風になって


 目の前を白い車体が滑り出してゆく。
 西へ向かって。
 流線型のボディがホームを出て行くと、風が髪を揺らす。
 なびくはずもない、短い髪を手で押さえる。
 押さえるようにして、涙を隠す。
 今回も使えなかった切符を、手の中で握り潰した。
 自分の靴先をじっと睨みつける。
 この足で、どこへ行こうとしていたのだろう。
 西へ。
   ……西へ。
     …………西へ。
 顔をあげて2本のレールを見つめる。
 遠く、視界から消えていくレールを、
 あの空の下まで辿る事ができればいいのに。
 それは……、叶わぬ夢。
 手の中で、その重さを主張する切符を広げてみる。
『…………』
 名前を呼びたい。
 だが、それは音にはならなかった。
 声に出してしまえば、届かないことを、認めなくてはならないから。
 いや……、呼んでしまえば、駆け出すだろう。
 今、目の前を去ってしまったあの白い車体のように。
 ただ、西に向かって……。
 風になって……。

 
 

 

 父親と喧嘩をした。
 それはいつものことだった。
『結婚しろ』
『しない』
 同じ言葉を、互いに繰り返すだけ。
 そんなやりとりに業を煮やした父親が言った。
「出ていけ!」
 父親の怒鳴り声を、真央はただ黙って、頭の上に聞いた。
 震える怒声。真っ赤な顔。怒りに染まった瞳。
「ごめん」
 真央はただ謝った。
「結婚しないだと! それでも竹原建設の跡取りとしての自覚はあるのか! 明日から会社にも来なくていい。自分一人の甲斐性で、世間に出ていけ」
「あなた」
 母親が真っ青になって執り成そうとする。が、父親はそんな声など耳にも入らないようだった。
「結婚するか、無一文になるか、どちらかだ!」
「真央、お願い」
 返事をしようとすると、母親が真央の腕に縋りついてきた。
 真央は目を閉じて、それを拒否する。
 嫌だ。どうしても嫌だ。
 それだけはできない。
「いいか、無一文だ。あの部屋も、明け渡せ」
「父さん、それだけは……」
 はじめて真央が見せた動揺に、父親は満足そうに頷く。
「あれは竹原の持ち物だ。お前の物ではない。いいか、結婚するか、全てを捨てて出て行くか、どちらかだ」
「真央」
 父親の声と、母親の声と……。真央はその声を聞きながら、心の中でその名前を繰り返した。
 
    弱くなりそうだよ。
    もう離れてられないよ。
    苦しいよ。
    …………。
 
 けれど、いくら呼んでも届かない。
 あまりにも遠過ぎる。
「どちらにする」
「………………考えさせて」
「一晩だけだぞ」
 力なく頷いて、真央は自分の『家』へと戻った。
 
 同じドア。
 けれど片方は、ずっと閉じられたまま。
 そのドアの前に立ち、真央はあの日のことを思い出す。
 
 自分はドアから出ることはできなかった。一歩でも踏み出せば、自分が何をするかはわかっていた。
 聡寿がドアを越え、出ていくのを見ていることしかできなかった。
『何か……、残していってくれよ』
 つい、そんな言葉が口をついて出た。
 自分でも思いがけない言葉。
 聡寿はふと微笑み、真央の胸を指差した。
『ここに残っているだろう?』
 指先から伝わる暖かい想いに、涙が出そうになり、無理にもそれを引っ込め、……笑った。
 聡寿も微笑み、そして、背中を向けた。
 エレベーターのドアが閉まっていき、聡寿の姿が見えなくなって……。
 
 真央はドアに手を置き、額を押しつける。
「聡寿……」
 何度呼べば、再びこの手に取り戻すことができるだろう。
 わかっていれば、ずっと呼び続けるのに。
 くるりと身体を回し、ドアに背中からもたれる。
 コートのポケットから鍵を取り出す。
 同じ種類の鍵が2つ。1つには自分の血液センターのタグをキーホルダーのようにつけてある。
 その鍵は久しく使っていない。
 鍵を握り締め、数歩を歩く。『自分』の部屋のドアを開ける。
 冷えた空気が押し寄せる。暗い部屋に、ゾクリと身体が震える。
 荷物を置いて、椅子に座り込むと、一気に疲れが押し寄せてきた。
 膝に肘をつき、掌に顔を埋める。
 何もかも捨ててもいいのに。あの部屋さえくれるなら。会社も仕事も、何もかも要らないのに。
 ふと、足元に伸びる、白い光に顔を上げる。
 閉じ忘れていたカーテンの間から、外の光が差し込んでいるのだろう。
 誘われるように、ベランダに出てみる。
 目の前に大きな丸い月が出ていた。月明かりに照らされて、辺りはほんのりと淡く輝いている。
『月が出ている……』
 聡寿はよく、こうして月を見ていた。
 月を見て、何を思っていたのだろう。それを話してくれることはなかった。
 話し足りないことはいくらでもある。
 もっとこうしていれば良かったと思う事も。
 自分はいつも聡寿を困らせていた。離れたくなくて。
 手に、締めた聡寿の喉の感触さえ残っているというのに、彼はあまりにも遠い。
「聡寿……」
 名前を呼ぶと、涙が零れた。
「聡寿……」
 この空も彼のいる空へと続いているはずなのに。
「聡寿……」
 手摺を掴み、冷たいコンクリートに膝をつく。腕に顔を押し付け、泣いた。
「聡寿……」
 今すぐ、逢いに行きたい。
 逢いたい。今すぐに。
 そうでなければ、負けそうで。
「聡寿……」
 

