RAILWAY  〜あなたへと続く道〜



 手にした灯かりを
 幻だと疑ったことはありますか

 二度と失いたくない
 だから……
 私は前だけを見つめるのです



 玄関を開けると、急に冷たい空気が押し寄せてきたような気がした。
 寒さに震える。
 唇の端に苦い笑みを隠す。
 もう五月だというのに、一人寒さに震えるなんて。
 彼は深い溜め息をついて、一人きりの部屋へ入る。
 朝出かけたまま、少しテーブルからずれた椅子、シンクに放置されたマグカップ。
 どれもこれも、一人きりだと感じさせる、悲しい現実。
 書類ケースをテーブルに置き、ずれた椅子にそのまま座る。
 ネクタイに人差し指を差し込み緩めると、溜め息も一緒に溢れ出た。
「…………」
 名前を呼ぼうとして、息を飲み込む。
 震える指先を、同じように震える手で包み込んだ。
 夜が、墨を流し込んだような闇夜が、彼を覆っていた。
 月のない黒い夜が……。



 オフィスは戦場のような騒がしさだといつも思う。
 その中に身を置くのが何より自分の活性化に繋がると、今までは疑ったこともなかった。
 けれど、今ならわかる。それは欺瞞だ。
 自分を誤魔化しているに過ぎない。
「室長」
 目の前には開いたままのパソコンの画面が、色とりどりの傘を広げている。スクリーンセーバーが流れ始めてから、どれほどの時間、その傘が開いていくのを眺めていただろう。
「室長」
 マウスにかけた手は、ぴくりとも動かない。
「室長!」
 耳元で叱られるように呼ばれ、真央ははっと身動きした。その振動で画面が図面に入れ替わる。
「あ、何?」
 いつの間にかオフィスはしんと静まり返っていた。視線が自分に集まっているのを感じる。だが、彼は目前に立つ端整な容姿を冷たい眼鏡に隠す、名目上は自分の部下から目を離せなかった。
 眼鏡の奥には冷たい目が光っている。
「本社での会議に出席されるのでしょう。もう出発なさらないと」
 倉持の抑揚のない声に怒りをひしひしと感じる。
「あ、ああ、会議か」
「しっかりなさってください」
 久し振りに聞く「しっかりなさってください」という言葉に、真央は軽く噴き出す。
「何がおかしいのですか?」
 真央が笑うと、倉持はむっとする。
「いや、久し振りに聞いたなと思って」
 椅子にかけていた上着を持って立ちあがる真央を見ながら、倉持はふと過去を重ねていた自分に気づいた。
 倉持が秘書として彼についた当初、この上司は傍目にもありありとわかるほどに荒んでいた。
「ごめん、気をつけるから」
 肩を叩いてオフィスを出ていく真央の後を追いながら、倉持は一昨日からの真央の落ち込みの原因が何かを考えていた。だが、思いつくようなことはない。
 エレベーターホールで追いつき、一緒の箱で地下まで降りる。
「何か、あったのですか?」
「ん? 何かって?」
「落ち込んでおられるようなので」
 二人きりになったこともあって、倉持は率直に聞いてみた。仕事上のことであれば、これから自分のフォローも必要になってくるのではないかと考えたのだ。
 だが、倉持の言葉を聞いて、真央は溜め息をつき、エレベーターの天井を見上げた。
「そんなに、変かな?」
「うちの事務所は室長が沈んでおられると、社員の士気まで下がるようですよ」
 そう言われて、真央はオフィスの、いつもとは少し賑わしさの違う様子を思い浮かべる。確かに、真央が元気がないと、それは伝播するのかもしれなかった。
 地下にエレベーターが到着し、二人は車に向かって歩き始める。
「室長は、オフィスの太陽のようなものですね。太陽が出ない曇りの日は、気分も……」
 言いながら、倉持は歩みを止めた真央に不審の目を向ける。
「室長?」
「……あ、ああ……」
 真央は2歩、足を進め、また止まる。
「本当に、どうされたのですか?」
 倉持が心配そうに尋ねた時、真央は突然両手を合わせて倉持を拝むようにした。
「ごめん。本当にごめん」
「は? 何を謝っておられるのです?」
「俺、今日から週末まで急病っていうことにしといて」
「え……」
「俺、急病で、高熱で、ええっと、そう、三日ほど動けないってことで」
 言いながら真央は後退く。
「真央さん!」
「埋め合わせは絶対するから!」
「真央さん!」
 引きとめようと伸ばした手は、空を掴む。
「真央さん!」
 走り去る背中は、まるで少年のように輝いていて。
 追いかけなければ。わかっているのに、倉持は捕まえられなかった手を、自分の携帯に伸ばした。



