美杉と吉田が立ち去るのを待って、携帯の電源を入れた真央は、すぐに電話を かけた。聡寿にではなく、倉持に。
「今審査会が終わったんだけど、まだまずい状態なんだ」
 力なく真央は打ち明けた。
 美杉の手が聡寿に伸びることを一番恐れた真央は、どうすればいいのかと相談 をしたかったのだ。
『室長、とりあえず一度お戻りになって下さい。こちらのほうも少しばかりお話 したいことができました』
「わかった」
 倉持との通話を切って、真央は聡寿にかけるべきかどうか迷った。心配させた くない。だから、なんでもなかったと言ってやるべきだとわかっている。
 けれど、こんな気持ちのまま、聡寿と話せば、余計に何かを感じ取られてしま うのではないかと不安になる。
 迷っている真央の手の中で、携帯電話が鳴る。聡寿からだ。
 きっと心配をかけたのだ。唐突に通話を切ったから。
「ごめん、さっきは」
 このまま出ないことは余計に心配をかけると判断して、真央は電話に出ること にした。
『何かあったのか?』
 やはり聡寿が心配そうに声をかけてくる。
「何もない。ちょっと呼び止められてさ。審査会の方はうまくいったよ。俺の作 品だって認めてもらえた。手応えもいい感じだった」
 自分は普通の声を出しているだろうか。気をつけながら、努めて明るく、真央 は話した。
『そうか。じゃあ、もう帰れるのか?』
「それがさ、倉持さんが何か用事があるって。ちょっと会社に寄ってから帰るか ら。でも、すぐに済むと思う」
 待ってると告げて電話は切られた。
 ほっとするのと同時に、すぐに苦い思いはこみ上げてくる。
 これでは誤魔化しでしかない。美杉が何か動きを見せれば、聡寿にも害が及ぶ。
何も聞かせないわけにはいかないのだ。
 聡寿に話し、門田にも聞いてもらい、対応策を練らなければならない。
 それを思うと憂鬱になる。
 いっそ……。
 心の中で弱い自分が囁く。
 いっそ、芸術文化ホールは諦めて、美杉に頭を下げれば……。
 聡寿より大切なものなどない。聡寿を傷つけるくらいなら、この仕事を諦める ことに、迷う必要はない。
 それは誰にでも宣言できることなのに、まだ、未練があるのだ。
 自分が築きあげたもの。それは昨日今日のことではないのだ。
 楽しく、愉快に、恋愛期間を過ごしたわけではない。
 7年だ。……どんな思いで、7年を過ごした思うんだと、思い切り罵ってやり たい。
 平坦な道ではなかった。いつだって、諦めと背中合わせだった。諦められたら どんなにか、楽になれただろう。
 それでも乗り越えてきたんだ。ここまでようやく辿り着いたのだ。
 一緒に暮らし始めても、それを信じられるようになるまで時間がかかった。朝、 目が覚めた時にすべてが夢だったらどうしようかと、眠るのが怖かった夜もある。
 聡寿を返さなくてはならない日が来るのではないかという不安は、決して消え ない。
 それでも、二人でいることがようやく日常になったのだ。だからこそ、この生 活を終えることは耐えられない。
 それくらいなら、あの時思い止まったことを……やってしまうだろう。
 そんな自分が怖い。
 だから自分で決めない。今は自分には倉持がいてくれるし、聡寿には門田がつ いてくれている。

 会社に戻った真央は、倉持に様々なことを打ち明けた。
 聡寿のことで、今まで話していなかったことも、すべて明かした。
 ここを捨てて出て行く覚悟さえあったことだが、倉持は真面目に話を聞いてく れた。
「だから、美杉はまだ何かしてくると思う。今回のことで、また俺に恥をかかさ れたと思ってるだろうし」
 すべて話して、真央は深い溜め息をついた。
「あちらのことは、門田さんが抑えてくれるでしょう。マスコミ関係は、互いに 情報を引っ張り合っているので、ゴシップ記事が必要な部門があっても、芸術関 係の部署が、あちらの流派に今後取材を拒まれることのリスクを判断して、信憑 性の薄い噂話を垂れ流すことは止めてくれるはずです」