 
 目の前を白い車体が滑り出してゆく。西へ向かって。
 流線型のボディがホームを出て行くと、風が髪を揺らす。なびくはずもない、短い髪を手で押さえる。押さえるようにして、涙を隠す。
 今回も使えなかった切符を、手の中で握り潰した。
 自分の靴先をじっと睨みつける。この足で、どこへ行こうとしていたのだろう。
 西へ。
 ……西へ。
 …………西へ。
 顔をあげて2本のレールを見つめる。遠く、視界から消えていくレールを、あの空の下まで辿る事ができればいいのに。
 それは……、叶わぬ夢。
 手の中で、その重さを主張する切符を広げてみる。
『…………』
 名前を呼びたい。
 だが、それは音にはならなかった。
 声に出してしまえば、届かないことを、認めなくてはならないから。
 いや……、呼んでしまえば、駆け出すだろう。
 今、目の前を去ってしまったあの白い車体のように。
 ただ、西に向かって……。
 風になって……。
 

 
 全てを無くしてもいい。
 もう何も要らない。
 この気持ちがあるのなら。
 ようやく、それだけを思えるようになった。
 答えは、決まった。
 悔いはない。
 
 使えなかった切符を返し、改札を出る。
 ずっと立ち尽くしていて強張った足を、無理にも歩かせる。
「竹原さんではありませんか?」
 ぎこちなく歩いていると、横から声をかけられた。
 こんなところで? と思いながら振り向くと、懐かしい、けれど今は会いたくなかった人が立っていた。
「門田さん……」
 真央が驚きながら、その名前を口にすると、門田は軽く頭を下げた。
「どちらかへお出かけでしたか?」
「いえ、そういうわけでは……」
 言葉を濁す真央に、門田は以前と変わらぬ笑顔を向けた。
「……元気に、してますか?」
 搾り出すように、けれど尋ねずにはいられなかった。誰が、とは言わなくても通じる。
「ええ、元気にしておられます」
「そう……、ですか」
 ぎこちない会話。なのに、お互い立ち去れないでいる。
「門田さん、これを…………、預かっては下さいませんか? その……、誰にも言わずに」
 真央はタグのついた鍵を掌に乗せて、門田に見せた。
「これがなくては、困るでしょう?」
 門田はその鍵のタグを指差した。
「これは……。数年前のものだから。今は、新しいのをしています。ですから、この鍵を預かって下さい。お願いします」
「ですが、鍵がなくては」
「この鍵は、もう、使いませんから」
「竹原さん?」
「俺が持っていたら、取り上げられる。部屋は無くしてもいい。けれど、鍵だけはなくしたくないんです。お願いします。今俺の周りには、会社関係の人間しかいないから、誰にも頼めないんです」
 門田は黙って、真央の手と、その上に乗せられた鍵を見ていた。
「……諦めないで下さい」
「…………? 門田さん……」
 そっと鍵ごと、手を門田の両手で包まれ、真央は顔を上げた。
「今、一つのものを捨てたりしたら、一つずつ無くしていきますよ。どうか、あきらめないで下さい」
「でも……」
「あの方が仰っていました。自分は月だと」
「月……」
「ええ。太陽があるから、自分は他の人からもその存在を見てもらえる、と。いつも太陽に向かって、歩いて行くんだと」
 月……。いつも月を見ていた聡寿。
「その太陽が見えなくなったら、あの方は、どこへ向かって歩いていけばいいのでしょう? 変わらない輝きを太陽に求めてはいけませんか?」
 真央は唇を噛み締め、首を横に振った。
「ありが…とう、ござ…いま……す」
 涙を堪え、それだけを言うのがやっとだった。
「約束します。私はあなたにその鍵を使って頂く日を必ず差し上げると」
 噛み締めた唇が震える。信じても、いいのだろうか……。
「約束しますから……」
 一つ頷く。そのまま顔を上げられなかった。
「酷い事を言いましたね。お身体、ご自愛下さい」
 真央は涙を隠し、深く頭を下げた。
「門田さんも、お元気で」
 そのまま、左右に別れた。
 約束は、一つだけ……。
 期限の無い約束が……。
 
 

ゴスペラーズの「永遠に」という曲を聞いて、
とうとう書いてしまいました。
極悪非道の一作……。
ずっと、書こうと思ってて、書けなかった、新幹線のホームです。
これから真央はきっと、父親と対決するのでしょう……。
何もなくさず、自分の幸せを勝ち取るために。