 新幹線のホームは嫌い。
 手の中の切符を握り締める。
 向こうで彼は、どんな顔をするだろう。
 だが、もう、一人でいるのは耐えられなかった。
 いいのか? 本当に?
 緊張に震える足に無理にも力をこめ、白い車体に乗り込む。
 平日の昼間。車内はがらがらに空いていた。
 指定されたシートに座り、目を閉じる。
 ……室長は太陽ですね。
 倉持の声に、優しい声が重なる。
 …………真央は、僕の太陽だから。
 でも、一人じゃ寂しくて、輝くことなどできない。
 まぶたの裏に愛しい人の笑顔が浮かんだ時、新幹線は静かに滑り始めた。
 今、俺は風になる。
 お前に届く風になる。



 京都駅は独特の空気が漂っている。人の多さは東京と変わらないのに、空気の匂いが違う。これがきっと歴史の重さなのだと思う。
 真央は京都駅に降り立ち、一つ溜め息をつく。
 とうとう来てしまった。
「とりあえず」
 自分に言い聞かせるように、呟く。とりあえず、ホームから出よう。そして今夜のホテルをとろう。
 真央は携帯を手に持ちながら、それを使えずにいた。
 まだ、怖がっている自分に気づく。
 暗い笑みを浮かべ、真央は夕闇に沈み始めた古都の街へ、一歩を踏み出した。



 呼び出し音が三度鳴ってから、相手が電話に出た。
「俺」
 相手が名乗るより早く告げる。
『どうした? まだ会社か?』
 柔らかく響く声に、真央は泣き出しそうになる。自分の中に眠るあの恐怖がずっと、真央に今までのことは夢だったのだと、告げているような気がしていた。
『真央?』
「今……」
 ごくんと唾を飲む。
「今、ホテルにいる」
『……ホテル?』
「…………京都ロイヤルホテルにいるんだ」
 相手の息を飲む気配と、長い沈黙に耐えられなくなって、名前を呼びそうになった時、短い応えがあった。
『すぐに行く』
 プツッと途切れる通話と、ツーツーという無機質な音。
 低い聡寿の声に、不安が押し寄せる。
 怒らせた。
 怒らせてしまった。
 でも、もう戻れない。
 何度でも謝るから、この手に抱かせて、その身体の温もりを。もう一度君を抱くことができたのは、嘘じゃないと教えて。
 真央はソファに身を沈め、両手に顔を埋めた。