「けれど、芸術部門がない雑誌社だってあるだろう」
「建前は写真週刊誌だけで立ち上げている会社でも、裏では大手の出版社に業務 を委ねていたりするんだそうです。ですから、そちらの心配はないと、門田さん が仰っていました」
 たのもしい倉持の台詞に、真央はほっと胸を撫で下ろす。
「だけど、他にも何かしてくるような気がする」
「私が心配なのは、むしろ吉田設計事務所の方なんです」
「吉田? そういえば、わけのわからないことを言ってたな」
 自分に突っかかってきた吉田。言っていることの意味はわからなかったが、何 かを真央のせいにしようとしていた。盗人猛々しいとばかりに、聞く耳は持たな かったのだが……。
「吉田設計事務所は、今後、この世界で生き残っていくのは難しいでしょう」
 倉持の言っている意味がわからなくて、真央は首を傾げた。
「私が室長にお話したいと思っていたのは、この件についてです。吉田設計事務 所は、経営の危機に瀕していました。ご存知でしたか?」
「いや、それは聞いていない」
「かなり経済的に逼迫してたようですね。それで美杉の甘言に乗ったのでしょう。
ですが、そのことで吉田は他の仕事を断られる羽目になりました」
 言葉を切った倉持に、真央はその先の説明を求めた。
「どうしてそんなことに……」
「美杉の記念ホールは盗作である。噂が流れたようですね」
「え……?」
「実際、あれだけの大きなデザインを描ける実力は吉田にはないと思われていた ようですね」
 真央は黙ったまま倉持の口元を見つめていた。
「室長のデザインは、独特の雰囲気を持っているものが数点ありましたね。私も あの雰囲気は好きでした。それを如実に表わしたのが、あの丸いフォルムでしょ う? 見ているものにはわかったんです」
「自分で自分の首を絞めたのか……」
 吉田が真央の外のデザインを少しでも勉強してたなら、そんな失敗は犯さなか っただろう。外見だけでも、丸みをおびた独特の影を消すことはできたはずだ。
「けれど。美杉は真央さんのデザインがほしかった」
「あぁ……」
 消すことはできなかったのだ。どんなに自分のプライドがそれをしたくても。
「だけど、美杉からかなりの報酬を貰ったはずだろう? なら、吉田の事務所は 持ち直すんじゃないのか?」
 真央の疑問に、倉持は微笑を浮かべた。ぞっとするような冷たい微笑みを。
「美杉の記念ホールは、建築中止になりました」
「えっ? そんなこと、さっきは一言も……」
「ビルは設計があるから建つものではありません」
 倉持の言葉に、真央は当たり前だろうと頷く。
「盗作の噂に、建築資材を出す会社が首を横に振ったそうです。今日の真央さん の審査会で、真央さんが盗作を認めたら、建築資材を出すことになっていたよう ですね。ですが審査委員会は竹原真央の潔白を証明してくれた」
 建築業界はたくさんの会社が林立しているようで、実際は下請け、孫請けの会 社も多く、一社のみでビルを建てることは不可能だ。竹原建設でも、一つの建物 を建てるのに、どれだけの会社と契約を結ぶのか、その書類だけでもかなりの量 になる。
 それらのいくつかの会社に首を振られたら、建築は諦めざるをえない。それか、 採算を無視して、利益以上の資金をつぎ込むか。
 美杉は赤字になることを避けたらしい。
「記念ホール断念に至り、吉田も切ったようですね」
 それで吉田はあんなに怒っていたのか。美杉に切られ、噂のために他の仕事も なくなった。
 それを真央のせいのように言われても困るが。
「倉持さん、でも、全部のことがタイミングよすぎるような気がする。まさか、 ……手を回したりした?」
 決して責めるつもりではないが、むしろ感謝するくらいだが、それにしても、 何もかもが急に進みすぎて、ついていけない自分を感じる。
「竹原建設の大切な設計士を守る。大切な設計士を傷つけられて黙っていられな いのは、我が社の総意です」
