夏風
 


 暑い夏を予想させる梅雨明け間近の朝、食卓で、日頃は休みの合わない最愛の恋人から「夏休みなんて取れる?」と聞かれたら、あなたはどうしますか?
 真央は思いもかけない問いかけに、倉持の渋い顔が一瞬浮かんだが、黒板消しで消す勢いでそれを消し去り、「取れる、取れる、何日でも」と答えた。
 聡寿は呆れた顔で、「本当の夏休みっていうか、お盆休みは、いつなんだ?」と問い直した。
「えーっと、15日を挟んで、その前4日か、その後4日か選べるようになってる。でも、俺は有給が余ってるから、別の日にずらすこともできるよ。聡寿の休みにあわせる」
 聡寿は少し考えて、綺麗な瞳を真央に向けた。真央はそれだけでドキッとする。
「京都旅行なんて、……気が進まないよな?」
 少し申し訳なさそうに尋ねる聡寿に、真央はにっこり微笑んだ。
「聡寿のお母さんのお墓参りに行って、それから、観光とか、足を伸ばして日本海とかもいいよな」
 聡寿はそれを聞いて、少し驚くように目を見開いて、そしてはんなりと笑った。
「ありがと……」
「向こうにも顔を出す必要とか、ある? 俺、ホテルで待ってるけど」
 自分たちの休暇なのに、聡寿の予定を優先しようとしてくれる真央に、聡寿は嬉しそうに笑う。
「お寺で父親と少し話をするくらいで、あとは……、フリーにしようと思ってる」
「そっか、じゃあ、ホテルの手配とか、二人で計画練ろうよ。楽しみだなぁ」
 純粋に休暇を楽しもうとしてくれる真央に、聡寿は心の中で感謝する。本当なら、京都など行きたくないだろうにと思う。それなのに、そんな気持ちは欠片も見せず、聡寿の予定まで気遣ってくれる。
「泊まる所は……、行きたいところがあるんだ」
「あ、そう? じゃあ、予約は任せていいのか?」
 頷く聡寿に、真央は観光はどこがいいかなぁと、早くも観光名所や近場の温泉を上げていた。


 聡寿と出会ってもう11年になるが、彼の母親の墓地を訪れるのははじめてだった。
 新幹線に乗り、京都についてすぐにタクシーに乗り、ここへ直行して来た。ここへだけは着物で行きたいと、聡寿は黒の着物を着ていた。
 墓地の前で聡寿の父親と顔を合わせた。
 本来なら合わせられる顔ではなかったが、真央はどうしても母親の墓参りをしたかったので、緊張のきわみだったが、震える声を抑えようと必死で挨拶をした。
「聡寿がお世話をおかけします。何かお困りのことがありましたら、こちらにもご相談ください」
 それは父親として思いやりに溢れる声色で、真央は深く頭を下げながら、溢れそうになる涙を堪えるのに努力を要した。
 三人で手を合わせ、寺の住職と少し話をして、そこで父親と別れた。
「本当に行かなくていいのか?」
 走り去る車を見送りながら、真央は隣に立つ聡寿に尋ねた。
「行けば休みがなくなるけど、いいのか?」
「うーん、それは駄目」
 お盆で墓参りの人が多く、抱きしめられないのが残念で、真央はそっと袖に隠すように、聡寿の手を握った。聡寿はくすっと笑い、一瞬だけ握り返して、待たせていたタクシーに先に乗り込んだ。
 真央はそれでも嬉しそうに、聡寿の後を追いかけたのだった。