 室内に響く、微かなノックの音に、真央は慌てて立ち上がる。急いでドアに走り寄り、オートロックの重厚なドアを開ける。
「…………」
 無言で聡寿が立っていた。
「聡寿……、ごめん……。俺……」
 真央はドアを持ったまま俯いて詫びる。長い髪が真央の表情を隠す。
 聡寿は灰青色の着物を着ていた。厚い絨毯に草履の音は吸い込まれ、聡寿は音もなく室内に入ってくる。それが現実感を喪失させ、真央を更に不安にさせる。
 今自分は、幻の彼を見ているのではないだろうかと思って。
 室内に入ると、聡寿はくるりと振り返り、手を上げた。
「っ……!」
 打たれる! 咄嗟に真央は両目をきつく閉じた。
 と、ふわりといい香りに包まれる。
 突然の事に驚いた真央は掴んだままのドアノブを離した。ゆっくりとドアが閉まる。
「…………」
 囁くような声は、ドアの閉じる音に掻き消されるほどで。けれど真央はその声をしっかりと聞きとめ、飛び込んできた細い身体をしっかりと抱きしめた。
 お互いに言葉もなく、ただ、その存在を確かめたいとばかりに、力をこめて相手を抱きしめる。
 嘘ではなく、幻でもなく、その温もりを、心臓の鼓動さえ伝わるほどに抱きしめる。
「聡寿……、ちゃんと顔を見せて」
 いくら抱きしめても、これで十分ということはないけれど、それでもちゃんと顔を見たい。
 真央は両手を聡寿の頬に添え、そっと自分の胸に縋りつく恋人の顔を持ち上げる。
「聡寿……」
 その聡寿の両目に涙が浮かぶのを見て、真央は慌てる。
「そ、聡寿」
 どうすればいいのかとオロオロし、溢れ出るものを指で拭う。
「ごめん、俺、会いたくて、我慢できなくて……、それで……」
 手で拭っても、唇ですっても、あげくシャツで拭いても、聡寿の涙は止まらず、真央は申し訳なさそうに詫びの言葉を連ねる。
「聡寿……、あの……」
「馬鹿、……真央」
 どしんと胸を叩かれ、聡寿は再び真央の胸に顔を埋める。
「ごめん、聡寿」
 ぎゅっと抱きしめ、真央は聡寿の髪にキスを落とす。どうすれば彼が顔を上げてくれるのかわからなくて。
「会いたかった……」
「え?」
 一瞬、真央は自分の都合のいいように、聡寿の声が聞こえたのかと思った。
「真央、……会いたかった」
 まるで子供が駄々をこねるような言い方に、真央は泣き出しそうになって、無理にも笑おうとした。
「聡寿」
「ここにおったら、時間が戻ったみたいで、もう東京に帰られへんとか、あんたと一緒に暮らせるようになったのは、夢やなかったのかなとか、そんな事ばっかり考えてしもうて、もう、もう……」
 あとの言葉は嗚咽にまぎれて、聞き取れなかった。
 聞く必要もなかった。
 真央は自分も言葉をなくし、愛しい身体を抱きしめる。二人の間には何もなくていい。感じ合える温もりだけがあればいい。
「聡寿……」
 真央は涙の消えないこめかみにキスをして、聡寿を抱き上げた。
 ベッドまでのわずかな距離ももどかしく、聡寿を降ろすと、自分もベッドに乗り上げる。伸ばされた両手が真央の髪をかきあげる。
「会いたかった。聡寿……」
「真央……」
「俺も、もう聡寿が帰って来ないような気がして、それで、一人であの部屋にいるのが耐えられなかったんだ……」
 焦るように唇を合わせる。そこにあるものを確かめるように。
「真央……」
 キスを交わし、着物の袷へと手を忍びこませる。
「聡寿……」
 現われた白い胸に額を摺り寄せる。キラリと光るタグにもキスをして、真央は聡寿の背中に手を回し、帯を解いた。
「真央……」
 シュッと衣擦れの音がして、真央は着物の左右をゆっくり開く。
「聡寿……、綺麗だ……」
「馬鹿……」
 着物をかき合わせようとする両手の手首を掴み、真央はその指先に唇を押し当てる。
「愛してる、聡寿……」
「離れたくない……」
 普段は禁欲的な彼の、眩暈のするほどの告白に、真央は泣き笑いの表情をする。
「俺も……。聡寿……」
 聡寿の白い肌に唇を何度も何度も落としながら、真央は自分もシャツのボタンを外し、着ているものを脱ぎ捨てていった。
「そのまま、……真央……」
「ん? なに?」
 すべての布を取り去った時、聡寿が真央に両手を伸ばした。真央は聡寿の髪を撫でながら、耳朶にキスをする。
「抱きしめて……」
「え、だから……」
 今から……。そう言おうとした真央に、聡寿はしがみつき、自分の顔を隠して告げる。
「このまま体温を感じたいから、……だから……」
 真央はすべてを聞かずに震える身体を抱きしめた。足を絡ませ、肌と肌が触れ合わない場所はもうないというくらい強く。
 再会したばかりの頃、聡寿はこうして真央の肌に触れたがった。
 触れる肌と、直接伝わる温もりは、離れていた分の二人の距離と時間を埋めるため。
 昂ぶる身体はこのままでもいい。今はただ、心の中にこの温もりが溢れるまで抱きしめていよう。
 真央は背中に回された手がより熱い愛の行為を欲しがるまで、その髪を撫で、背中を撫でていた。