 その言葉でわかった。
「このコンペが終わったら、結果がどうでも、親父に礼を言いに行くよ」
「喜ばれるでしょう」
 帰るよと席を立った真央の携帯が着信を知らせた。
 画面を確認すると、その名前に顔を顰める。いい加減しつこくてうんざりする。
「もういい加減にしてくれないか」
 通話した途端言った真央に相手は不気味な笑い声を聞かせる。
「今、お前のマンションの前だよ」
「な…んだって?」
「俺は大切な仕事を失った。会社ももうだめだ。だから、お前も大切なものを… …失うといい」
 プツッと切れた通話に、真央は顔色をなくす。
「真央さん?」
 倉持が心配して声をかけてくる。
「マンションの警備室に電話して! すぐに入り口を閉めて誰も入れるなって!  俺の部屋……、無事を確かめるように言ってくれ!」
 真央は叫び声を残して飛び出した。







 吉田からの電話を叩き切った真央は、会社を飛び出して、家へと車を飛ばした。
 信号で引っかかるたびに、呪いの言葉を吐いた。
 どうして飛んでいけないのか、頭の中が不安と怒りで焼け尽きそうだった。
 早く、早く、と心の中で念じた。通いなれた道がとてつもなく遠く感じられた。
 自分のせいだ。真央は悔しさと情けなさに歯軋りをする。
 自分があの時に諦めてさえいれば。聡寿を巻き込まずに済んだのだ。
 一緒にいられるだけで満足せず、同じ舞台に立ちたいなどと、浅はかな夢を描 いたせいだ。
 欲深い自分が……。
 そのために聡寿を失くすのではないか。それは耐えられそうにない恐怖だった。
 聡寿を失くすぐらいなら……離れていたほうが幸せだ。
 目の奥が熱く、視界が霞みそうになったとき、マンションが見えてきた。
 エントランスぎりぎりに車を止める。急ブレーキに、タイヤが煙を上げた。
「聡寿!」
 大丈夫だ。きっと大丈夫だ。そのために警備員を置いてあるのだから。
 真央は祈る気持ちでオートロックを解除した。
 玄関ロビーに人影はなかった。警備員もいない。エレベーターは8階で止まっ たままの表示になっている。
 真央は体中の毛穴が開くような寒気を感じながら、エレベーターのボタンを押 した。
 すぐに表示される数字が小さくなっていく。
「頼むから……」
 軽やかなベルの音ともにエレベーターが開く。その中には誰もいない。
 真央はすぐに乗り込んで、8の数字を押した。
 ぐんと持ち上げられる感覚。早く、早くと気持ちばかりが焦った。
 軽い振動のあと、ベルの音が響く。扉が開くのももどかしく、真央は廊下に飛 び出した。
「聡寿!」
 廊下には警備員に押さえつけられた吉田がいた。
 真央の姿を見て暴れ始める。
「離せ! この野郎! 竹原、離すように言え!」
 だが真央は捕まえられている吉田よりも、聡寿のほうが気になってならなかっ た。
「聡寿……、聡寿は?」
 真央が警備員に尋ねると彼は部屋の方を顎でさした。
「まだお部屋の方におられます。出てこないようにお願いしました」
 ならば自分は間に合ったのだ。
 全身から力が抜けて座り込みそうになる。けれどまだ聡寿の無事を自分の目で 確認していない。
「竹原! 離せ! お前の大切なもの、滅茶苦茶にしてやる!」
 喚く吉田を悲しげに見やって、真央は部屋のドアを叩いた。
「聡寿、開けてくれ。無事な姿を見せてくれ」
 かちゃりとロックの外れる音がして、聡寿が顔をのぞかせた。真っ青になり、 唇が震えているその姿を見て、真央は後悔で身体がし潰されそうだった。
「ごめん、大丈夫だったか?」
「あんたは? あんたは、怪我、してない?」
 真央は無理にも笑って、大丈夫だと告げた。
「もうちょっと部屋で待ってて。多分、もうすぐ倉持か、門田さんが来てくれる はずだから」
「あんたは……」
「俺は、ちゃんとけりをつけてくる。もう、聡寿を危険な目に遭わせないように」
