長い道を 2
 


「室長! お電話ですっ!」

 竹原建設のデザイン設計室に女性の声が響き渡った。ここの室長の竹原真央は、少しくらいの呼び声では返事をしてくれない。CADに取り組むと、このオフィスの戦場のような喧しさもまったく気にならないらしい。

 その上、怒鳴り声に近い呼び声に返事をしないときは、外に出てしまっている事が多い。現場に出るなという社長の厳命は、守られた試しがない。

 万が一、現場で事故でもあったなら、彼の場合、少しの怪我でも命を落としかねない。その危惧を、本人だけが気にしていない。

 自分がデザインした建築物が出来上がって行く様子を飽きる事もなく眺めているのが好きらしい。それだけなら誰も反対しないのだが、彼はその作業に加わろうとする。

 気さくな態度に、現場の人間はまさか、彼が社長の息子だとは気づかず、和気あいあいと仕事をしている。そこへ青い顔の現場監督が飛び込んでくるというのは、もはや竹原建設の名物となりつつあった。

 デザイン室から出すなという社長の命令も、いつの間にか消えてしまっている彼には効力はなく、秘書という名目でつけられた監視役は、たびたび叱られる羽目に陥っていた。

 それでも憎めないのは、自分が悪かったと、社長の盾になり、すぐに謝ってくれる真央の人柄だろうか。

「室長!」

「いるいる!」

 二度目の悲鳴に似た呼び声で、真央がデスクの合間から顔を出した。

「もう、3番に電話です。門田さんっていう方から!」

 彼女はそう叫ぶと、くるりと自分の仕事に戻った。ところが……。

「室長?」

 電話も取らず、立ち尽くす感の真央に、秘書兼監視役の倉持が声をかけた。

「室長? 私が受けましょうか?」

 電話を茫然と眺めている真央に、トラブルの相手かと訝った倉持が電話に手をかける。

「お、おれ、おれおれ、俺が出る!」

 いつにない真央の慌て振りに、倉持は眉を寄せる。そのまま、ごくりと喉を鳴らして電話を取った真央を見詰める。

 

「もしもし……」

『ご無沙汰しております。門田です。おわかりになるでしょうか?』

 電話から響く懐かしい声。それは遠い記憶と少しも変わりがなかった。

「はい。ご無沙汰しております」

 そのとき倉持は不思議な光景を目にした。

 いつも陽気な真央。明るい笑顔で周りを自分のペースに引き込んでしまう人。竹原建設に、新風を吹き込み、社内に革命を起こしつつある彼。

 でが、倉持はその裏に潜む、真央の苦しみにも気がついていた。

 何かを求めながら得られない焦燥に悩んでいるのも知っていた。その寂寥感を埋めるように、仕事に打ち込み、努力のエネルギーに変えているとわかっていた。

 いつも真央の造られた笑顔と、明るさだけを見せられてきた。

 その真央が、本当にごく自然に微笑んだのだ。

 懐かしい人に出会えたような、はにかんだ微笑み。

 倉持はそっと、席を離れた。それ以上聞き耳をたてるのは無粋だと思ったから。

 

