あなたにありがとうを言う日
いつも通りに起きると、いつも通りに、真央はもういなかった。
今日の休みは教えていない。
聡寿は目覚ましを止めて、ゆっくりと起きあがった。
身支度を整え、カバンの中から、昨日貰った紙を取り出す。
「…………やるしかないか」
慣れないことをするには、とりあえず、自分の中で決意を固めなくてはならない。
決意というよりは、悲壮な面持ちで、聡寿は部屋を後にした。
マンションの入り口で警備員に挨拶をして、駅へ向かって歩く。
九月に入ったとはいえ、まだ陽射しは真夏のようで、肌をじりじりと焼き付けるように感じる。
あまり汗を出す体質ではないが、直射日光は流石に堪えた。
そもそも、自分で歩いて出かけるというのが、珍しいくらいなのである。普段は車で送迎されているし、休みの日も出かけるといえば、真央の運転する車だ。
仕事が見た目よりもハードなため、適度に身体を鍛えてはいるが、こんな陽射しの中を歩くような生活ではないため、まだマンションが見えているというのに、疲れを感じてしまう。
「…………はぁ」
溜め息を一つ。
ようよう、駅前のスーパーに辿りついた。
カゴを持ち、メモの通りに買い物をする。だんだんと重くなるカゴを抱えて、不慣れな店内を、不慣れな買い物をする。なので、同じコーナーに何度か足を運ぶ羽目になって、人の三倍は店内を歩きまわった。
買い物を済ませると、袋に詰め、来た道を戻る。
往きは手ぶらだったが、帰りは両手にずっしりとした荷物を持っている。
「…………重い」
なんとかマンションに辿りつくと、警備員が慌てて出てきて、荷物を持とうとしてくれた。
「大丈夫ですから」
苦笑いで、親切な申し出を辞退する。
「珍しいですね、お買い物なんて」
「え、えぇ、……まあ」
普段から食事は、稽古場で済ませるし、家で食べる時も、最近は真央に任せきりになっていた。
「あの、この買い物のことは、竹原さんには内緒にしてて下さい」
聡寿の頼みに、警備員は訳がわからないながらも、微笑んでいいですよといってくれた。
「やっぱり、黙っててなんて、変だったかな」
エレベーターの中で、自分の頼んだことの不自然さに、少し後悔する。変に思われていないだろうかと思ったが、気軽に真央に喋られるのも困るのだ。
買ってきたものをキッチンに並べ、再びメモを取り出す。
そこに書いてある通り、使う順番に食材を並べて行く。
「やれば……できるよ」
誰かを元気づけるように言っているが、自分にかけている言葉である。
エプロンをつけ、うんと頷いて、包丁を手に取った。
胸ポケットに突っ込んでいた携帯が短く震えた。メールを受信したのだ。
真央は携帯を取り出して、口元に笑みを浮かべる。
メールの送り主は聡寿だった。
聡寿からのメールは珍しいので、読むのが楽しみでもあり、不安でもあった。
聡寿からだと思えば嬉しいけれど、珍しいだけに、今夜は帰れないとか、急な予定変更のメールかもしれないと思うと、あまり読みたくないかもしれない。
読まないわけにもいかず、真央はメールを開いた。
【今日はなるべく早く帰ってきて】
たった一行のメールに、真央は驚き、そしてニッコリと笑った。本人はニッコリのつもりだったが、その時周りにいた部下達は、にやけて気持ち悪いと評価したことは気づいていないことにした。
「今日は残業無しで頑張るぞー! 定時退社な」
「は、……はい」
それからの真央は、いつにもまして、元気に勢いよく働いたという。
「うわっ! ……ただいま」
「おかえり」
真央が玄関を開けると、聡寿がそこに立っていた。
「今日は早かったんだ、聡寿」
いつもは真央より遅くなる聡寿が出迎えてくれたことで、それでなくてもご機嫌だった真央は、さらにテンションが上がる。
