INSIDE
 


 東京の事務所は外から見ると、一見して普通の家にしか見えない。だが、立派な門と高い壁に囲まれ、中を窺い知ることはできない。
 門には書に通じた人にしか読めないような、流麗な文字の表札が上げられていた。
 門を通りすぎて角を曲がると、シャッターが下ろされている。多分そちらがガレージになるのだろう。
 シャッターの外に一人の男が立っていた。通りを映す防犯カメラに自分の姿が映っていることなど、まるでわかっていない様子で、時折建物の中を伺うように背伸びをしてみたり、シャッターの下から覗きこむ仕草をしている。
 警察に巡回を頼んでみたが、男は警官が来るとすぐに姿を隠す。どうやら近くにバイクを停めて移動しているようだ。
「また来ているな……」
 門田はモニターを見ながら、眉を寄せて呟く。
 最初の頃は車が出るのを見ているだけだったのが、最近は車の後を追いかけてくるようになった。
「警察に連絡しますか?」
 弟子の一人が心配そうに門田に尋ねた。
 男の目的がどうやら、自分たちの師匠に接近することだろうとわかっているので、心中穏やかではいられない。
「一応連絡してもらおうかな」
「はい」
 門で待たず、ガレージを見張るという行為に、男の執着が窺えた。
 聡寿は門を出入りしない。門田がすべて車で送迎している。裏門があるが、そこは弟子達が使用していて、聡寿が使うことはない。
 そこまで念入りに調べているらしい相手に、空恐ろしさを感じた。
 弟子が電話をしているのを聞きながら、門田は今夜の帰る道順を考えていた。
 なんとしてでも男のバイクをまいて、聡寿の自宅を知られてはならない。
 聡寿のマンションはセキュリティーがしっかりしているが、それでも万全であるとは言い難い。他の居住者の出入りに紛れこんだり、何らかの業者に偽装されたりなど、危険は数えてみればキリがなかった。
 それに……。門田はこのことを聡寿に知らせたくなかった。
 聡寿は外の世界のことにわりと疎いことがある。長年、流派の家元として、大切に守られてきたためである。そして今も、その境遇に余り変わりはない。
 家元ではなくなったものの、流派の大切な人である。特に、この東京支部にとっては。
 悪戯に心配を増やして、あの美しい顔を曇らせたくはない。
 気をつけて下さいと進言しても、聡寿はその方法を知らないだろう。
 やがてモニターから男が消える。そのすぐあとに警官が現われた。
 警官は辺りを見回し、ガレージ脇のインターホンを押した。弟子の一人が対応に出て行く。
 今夜も男を取り逃がしてしまった。
 門田は腕時計で時間を確かめ、聡寿を迎えるために、部屋を出た。

「ありがとう」
 マンションの前で車が停まり、礼を言いながら聡寿は下りた。
「お疲れ様でした」
 聡寿がマンションの中に入るまで、門田は見送ってくれるので、聡寿は急いで中に入る。そうしないと、門田が早く帰れないからだ。
 聡寿が入ったのを確かめ、門田は車を発進させた。
 聡寿はほっとしてエレベーターへと向かう。乗り込んで8階のボタンを押した。
 かくんとした振動のあと、エレベーターが昇り始める。
 マンションのドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。
 急ぎの仕事が入ったとかで、最近真央の帰りが極端に遅く、日付が変わる前に帰ってくるのが珍しいほどになってしまっていた。
 電気をつけて回るついでに、聡寿はそっと窓のカーテンを開き、通りを見下ろした。
 そこにバイクにまたがった男性らしき人影を見て、聡寿は慌ててカーテンを閉じる。
 最初は偶然だと思おうとした。
 何度もその影を見るようになっても、自分が見られているとは思えなかった。
 だが、ある時、信号待ちで止まった時に何気なく後ろを見た時に、同じようなバイクを見かけてしまった。
 まさかと、それでも、同じようにバイクなんて一杯あるからと、気にしないようにしようとした。
 それが気のせいでないとわかったのは先週だ。
 事務所からの帰り、門田の車が、いつもと違う曲がり角で大通りに出ようとした。
 どうかしたのかと問うと、弟子の誰かが、いつもの道が混んでいたことを教えてくれたと説明された。
 その時、細い脇道に例のバイクが停まっているのが見えた。聡寿たちの車が通りすぎると、追いかけてくるように、ぴたりとうしろについた。
 門田は聡寿の知らない道を通った。焦るような門田らしくない運転に、聡寿は不安を募らせた。
 それでも何も言えずに、送り届けられた。
「ここに着きましたらお部屋に電話を入れますので、それまで下りてこないで下さい。いいですね、外で待ったりしないで下さい」
 門田らしくない強い物言いに、聡寿はやはり自分がバイクの男の対象なのかと理解した。
 自宅は知られてしまった。だが、何も心配は要らない。
 ここは安全だし、自分が外で一人になることは滅多にない。
 だから心配は要らない。
 わかっていても、一人でいる部屋は寂しく、不安を完全に消すことはできなかった。