「ここって、……誰の家?」
 真央は通された部屋で、床の間を見ながら、聡寿に尋ねた。
「旅館だよ。女将が挨拶に出てきただろう?」
 聡寿はそういうが、旅館の看板は出ていなかった。隠れ宿というか、一見の客を断るために看板を出さない旅館はあるが、ここはそれ以上に旅館らしくない。
 フロントも帳場もなく、玄関でさえ、間口の広い一軒家のように見えた。
 確かに年配の女性が着物姿で挨拶に出てきたが、聡寿の顔見知りのようだったし、ようこそというような挨拶ではなかったのだ。
「それに、他の客の姿も見えないし、音も聞こえない」
「一晩に一組しか泊めないから」
「ええっ」
 真央も竹原建設の息子として、ある程度の贅沢は見てきたが、こんな特別なところには来たことがなかった。一晩に一組といっても、きっとよほどの相手でなければ断ることも予想できた。
 そう思うと、大切な恋人が、その「よほどの相手」であることが、俄かに現実感を伴って真央に重くのしかかってくる。
「女将とか、また部屋に挨拶に来る?」
「来ないよ、食事も部屋に運んでもらって、自分たちでって頼んである。もう気を遣わなくていい」
 真央が堅苦しさからそんな心配をしていると思ったのか、聡寿はなんでもないことのように言った。
「そっか……。ここからなら、明日は予定通りでいいか?」
「あぁ、でも、市内観光とか、しなくていいのか?」
 聡寿は今更だろうと思って、市内観光の予定は組まなかった。東京も記録的な猛暑だったので、京都はもっと蒸し暑いだろうということでアスファルトは避け、ゆっくり嵐山周辺の緑と森林浴を楽しむ予定だった。