「そうじゃないんだ、真央……」
 何か言いかける聡寿に、真央は大丈夫だからと微笑んで、ドアを無理矢理閉じ た。
「下へ連れて行ってくれ。警察を呼ぶ」
「そんなことをしてみろ。コンペだって、不祥事で落選してしまうからな。それ でもいいのか!」
 警備員に無理矢理引っ張られてエレベーターへと連れて行かれながら、吉田は 執拗に真央を攻めたてた。
「いいさ、警察へ突き出せよ! 俺はお前のしていることだって、何もかもしゃ べってやるからな。マスコミにも全部ぶちまけてやる。お前も地に堕ちろ!」
「どうとでもしろ。俺が守りたいのは一つだけだ。今回はそれを再確認した。何 を失っても、俺は怖くない。ただ一つのもの以外は」
「それだって、俺が壊してやる!」
「それはもう無理だ。……あれはもう、俺の傍からいなくなる。お前も手の出せ ない場所へ」
 そうだ。
 離れていても平気だ。
 聡寿がこの世にいてくれる。
 前のように、雑誌やパンフレットの中に、彼の元気な姿が見られればそれでい い。他には何も望まない。
 エレベーターが1階に到着すると、警備会社から補充要因が到着していた。そ のまま警察に連絡しているところへ、門田がやってきた。
「真央さん……」
 心配そうな門田に、真央は頭を下げた。
「俺がついていながら、こんな騒ぎに巻き込んですみませんでした。聡寿は部屋 にいます。……事務所の方に連れていってやって下さい。あちらの方がセキュリ ティーは万全でしょうから」
「ですが」
「お願いします」
 門田の顔を見られず、真央は頭を下げた。胸は痛いが、それ以上に辛いことを 知ってしまった。この痛みなど、小さなものだ。
「落ち着いてからお話しましょう」
 門田は何もかもを飲み込んだように穏やかに告げた。
 門田がエレベーターに消えるとどうじに、倉持がやってきた。驚くことに、倉
持は美杉を伴っていた。
「倉持さん、どうして……」
 真央は非難するように倉持を見つめた。
「美杉氏に責任がないとは言い切れません。警察沙汰にする以上、美杉さんも知 らないではいられないでしょう」
 倉持の説明に、美杉は苦々しい顔を吉田に向けた。
「本当に使えない奴だったな。竹原の設計図を盗み出すくらい、簡単だと言った のはどこの誰だ」
「盗み出しただろう! それをちゃんと使えなかったのは、お前だ! なのに、 なのに、俺のことを切りやがって!」
 醜い争いに、聞いているほうが恥ずかしくなる。
「美杉さん、あなたが本当に俺のデザインが欲しかったとは思えない。なのに、 どうしてこんなことまでして、俺を嵌めようとしたんだ。それがわからない」
「わからないか。……そうだろうな。欲しいものを欲しいと言えて、手に入れら れるお坊ちゃんには」
 憎しみの視線が真央を捕らえた。
「……何のことだ……」
 真央にはわからなかった。確かに自分は竹原建設の社長の息子だが、わがまま で手に入れたようなものはないと、胸を張って言える。
 デザイン設計室は、確かに自分のわがままで作ろうとしたが、それを独立でき るようにするまで、どれだけ努力したのかは、社内外の誰もが認めてくれている。
「わからないか、わからないだろうな。だからこそ、お前が憎かった。私は、あ の、綺麗な人が欲しかった。お前のように汚れた手で触れるのではなく、純粋に 天上の人として、傍にいて欲しいと願った」
 美杉の視線は真央を逸れて、マンションのエントランスに向かった。
 そこには門田に伴われた聡寿が立っていた。
「聡寿……」
「あの人が欲しい。それを手に入れたお前が憎かった」
「簡単に……手に入れたと思ってるのか……」
 真央の呟きは美杉には聞こえなかったようだ。
「私は後援会の筆頭に名前を連ねることすら許してもらえなかった。ここの流派 はとても厳しい」
「私達があなたをお断りしたのは、あなたが古典芸能に興味をお持ちでないこと を察したからです」
 門田が真央と美杉に割って入った。