「ただいま」
笑みを深くして、真央は聡寿を抱き寄せ、頬に軽くキスをした。帰宅の挨拶である。
「……用意ができてる」
「用意? ああ、すぐに食事を作るよ。何がいいかなー」
聡寿が早く用意をしろと言ったとでもとったのか、真央はリビングに入る前に、パウダールームで手を洗いながら、そんなことを言っている。
そうじゃなくてと説明もできずに、聡寿は真央の後ろ姿を眺めていた。
「何を食べたい? 一昨日買い物したから、なんでも作れると思うけど。一応、今夜は…………」
言いながらリビングのドアを開けた真央の身体と言葉が止った。
「だから、用意はできてる……」
「え? なに? ……どうして?」
真央が驚いて振り返る。
テーブルの上には、既に美味しそうな食事が用意されていた。中央にはガーベラのアレンジメント。丸くドーム型に、いろんな色のガーベラが明るい笑顔のように咲いている。その両脇には水に浮かべられたキャンドル。
「誕生日、おめでとう。二人で暮らし始めて、はじめての誕生日だから……」
「……聡寿」
真央は今までの陽気さが嘘のように、真剣な面持ちで聡寿を見つめる。
「美味しいかどうか、保障はできない……。料理なんて、久しぶりだから……」
「ありがとう、聡寿」
真央は両手を伸ばし、聡寿を抱きしめた。
「こら……。食事を……」
きつく、無言で抱きしめられ、聡寿は困ってしまった。
これでは喜んでくれているのかどうか、まるでわからないと。
「真央……、これ、気に入らない?」
用意をしている時には、真央の喜ぶ姿しか想像できなかった。きっと、無邪気に喜んでくれると思っていたので、こんなリアクションをされると、返って困ってしまう。
「ものすごく、……嬉しい。聡寿と……二人で過ごせるんだよな、俺の誕生日」
「……はじめてだな」
二人が出会ったのは、もう11年も前。
大学の4年間は、そんな甘い付き合いをしていなかった。いつ壊れるかわからない、そして別れまでの秒読みの関係だった。
真央を好きになってはいけないと、踏み止まるのに必死だった。それでも諦めずにいてくれた優しい人。
そして会えない7年。
連絡を取り合うことも、相手の様子もわからない7年。
聡寿の舞台には毎回、白い大輪の百合が届いたが、名前のない贈り主を考えないようにしていた。自分からは真央の誕生日など考えないようにしていた。
どれだけ会いたいと思っても、それを口に出すことすら許されない……7年だった。
再会し、こうして二人の時間が過ごせることは、本当に奇跡のようなことなのに、言葉にして気持ちを表わせなかった、素直ではなかった自分。
なんとか伝えたくて、一番形にして伝えられると思ったのが、真央の誕生日だった。
「これからは……、毎年……」
それでも素直には言えなくて、聡寿は言葉を濁す。けれど真央はその気持ちを間違いなくとらえ、抱きしめる腕に、更に力をこめる。
聡寿と出会ってからの日々を思い出す。二人の確執、激しく悲しい愛、別れ、そして会えない日々。
永遠など信じないと言い切っていた聡寿が、こうしてこれからを約束してくれる。そのことが何より嬉しかった。
「ありがとう……」
それ以外に何も言えなくなっていた。胸が詰まって、言葉にならない。
「泣いて……るのか?」
少し笑ったような、けれど戸惑う声に、真央は無理にも涙を堪えて、聡寿を見た。
「人生で最高の誕生日だな」
真央の大袈裟な台詞に、聡寿は微笑んだ。
「生まれてきてくれて、……ありがとう」
遠い昔、この部屋で、苦しむ自分を解放してくれた真央の言葉。
その気持ちが嬉しく、そして同じ気持ちになれたことが嬉しくて、聡寿は真央の胸に顔を隠す。
本当は……、泣きたいほど嬉しいのは……、聡寿のほうだったから。