長い道を
 


 窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめながら、聡寿はここ数日のあわただしさを、思い出すともなく思い出していた。

 突然、長い間信頼を寄せてきた直弟子の門田が、襲名の件から手を引かせてくれと言ってきた。それはまさしく青天の霹靂とも言うべきほど、聡寿にとっては突然で、驚愕するには十分な発言だった。

 何故、という言葉も咄嗟には出てこなかった。

 深く頭を垂れて赦しを請う門田に、かける言葉が見つからず、重い沈黙をただ噛み締めていた。

 ただ、思い止まってくれとしか言えなかった。

 そして、真の理由を知ってからは、聡寿は迷わなかった。

 すべてを、自分のために犠牲にしてくれた人。だから、行ってくださいと言った。それが今までの信頼に応える方法だと思っていた。

 けれど、これからの苦労を思うと、本音は苦しいし、心細かった。何とか引きとめれば良かったと思いながら、その度に首を振る。

 門田を踏み台にして、得られる幸せなどない。本当なら、一人で闘わなければならなかったことだ。そして、一人なら挫けていたのは間違いがない。

 もう、それはスタートしている。あとはゴール目指して、ただ走ればいい。

 そして………………。

 

 新幹線は長い距離を滑らかに走り、もうすぐ聡寿を東京に運び終える。

 何度も通った道。京都へ帰るのは辛く、東京へ戻るのは不安だった。

 京都には帰りたくないと、陰鬱な気持ちで過ごした三時間。

 東京に戻れば、『彼』に自分を投げ出してしまうような不安。

 三時間がとてつもなく長く、覚悟を決めるには短すぎる時間だった。

 七年前、一人で東京を後にした。それ以来、一人で新幹線に乗る事はなかった。流派の用事で東京に出るときも、いつも門田が傍にいてくれた。過去へ引き戻されそうになる自分を支えてくれた。

 これからはその門田を実質、手放さなければならない。不安は隠せないが、隠しきらなければならない。門田が東京に専念する事で、口さがない人たちの盾にならなくてはならないのだ。

 長い年月、門田が自分にしてくれた事。

 それをあと少しの時間、自分が代わってする。覚悟を決めるには、今回の東京行きは、いい機会だったかもしれない。

 

『真央……』

 心の中で、七年間、呼びつづけてきた名前を呼ぶ。彼は少しも年をとらず、長い髪をくしゃくしゃと掻き混ぜ、白い歯を見せて笑う。

『俺のこと、少しは好きか?』

 不安そうにそんな事を訊く人。応えてあげた事など、一度もなかった。愛していると、言いたかった。離さないでくれと、あの胸の中で叫びたかった。

 そう出来ぬまま、道を違えた。

 あの道は、今も分かれたままだ。二度と交わる事などないだろうと思う。

 この二本の線路のように。

『真央……』

 会いたい。

 けれど、既に七年。

 何の約束もしなかった。

 あの日、さよならとも言わず、あの部屋を出た。

 聡寿は振り返らなかった。振り返ればきっと、真央はすべてを捨ててくれただろう。だが、彼をそんな道に誘う事は出来なかった。

 今更、瀞月流を捨ててどうなるというのだろう。

 彼は彼で幸せに暮らしているだろう。それを遮ることなど出来るはずもない。

 けれど、聡寿には他の道を選ぶ事は出来なかった。瀞月流を出て、一人で暮らす。幸せになれなくてもいい。自分を大切に生きたかった。

 けれど、会いたい。

 だからこそ、会いたい。

 彼がいなければ、今の自分はなかっただろう。

 家の呪縛に苦しめられ、がんじがらめになり、生きる苦しみの涙に濡れていただろう。

 だから、会ってはいけない。

 彼の幸せを奪ってはいけない。

 もう、自分は幸せなのだから。彼に出会えたから……。

 

 がたんと新幹線が停まる。

 聡寿は小さな鞄と衣装袋を持ち、ホームへと降り立った。

 ほうと安心の溜め息をつく。

 とりあえずタクシーを拾い、東京の支部へ顔を出さなくてはならない。そして襲名披露の招待客への挨拶回り。

 五日の間にしなければならないことを詰めこんできた。感傷にひたる暇もないくらいに。

 鞄をしっかり抱え直して、一歩を踏み出す。これからは孤独との闘いだと思いながら。

 

 声を掛けられた。

 最初、それが自分に掛けられた声だとはわからなかった。

 にっこり微笑まれても、誰なのかわからなかった。

 まさか。それしか頭の中に浮かんでこない。

 ……まさか。

 肩を越すほど伸ばされていた髪が、今は短くそろえられ、年相応の落ち着きを見せている。

 だが、凛々しい眉に、透き通った瞳。軽いジョークを飛ばし、本音をさらりと隠しながら、熱い想いをぶつけてくる唇。それらは記憶の中の彼と、何も変わることがなかった。

 一歩一歩近づいてくる彼を、聡寿は瞬きも出来ずに見詰め続ける。

 そして、目の前に彼が立つ。

「おかえり、聡寿」

 ただいまという言葉は、涙に詰まって言えなかった。