「それでも、スポンサーは何人いても邪魔にはならないでしょう」
「そんなお考えでは……いつまでたっても、入っていただこうとは思いませんね。 それこそ、あなたにはおわかりにならないでしょうが」
 門田の答えに、美杉は唇を歪ませて笑った。
「たかが芸人風情が」
「その侮辱、二度と忘れないでしょう。私どもの後援会には、あなたがお取引を なさっている会社もたくさん含まれていることをお忘れなく」
「ほう、高尚な方が脅しをされるのですか」
 美杉と門田の睨み合いは続いた。
「あなたがされたことに比べれば、他愛ないものですよ。うちの後援会は、別名、 前家元のファンクラブみたいなものですから、今後同じようなことが起こればす ぐにも動き出しますよ。今度は、スキャンダルを消すだけでは我慢してくださら ないでしょう」
 門田の冷静な声に、美杉は鼻で笑った。
「とうとうそこまで嫌われたわけですか。わかりました。もう顔は見せないこと にしますよ」
 美杉は真央をひと睨みして、立ち去りかけた。
「そいつを連れて行ってくれ」
 真央は美杉を呼び止め、吉田を指差した。
「真央さん、よろしいのですか?」
 倉持が心配そうに声をかける。
「吉田、俺にはもう大切なものなんて残らない。今、決めた。大切なものは、大 切な場所に返すことにした。美杉さんと同様に、お前の手にも届かない。……俺 の手にも」
 身体を震わせた聡寿を門田が抱きとめた。
「もう、二度と彼には関わるな。次に何かあっても、今回のように見逃してもら えないぞ」
 力なく告げる真央に、吉田は頬を痙攣させて美杉を見た。
「来い」
 美杉は憎々しげに命令して、吉田を振り返りもせずに歩み去った。吉田が慌て てその後を追っていく。
「警察の方は私が対処しておきますので、真央さんはお部屋に戻って下さい。村 社さんの顔色が優れないようですので」
 倉持のアドバイスに、真央は弱々しく微笑んだ。
「いいんだ、もう」
 真央はゆっくりと聡寿に振り返った。
「俺は……聡寿に元気でいて欲しい。こんなことに二度と巻き込みたくない。だ けど俺はお前がいたら欲張りになってしまう。あれもこれもと望んで、またきっ と危険な目に遭わせてしまう。聡寿はもっと安全な場所がある。そこで守っても らってて欲しい。だから…………別れよう」
 重い言葉が二人の間に、そっと落ちた。







「…………別れよう」
 二人の間に落ちた言葉に、その場に居合わせてしまった人間たちは息を呑む。
 かける言葉も見つからず、ただじっと二人を見守るしかできない。
 動いたのは美しい人だった。
 震えるほどに握り締めていた手を解き、発言者につかつかと歩み寄り、手を振 り上げた。
 倉持と門田は思わず目を閉じた。パシンと乾いた音が響く。
「……聡寿」
 薄く赤くなった頬を押さえもせずに、真央は真剣な眼差しで聡寿を見た。真っ 赤に充血した愛しい人の目に、心がひどく痛む。
 泣かせたくはないのに、いつも泣かせてしまう。そんな自分がふがいない。
「どうして自己完結してしまうんや。僕たちの七年は……そんなに軽いものやっ たんか? あんたが一人で決めていいことなんて、二人の間に一つもあらへん!」
「だけど……聡寿、俺はお前を傷つけたくない」
「あんた以外に、誰が僕を傷つけるっていうんや。誰に何を言われても平気や。 どんな中傷にも耐えられる。けど、僕を置き去りにするあんたが一番……一番僕 を傷つける」
「聡寿……」
「どうぞお二人で落ち着いて話し合われて下さい。私達一門はどんなことがあっ ても聡寿さんをお守りします。けれど、聡寿さんのお心を守りぬくことはできま せん。それができるのは、竹原さんだけだと思っていたのですが、違いますか?」
 聡寿の身近にいつも控えている門田の言葉に、真央は唇を噛みしめる。