『実は一人、東京を案内して欲しい人がいるのですが、お任せできないでしょうか』

 門田の控えめでいて、断ることの出来ないような言い方に、真央は苦笑する。苦笑しながら、涙が出そうになった。

「いいですよ。どこをご案内すればいいでしょうか?」

『そうですね。あなたが閉められたドアを、彼のために開けてあげてください』

「……いいのですか?」

 相手が彼だということはわかっていた。だが、それほどの事だとは思いもよらなかった。門田の厚意で、再会できるだけの話だと思っていた。それが……。

『ええ、お願いします』

 真央は自分の膝が震えているのがわかった。立っているのがやっとなのに、熱いものが胸からせり上がってくる。

「いつ、でしょうか?」

 それを聞くのだけでも精一杯だった。

『実はもう、新幹線に乗っているんですよ。ご本人は何も知りませんし、竹原さんの都合が悪ければ……』

「何時ですかっ。東京に着くのは!」

 都合など、何かあってもすべてキャンセルだ、もちろん。

『2時40分着のひかりです』

 真央は慌てて時計を見る。1時30分。

 東京駅までの道順ならすべて頭に入っている。

「後は、任せてください」

『お願いします』

 それだけで十分だった。門田との偶然の再会から五年、それでも本当にこの日が訪れるとは、思ってもみなかった。心では強く願いながら、強く願う分だけの諦めも持っていた。

 それが……。

「車……」

 そう、車だ。迎えに行ってやらなければ。

「室長、何かありましたか?」

 倉持の声に真央は慌てる。

「車だよ。俺のキー、知らない?」

 あまりの真央のうろたえ振りを倉持は不審に思い、何をするべきかの判断をめぐらす。

「車のキーでしたら、既にお持ちなのでは?」

 真央が無意識に掴んでいたらしい右手のキーを指差し、倉持はそれを取り上げようとした。

「俺、今日は早退な。とりあえず、明日も休む」

「え?」

 キーを取り上げるタイミングを逃してしまい、倉持は信じられない思いで真央を見た。真央が休むのは、よほどの事なのだ。どれだけ仕事が立てこんでも、休んだりはしなかった。熱にふらふらしながらでも、自分の仕事だけはこなしてきたのに。

「それ以降の休みは、また電話するから」

「え? ま、待ってください。何かあったんですか!」

 上着を片手に、真央は部屋を出て行こうとしている。

「人生最高の出来事!」

 その言葉を残し、真央はドアの向こうの人となった。

 いつもは喧騒に包まれたオフィスが静まり返る。

「どうしたんですか?」

「わからない」

 倉持は訊かれ、それだけを答えた。頭の中では社長への謝罪の言葉が渦巻いている。けれど、あの笑顔を見せられては、連れ戻すことなど出来ない。出来る人がいるなら変わってもらおう。

 ふっと苦笑し、倉持は電話を取った。とりあえず今日の午後、明日、そして明後日の真央の予定をすべてキャンセルにするために。

 

 東京駅は、人で溢れていた。

 何度このホームに立った事だろう。

 切符を握り締め、悔しさに歯軋りした。

 自分の靴先を見詰め、涙を零すまいと呑み込み、必死で耐えた。

 行くのは簡単だ。

 けれど、向こうで出会う人が、どんな顔をするだろうかと思うと、どうしても新幹線には乗れなかった。

 呆れ、侮辱、恐怖。そのどれかの表情を彼がしたとしたら、立ち直れないと思った。

 使えなかった切符を捨て、一人きりのマンションへ帰った。

 向かい合わせの相対した造りの部屋。七年前、自分の手でドアを閉め、それからは自分では開けなかった。掃除を月に一度頼み、立会いすらしなかった。自分はその向かいの部屋に、あれからずっと住んでいる。

 家具も何もかもほとんど一緒で、そこにいない人だけを想う日々。

 自分にもっと力があったのなら、別れずにすんだのだろうかと、そればかりを考えた。悔しくて、苦しくて、それを隠すために仕事に打ち込み、笑顔で苦悩を誤魔化してきた。

 そして、耐えきれなくなって、このホームに立つ。それの繰り返しだった。

 行けないんだと、自分に言い聞かせるためだけの……。

 それらすべてを笑い話に出来る日が来た。

 『待っていた』と言えばいいのだろうか。『会いたかった』というだけで精一杯だろうか。『元気だったか』では、あまりに緊張感がないだろうか。

 なんと声をかければいいのだろう。

 刻む時間は遅く、彼を乗せた新幹線はまだ来ない。自分の腕時計が壊れているのだろうかと、ホームの時計を確かめてみる。

 遅々として進まぬ時間に苛立ち、それでもまだ、何を言ってやればいいのか思いつかぬまま、遠く長く続く線路を見詰める。

 やっばり、会いたかったと言おう。それしか思いつかないと決めたところへ、新幹線が滑り込んできた。

 じわりと掌に汗が滲む。また膝が震えそうになる。

 降りてくる人をやり過ごしながら、その人を必死で探す。

 ……聡寿。……どこだ。

 門田からの電話は、もしかしたら都合のいい夢だったのではないだろうかと悲しくなったとき、ちらりと藍色の着物が目の端を掠めた。

 ……聡寿。

 彼は俯き加減で真央に向かって歩いてくる。

 真央はごくりと唾を飲む。緊張で、鼓動がとてつもなく速くなっていた。

 彼はまだ真央に気づかない。

 あと、五歩くらいで真央の横に来る。

 つい、口に出た彼の名前。

 ふと、彼が顔を上げた。

 目と目が合う。

 誰だろうというような、彼の不思議そうな顔は、次の瞬間、驚きに塗り替えられる。

 会いたいと、願い続けた人が、もう手の届くところにいる。なのに、その数歩がどうしても踏み出せない。

 見詰め合う、息苦しいほどの時間。

 そして……。

 真央は言おうと決めていた言葉も忘れ、自然にそれを口にしていた。

 それは、止めていた時を再び刻み始めるための、呪文だった。

 

「おかえり、聡寿」