるのは苦い罪悪感。
「待ってるから、聡寿」
「うん……」
 背中から緩く抱かれ、いつもならそれだけで眠くなるような安心感に包まれるのに、聡寿は泣きたくなるような不安な気持ちのまま、眠りの中に身を沈めていった。
 
 
 聡寿が稽古場に顔を出すと、門田は驚いて、すぐに苦笑した。どうやら、聡寿の気持ちは見破られてしまっているらしい。
「せっかくの休みですのに」
 軽い批難は、子供を諭すように優しいが、それだけに居たたまれなくなる。
「午前中だけで帰ります」
「では、どうですか。一緒に外へ食べにいきませんか?」
 珍しい誘いに聡寿はびっくりする。
「え?」
「一度聡寿さんと、会いたいのだそうです。ゆっくり話がしてみたいと、せがまれているんですよ」
 笑いを押し隠して門田は聡寿さんさえよろしければでいいんですよと付け加えた。
「えっと、もう一人、いいかな……」
 もちろんと言って、門田は携帯を取り出す。馴染みの店に予約の電話をする。
 続いてかける電話には、気をきかせて聡寿は門田から離れた。
 優しく、和やかな恋人達。どうして自分はそんなふうになれないんだろう。思い返せば、学生時代だって、決して可愛い恋人とは言えなかった。
 意地を張って、好きになってはいけないと、そればかりを言い聞かせていた。
 長い時間会えなくて、聡寿の重い枷は外れたというのに、少しも素直になれず、真央に気を遣わせてしまっている。
 ごめん。
 彼のように、素直に言えたらいいのに……。
 そればかりが重く、心の中に沈むのだった。
 
 
「こんにちは!」
 明るい声に、聡寿のほうまで気分が晴れていくようだった。
 初めて会ったときの病弱な白さはなくなり、透は少しふっくらとして、ぴっこんとお辞儀をしたときに額に流れてきた艶やかな髪を、無造作に手で掻きあげた。
 頬に出来るえくぼが愛らしく、ずいぶん彼を幼く見せていた。
 聡寿とは何度か会ったこともある透は、真央とはほとんど初対面で、だが物怖じせずに話しかける。
「働き始めたんだって?」
 真央は真央で、元々が人見知りもしないタイプで、初対面とは思えないほど打ち解けて話している。
「はい。バイトみたいなものですけれど」
 門田との生活時間を合わせるために、透は仕事に塾の講師を選んだ。日曜日には休みを取れて、平日もシフトさえ上手く組み合わせれば、自由な時間がかなり出来るらしい。
 事故があるまでは中学校で国語の教師をしていたということもあって、教え方も上手いと評判はいいらしい。
 聡寿はそんな透を見ていて、門田もまた同じように透を見つめていることに気がついた。優しくて、温かくて、愛しい物を見つめる目。
 どこかで以前、出会ったことのあるような目の色だと思った。
「透、薬を忘れないようにね」
「ありがとう、直道さん」
 にこにこ笑って、透はピルケースを取り出し、門田が差し出したグラスを受け取る。
 幸せそうに微笑む人から視線をずらすと、真央と目が合った。
 真央は聡寿を見て、微笑んだ。何故かその視線を受けとめられなくて、聡寿はうつむいてしまった。
「まだ薬とか飲まなくちゃだめなんですか?」
「違うんだよ、これはね」
「あっ、言っちゃだめだって、直道さん!」
「そうかい?」
「なんだよー、気になるなー」
 三人のはずむ会話に、自分だけが取り残されたような、そんな気がして、聡寿は溜め息を隠した。
 
 
「聡寿、疲れちゃったか?」
 部屋に戻ると、ほっとする。安堵の溜め息を、真央は疲れたからだと思ってしまったらしい。
「大丈夫」
 それだけを言って、自分の部屋に入ろうとするところを引き止められた。
「聡寿……」
「嫌だ」
 抱きしめられて、それで何も心配しなくてもいいくらい、安心できるはずなのに。
「聡寿!」
 軽い拒絶でも、いつもの真央ならすぐに聞いてくれるのに、今日は反対にきつく抱きしめられる。
「真央、嫌だ」
 ようやく伸び始めた真央の髪が、聡寿の頬に触れる。
「どうして、そんなに辛そうな顔をするんだ? 俺と一緒にいるのは嫌か?」
 そんなことはない。そんなことなどないのに……。
「真央……」
 泣き出しそうになって、聡寿は愛する人の名前を呼んだ。
「何? 何でも言えよ」
 優しく促されて、聡寿は胸がいっぱいになってしまい、余計に言葉が出てこない。
「好き」
 結局、それだけしか言葉が出てこない。それ以外の言葉が思いつかない。
「俺も、聡寿の事、大好きだよ」
 甘い声と共に、唇が塞がれる。
「素直じゃなくてもか?」
「え?」
 なんのことかと、真央は聡寿の目を覗きこんできた。
「だから、透君のように、素直な方が、真央もいいんだろ?」
 真央は瞬きを繰り返してから、くすっと笑ってしまった。
「もういい」
「違うって、聡寿!」
 真央は離れようとする聡寿を慌てて抱きしめた。
「違うよ、俺はさ、聡寿のこと、可愛いなーって思ったんだ」
「もう三十にもなるのに」
「そんなの、俺もじゃないか。だから、違うって。聡寿は、透君に何か負い目を感じてたのか?」
 聡寿は返事をしない。
「バカだな。俺には、聡寿のほうが、素直だなって思ってるのに」
「僕のどこが」
「素直じゃないところ」
 聡寿は意味がわからず、怪訝な顔をする。
「素直じゃないところが、とっても素直なんだよ。それに、なんでも思ってること、顔に出てる。自分じゃ気が付いてないだろうなとは思っていたけれどさ」
「顔に?」
「うん。今。俺に対してごめんって言ってるなーとか、透君に対して羨ましいなと思ってるなーとか、門田さんに対して、喋りすぎだってちょっぴり恨んでるなー、とか」
 クスクス笑われて、聡寿はむっとする。
 そんなにも表情に出ているだろうか。むしろ、ポーカーフェイスだったと思っていたのに、と。
「でも、真央だって、透君のように甘えられる方がいいんだろそういう目で見てた」
「俺が見ていたのは聡寿だよ。七年間、会えなかった分、1分1秒でも長く見ていたい。聡寿から目を逸らしたりしないよ」
 食事中、ふと顔を上げると、真央と目が合った。透を見ていられなくて視線を逸らせば、真央が自分を見ていた。
「今日はごめん」
 自然にそれを言えた。言ってしまえばとても簡単で、心の中が軽くなっていく。
「もう言ってもらったよ」
「言ってない」
「だから、聡寿の目がそう言ってた」
 唇が重なる。熱い息が漏れ、息ごとさらわれそうになる。
「真央……」
「目で誘うなよ。溺れそうになる」
 溺れて……。
 聡寿は瞳で語り、真央に体重を預けた。
「愛してるから」
 耳元で囁かれる愛に、……聡寿のほうが溺れそうだった。