風になって   救済編
 


 シャワーを浴びて戻ると、ベッドは空だった。
「聡寿?」
 真央は慌てて、廊下へ戻る。が、リビングにも聡寿の影は無かった。
「聡寿!」
 何故、こんなにも不安になるのだろう……。そう、今朝、昔の夢を見ただけなのに。
「聡寿?」
 嫌だ。なくしたくない。もう、二度とは。
 なのに、聡寿の姿が無い。
 ふと、ベランダに面した窓のカーテンが揺れているのに気がついた。
「聡寿……」
 ベランダに、細いシルエットが映る。
 月の光を受けて、その身体が淡い光を放っているように見えた。
 今にも、光の泡になって消えてしまいそうな気がして、真央は悲鳴を飲みこむ。
 一陣の風に、カーテンが舞い上がる。
 風が彼の髪を揺らし、それを押さえるためか、両手を持ち上げようとする。
 その姿はまるで、大きな月に向かって、彼が飛び立っていくように見えて、真央は慌てて駆け寄った。
「聡寿! だめ!」
 背中から、きつく抱きしめる。
「驚くだろ?」
 細い身体は、夜の冷気にあてられて、ひんやりしていた。
「だって、聡寿が飛んでいってしまいそうだったから」
 真央の言葉に、聡寿はクスクス笑う。
「どこへ飛んでいくっていうんだよ。ここから追い出すつもりか? 大家さん」
 大家は真央。店子は聡寿。大家の部屋は、本当は向かいにあるが、そこに帰る事はほとんどない。
「出て行けないようにしたいくらい」
 真央が駄々をこねるように言うと、聡寿は軽やかな声をたてて笑った。
「しても……、いいよ」
 柔らかい声が答える。
「聡寿……。困らせるなよ」
「自分で言っておいて」
 背中から伝わる暖かさに、聡寿は微笑む。
「月が綺麗だなと思って」
 聡寿は真央の手に自分の手を重ねて、空に浮かぶ丸い月を見上げた。
「真央も見ない?」
「嫌だ。聡寿を奪われそうだもん」
 くすっと笑い、聡寿は自分の肩に乗せられた真央の頭をぽんぽんと叩いた。
「今日の真央は、情緒不安定だな。朝からおかしかった」
「厭な夢を見たから」
「どんな夢?」
 真央は聡寿の肩に額を摩り付けるように首を振る。長くなった髪が、聡寿の顎をくすぐる。
「中に入ろうか。寒くなってきた」
 しがみつくように回されていた手が、緩められ、聡寿はその腕の中で振り返った。
「どこへも行かない。ずっと、真央といる」
 7年……。
 離れていた日々は長く、二人に容易に不安をもたらす。
 けれど……、だからこそ、今の幸せを守るために、強くもなれる。
「聡寿」
 今日、はじめて、真央が笑った。いつもの明るく、暖かな笑顔に、聡寿は頬を重ねるように、抱きつく。
 二つのシルエットが一つになり、「愛してる」と囁いたのは、どちらだったのか。
 月だけが知っている……。


 キスをしながら、ベッドに二人で縺れ込んだ。
 唇に、頬に、顎に、耳に、そしてまた唇に、余裕も無くその存在を確かめる様に、次々に口接ける。
「真央……」
 邪魔なガウンの紐を荒々しく解く。
 優しくしたいのに、気持ちばかりが先走って、思う様に手が動いてくれない。
「真央、急がないで」
「聡寿……」
 首を振って、できないと伝えると、聡寿は優しく笑って、真央の頬を両手で挟み、そっと唇を重ねてくる。
 キスを交わしながら、ようやく紐を解き、聡寿の肩から、ガウンを剥ぎ取ろうとする。
「……っ!」
 聡寿が小さく息を飲むのがわかって、真央ははっとして、自分の手元を見つめた。
 白い肌、肩口に、真央の爪が引っかいたのだろう、ピンク色の筋が淡く浮かんでいる。
「ごめん……」
 血が滲むほどではないが、こんなにも大切な、愛しい身体に傷をつけてしまったことを、真央は酷く悔やんだ。
「大丈夫だって。これくらい」
 聡寿は微笑んで、その傷を指で撫でる。
「すぐに消える」
「でも……。ごめん」
 そっと、傷を舌で辿る。跡が残らないように……と、願いながら。
「ん……」
 何度も、何度も舐めていると、聡寿が真央の髪に指を絡ませる。
「真央……」
 今度こそと、大切にガウンを肩から外す。ゆっくり……。
 熱く、速い鼓動を繰り返す胸の音を聴く。
「暖かいな」
「僕はくすぐったいよ」
「髪、切ろうか?」
 そんな気もないくせに言ってみる。
「切れば?」
 素直にやめてとは言えない。言えないけれど、指に巻きつけた髪を、愛しそうに引っ張り、それを口元に運ぶ。
「そんなことしたら、聡寿に触ってもらえなくなる」
 微かに胸が震える。きっと笑っているのだろう。ずいぶん表情が豊かになった恋人の笑顔が見たくて、真央は顔を上げる。
「僕も夢を見た」
 聡寿は笑っているようで、けれど、瞳が濡れていた。
「え? どんな夢?」
「見たくない……、ような夢」
 聡寿の言葉を吸い取るように口接ける。
「今夜は夢を見ないように、愛し合おう……」
 今度こそ聡寿は笑って、真央のキスに応えた。



 ……僕は月。
 …………君は太陽で。
 ………………君がいるから、僕は他の人にも見てもらえるようになる。

 暗い世界で、僕に光を与えてくれた。
 僕という存在を照らしてくれた。
 だから、離れない……。
 離れられない……。
 やっと、辿りついた君の傍を……。