 真央に相談しよう。
 何度か思いながら、疲れて帰って来て、それでも自分に笑顔を見せてくれる人に、心配の種を増やすようなことは言えなかった。
 シャワーを浴び、倒れこむように真央はベッドに入ってくる。
「おやすみ」と真央が頑張れるのはそこまでで、聡寿の唇に寝る前のキスを落とすと、正体もなく寝入ってしまう。
 その肩にタオルケットをかけながら、聡寿の心配は自分のことよりも、真央の身体のことで一杯になってしまう。
「来週くらいには一段落つくから」
 真央は朝には何事もなかったように出かけて行く。
 聡寿は心配をかけないようにと笑い、見送ることしかできなかった。

 そのうち諦める。きっと飽きる。
 そう思おうとしていた。
 けれど、ストーカーは確実に聡寿に近づきつつあった。
 その日、玄関のインターホンが直接鳴り響いた。聡寿は久しぶりに休みを取っていた平日のことだ。時間は昼を過ぎた頃。独身者が多いマンションは静まり返っていた。
 訪問者はまずエントランスで部屋番号を押して、マンション入り口のロックを外してもらわなければ、部屋の入り口までは辿りつけない。
 直接玄関のインターホンが鳴ったことで、聡寿は相手が真央か門田だと思った。
 だが、真央なら鳴らす筈がないし、門田は下の解除番号を知っていても、まず下でインターホンを鳴らす。
 聡寿は緊張しながら、ドアスコープを覗いた。
「っ!」
 見知らぬ男性がドアの外にいる。しかし、完全に知らぬ人間ではない。
 聡寿は息を潜め、相手が遠ざかるのを待った。
 だが、男は再びインターホンを押した。静かな室内に、その音が不気味に響き渡る。
 どうしようと恐怖に怯えながら、聡寿は手を握り締めて男が去るのを待った。
 ドクドクと自分の脈の音さえ聞こえるほど緊張していた。
 その時、がちゃりとノブが回された。
 聡寿は悲鳴をあげそうになったが、必死でそれを飲みこんだ。
 大丈夫、鍵はかけてあるし、チェーンもしてある。もしこれ以上何かされるようなら警察に電話をかければいい。
 聡寿は震える手でリビングにある電話を取りに行き、それを握り締めた。
 息を詰めて見守ること数分。それきりノブは音をたてなかった。
 どうしたかと思いながらスコープから外を見ると、男の姿は消えていた。
 聡寿はリビングに戻り、モニターを映した。
 部屋の外には男はいない。モニターをエントランスに切りかえると、丁度男が外に出るところだった。
 聡寿はリビングに座り込んだ。何度も深呼吸を繰り返すが、身体の震えはなかなか治まらなかった。

 きちんと鍵でドアが開錠されて、向こうに開いていく。だがそれはチェーンによって阻まれた。
「聡寿、いる? 開けて」
 声と共にインターホンが鳴った。
 聡寿は慌ててドアに辿りつき、チェーンを外した。
「あー疲れたー」
 ドアを開けると、真央がニコニコ笑顔で立っていた。
「ただいま」
 時間はもう日付が変わる頃。真央は酔っているらしく、顔が赤く、息が酒臭かった。
 もう我慢できない。恐怖を感じて聡寿は真央に話そうとしたが、これでは一晩待ってからにしなくてはならない。
 がっかりしながらも、真央がいてくれると思っただけで心強く感じて、聡寿は酔ってご機嫌な真央に抱きついた。
「おっ。嬉しいな。聡寿ー。愛してる」
 聡寿から抱きついたことがよほど嬉しいのか、真央はにこにこしながら胸の中に聡寿を抱きしめた。
 ぎゅっと息苦しいほど抱きしめられれば、それだけで嬉しい。…………筈だった。
「………………。」
 酒とタバコの匂いに混じって、真央の身体から香水の薫りがした。
「聡寿……」
 甘い囁き。それは聡寿に幸せを感じさせてくれるもののはずだった。けれど……。
 唇にキスされ、耳元に甘い囁きを直接吹き込まれる。真央のうなじが見える。そこから香水の薫りがした。
「……嫌や」
 聡寿は泣きたくなりながら、真央の胸を押し返した。
「聡寿?」
「あんた……臭い」
 聡寿は顔を反らせて呟いた。真央にそんなことを言うのははじめてだった。
「え、……ごめん。打ち上げだったんだ。それでちょっと飲んじゃったから」
 本当にそれだけ? 飲んだだけ? だったらどうしてそんなに甘い匂いがするの?
 聡寿は聞き返せずに、一人寝室に戻った。
「シャワー浴びてくる」
 真央の声に聡寿は何も言い返せなかった。
 ぎゅっと目を閉じて、恐怖と嫉妬の入り混じった苦い想いを飲みこもうとした。それは結局、できなかったけれど。