 いくら一組だけの客とはいえ、勝手気ままに騒ぐのもはしゃぐのも気が引けて、温泉並みの広い浴室でも、真央は聡寿を抱きしめるのこともできず、暴れそうになる欲望を決死の想いで抑えつけて、部屋へ戻った。
 料理は和食の会席で、一流の料亭でもここまではと驚くほどの美味で、出された日本酒は、つい飲みすぎてしまいそうなほどすっきりした喉越しだった。
 自分たちでするからと伝えていると聡寿が言ったとおり、余計な話や勺をして女将が部屋に残るというとはなく、二人で和やかに話すことができた。
「なんか、あんた、今夜はおとなしいよな」
 酔いでほんのり頬を染めた、絶妙に色っぽい姿で、酒のためとはいえ潤んだ瞳で軽く睨まれると、真央はもう、座ってもいられぬほど、そわそわと腰が落ち着かなくなった。
「そ、そんな顔で見るなよ。襲うぞ」
 冗談のつもりで真央が言うと、聡寿はむっと唇をへの字にした。凶悪なほどに可愛い表情である。
「何もせえへんつもりやったんや。せっかく二人で旅行に来てるっていうのに」
 真央はごくっと唾を飲み込む。誘われているように感じるが、これで手を出したりしたら、パチンと叩かれるのではないだろうかという心配が、理性の細い糸を繋ぎとめている。
「だ、だって、ここ、聡寿の知り合いの旅館なんだろう? そんなところで変なことして、あとあと聡寿の噂を広められたりしたら、さ……」
 しどろもどろになって、真央は艶っぽい瞳から目をそらす努力を重ねる。
 それなのに聡寿はますます、真央を迷わせる笑顔でくすくす笑い出す。
「ここはな、そういう事情のある人が来るとこや。高級官僚のお忍びとか、秘密の会合とか。せやし秘密は何があっても守ってもらえる。何も気にせんとのんびりできると思うてたのに、あんたが気にしてどうすんの」
 酔った聡寿はもう色気が全開で、真央の限界を試しているようである。それにこちらの言葉を話されると、真央は聡寿が自分を隠していないのだと、本音で喋っているのだと思って、嬉しいのだ。
「だけど……」
 それでも今更ながら、聡寿は特別な存在なのだと気後れがする。どれだけの人が聡寿を大切にしているのかが、今になって真央にのしかかってくる。
「もう、いい」
 席を立とうとする聡寿に、真央も慌てて立ち上がる。
「聡寿!」
「なんやの、あんた。こっちに来てから変や」
「俺は……、聡寿を独り占めするのって、……してはいけないことのような気がして……」
 逃げ出そうとする聡寿を抱きしめて、それでも真央はまだ自分に迷いがあった。
「だったら、あんたは、僕を京都に返せるんか? もういらんって言うんか」
 聡寿は身をよじりながら真央から逃げ出そうする。その言葉に真央は打ちのめされた。
 きっと聡寿だって、不安だった。真央を京都に連れてくることは。
 新幹線の中で二人は妙に無口だった。
 真央は七年の間、乗れなかった新幹線に乗っていること、聡寿はきっと、東京に帰れなくなる恐怖で。
「離したくない。放さない」
 真央が新たな決意を込めて告げると、聡寿はようやく抵抗をやめた。
「誰のものでもない。俺のものだ、聡寿」
「はよ、そう言え、あほ」
 ぎゅっとしがみつかれると、真央は貪るようにキスをした。
「抱きたい……聡寿」
「……早く、……真央」
 胸に額をこすりつけられ、真央はそれでも困ったように室内を眺めた。
「膳を下げに誰か来るんじゃないか?」
 聡寿は忍び笑って、奥の座敷を指差した。
 真央は聡寿を抱きしめたまま、ふすまを開いた。そこは小さな部屋で、二人が着ているものとはまた別の新しい浴衣がたたまれていて、さらに奥にふすまがある。
 聡寿の肩を抱いて、その奥のふすまを開けると、二組の緞子の布団が敷かれている。
「でも、……聞こえないか?」
 まだ聡寿の心配をする真央は、聡寿から贈られた口接けにすぐに理性を飛ばした。
 倒れこむように布団にダイブし、襟元から聡寿の胸に手を這わせる。
「聡寿……」
 衿を割り、薄い桃色の乳首を吸う。
「……んっ」
 乱れた裾から手を差し込み、固くなり始めた聡寿のものに手を添える。
「帯……、真央、帯…解いて」
 帯を結んだまま身体を開かれていくのに羞恥を覚えて、聡寿は力の入らなくなった手で、帯を解こうとする。
「駄目、……そのままが色っぽい」
「あほ……あっ」
 足の間から手を差し込まれ、柔らかい丘を撫でられると、聡寿は息を呑む。
「しーっ……」
 座敷から聞こえるかちゃりという音に、真央は動きを止めて、聡寿は震える指を噛み、喘ぎを堪える。
 すぐに音は止んだ。会席の膳を下げるだけなのだろう。後は二人きりにしてくれるだろう。
「駄目だよ、指を噛んだりしたら」
 綺麗な白い指を聡寿の口から助け出し、真央は労わるようについた歯形を舐める。
「……ぁ」
 熱い舌に舐められ、聡寿は目を閉じて、突き上げてくる快感に耐える。
「もう声出していいよ。もっと聞かせて」
 真央は殊更ゆっくり指を舐めて、その指を自分の滾る股間へと導いた。火傷したかのようにびくりとその熱塊に触れた聡寿は、そろりと指を絡めた。
 真央は嬉しそうに笑って、聡寿の喉に唇を寄せる。
「愛してる、聡寿」
 囁いて自分も聡寿に指を絡ませた。

 木々の葉の隙間を通り抜けてきた風は、夏の暑さを一時忘れさせてくれる。
 今日はカジュアルな聡寿の姿に、女将でさえちょっと不思議そうに、この人は誰だろうという顔をした。
 ならば道行く人もまさか元家元だろうと気づく人は少ないだろう。それでも滲み出る清潔な美しさは隠しようもなく、人目を惹いてしまうので、真央は市内で帽子を買い求めた。
「大袈裟だし、あんたの見方の方がおかしい」
 聡寿はそう言うが、独り占めすると決めた真央は、もう迷わずに、独占欲も隠さないことにした。誰にも遠慮はしたくないし。
 聡寿は文句を言いながらも、帽子をかぶっていてくれた。
 しかし突然の夏風に何度も帽子を飛ばされ、聡寿が怒るのもまたすぐのことである。