「真央さん、私は村社さんがおっしゃられた七年間をあなたの秘書として働いて きました。あなたがどのような答えを出されようとも私はついていく覚悟ですが、 あの七年のような室長をもう一度見るのは辛いです。手に入れられる幸せを、怖 いから掴まないのは、あまりにも真央さんらしくありませんよ。どうぞ突っ走っ て下さい。その後始末をするほうが私は幸せですね」
「倉持さん」
 二人に背中を押されるように、真央はぎこちなく一歩を聡寿に向かって踏み出 した。
 びくりと聡寿が身体を震わせる。
「ごめん……聡寿」
「何も聞きたくない。もうあんたに傷つけられるのはたくさんや」
 聡寿は身を翻し、マンションに向かって駆け出した。
「聡寿!」
 真央は慌ててその後を追った。

「聡寿。待ってくれ」
「いやや、別れるんだろう。もう、離せ。痛い」
「聡寿!」
 エレベーターが8階に到着する。扉が開くと同時に、縺れるように箱を出る。
「聡寿、ごめん」
「あんたの謝罪は聞きたくない。あんたはすぐに謝る。その言葉に真実なんて、 ない」
「……聡寿」
 掴む真央の手を振り解いて、聡寿はドアに手をかける。
「頼む、聞いてくれ!」
「嫌だ。嫌だ! 謝罪も言い訳も聞きたくない。別れの言葉も……」
「愛してるんだ、聡寿」
「嘘だ。別れようって言ったくせに!」
「別れたくない。別れたくない!」
「どれを信じていいのかわからない!」
 抱きしめようとする真央と、逃げ出そうとする聡寿と、諍いが続く。
「ずっと聡寿の傍にいる。別れようなんて、二度と言わない」
「嘘だ」
 抵抗の力が弱まる。真央は強く聡寿を抱きしめた。
「ずっといる。聡寿が俺を信じてくれるまで」
 温かい身体。仄かな香の薫り。柔らかい肌。
 再び失うところだった。しかも、自分の勝手な思い込みだけで。
 抱きしめた身体が小刻みに震えている。
 傷つけたくないのに、また泣かせてしまう。
「離さない。聡寿が許してくれるまで」
 どんと背中を叩かれる。
「僕が信じたら、離れるんか? 僕が許したら、離れるんか?」
 疑心暗鬼になっている聡寿を強く強く抱きしめる。
 一度口に出してしまった言葉は取り消せないのだと思い知る。
 もう一度信じてもらえるまで、本当の言葉を言い続けるしかない。
「愛してる、聡寿。ずっと、ずっと、お前だけだ。お前のことは、俺が守り続け る。誰にも頼らない」
 息もできないほど抱きしめる。
 苦しいほど、狂おしいほどに抱きしめられ、聡寿は涙をこぼした。
 このまま息が止まってもかまわない。
 この腕の中以外に、自分の居場所などない。
 だから……このまま……。
 背中に手を回して、上着を握り締める。
 玄関も開けぬまま、二人はいつまでも抱き合っていた。

 マンションの前に残された二人は顔を見合わせて苦笑した。
「やれやれ、ですね」
「結局、あてられただけなのかもしれませんが」
 そういう門田に、倉持は軽く吹きだしてしまう。
「七年間、真央さんのお気持ちに気づいてらっしゃったのですか?」
「昔から言うではありませんか。忍ぶれど色に出にけり、と。ですが、その色は あまりに苦しい色をしていました」
「そうですね」
「もっと幸せに貪欲になって欲しいです。その権利があの二人にはあるのに」
「ええ。でも、欲深くないからこそ、応援したくなるのですけどね」
 そういって、仲直りを信じて疑わない二人は、ようやく明るい笑顔を浮かべた のだった。

 数日後、真央の元に一次選考通過の報せが届く。
 プレゼンテーション、二次選考を終えて、芸術文化劇場設計コンペティション で選ばれたのは、竹原真央のデザインの、太陽をモチーフにした優しい光に満ち た劇場だった。
 明るいエントランスを通り抜けると、昼と夜の境目にはまり込んだような回廊 が続く。
 その先には、夜空を思わせるロビーの中央に満月が浮かんでいる。
 輝月ホールと呼ばれるようになるこの劇場のオープン記念のセレモニーに、真 央は望み通りに聡寿と並んで立ったのだった。