 一睡もできないまま、聡寿は夜明けを迎えた。
 朝の陽射しが差し込む中で、真央は気持ちよさそうに眠っていた。
 どうして……。
 どうしてそんなに気持ちよく眠れるの、僕たちのベッドで。
 聡寿は堪えきれずに涙を零した。
 忙しいなんて、……忙しいなんて言って、本当は何をしていたの。
 聞きたくて聞けなかった。
 嫌い……。真央なんて嫌い。
 本当にそう思えたら楽なのに。
 涙を拭いてベッドを降りようとした時、インターホンが鳴り響いた。
 それはまるで聡寿の幸せの終わりを宣告する判決のように聞こえた。
「……っ」
 聡寿の身体が強張った。
 再びインターホンが鳴る。明け方の静寂にそれは不気味に鳴り響く。
「……んー」
 真央が顔を顰めて身体を起こした。
「何、……何時?」
 まだ醒めきらぬ目で、真央は壁の時計を見た。
「聡寿、何か早出だった? 門田さんが来た? 間に合う? …………聡寿?」
 真央は最初、聡寿の迎えが来たと思ったらしい。だが、身体を固くして震える聡寿に何か異変を嗅ぎ取ったのか、機敏にベッドを降りた。
 その時、再びインターホンが鳴る。
「門田さんじゃないんだな?」
 ベッドに座る聡寿の肩を持ち、目を合わせて問う。聡寿は辛うじて頷いた。
「真央!」
 寝室を出て玄関に向かう真央を、聡寿は慌てて追いかけた。
 相手は普通じゃない。ストーカーなんて、何をするかわからない。
「誰?」
 真央はドア越しに直接訪問者に話しかけた。
「誰だよ。何時だと思ってる」
 バタバタと駆け去る足音が聞こえた。
 ガチャガチャと真央がチェーンを外そうとするのを見て、聡寿は慌ててそれを止めた。
「真央!」
「捕まえてやる」
「駄目!」
「どうして」
 聡寿は首を振って必死で真央を止めた。
「何をするか……わからない。刃物とか持ってたら……」
 震える声で聡寿は真央を止める。
「もしかして、付きまとわれてるのか? だから昨日、チェーンかけてたんだろ? ここまで上がってる来るの、はじめてじゃないんだな? どうして黙ってたんだよ」
 肩を揺さぶられて、聡寿はもがいて逃れようとした。
 今は真央に触れられたくない。
「聡寿!」
「離せよ」
「聡寿?」
 真央の腕を引き剥がすように押し返し、聡寿は真央から逃れた。
「僕のことなんか、心配じゃないくせに」
「何言ってるんだよ。心配に決まってるだろ」
「いいよ、心配なふりをしなくても」
「聡寿! どういう意味だよ。俺はな」
「しばらく事務所に泊まるから。向こうなら、ずっと誰かがいてくれるから」
 それ以上は真央の視線に耐えられず、心配な素振りばかりを見せられるのも堪らずに、聡寿は電話を取った。短縮のダイアルは門田を呼び出す。
「聡寿……」
 真央の呼びかけを無視して、電話に出た門田と話をする。
「すみません、こんなに早くから。迎えに来てもらえますか? しばらく事務所で暮らします」
「聡寿! 待てよ! 俺はそんなの納得できない! お前は俺が守るから!」
 電話の向こうで門田が心配そうに問いかけるのを無視して、とにかく迎えに来てくれと繰り返した。
「聡寿……。どうして……」
 聡寿はそれきり、真央と視線を合わすことすら拒否をした。


「本当によろしかったのですか?」
 ハンドルを握る門田が心配そうに聡寿に問いかける。
 聡寿は固く目を閉じて無言で頷いた。
 門田はルームミラー越しにその様子を見て、眉を寄せた。
 突然の呼び出しに慌てて門田は駆け付けた。もちろん、それは聡寿を連れ出すつもりではなかった。電話の向こうで聞こえる、真央の焦った声と聡寿の苦しそうな悲鳴。門田はそれは悲鳴に聞こえた。
 とりあえず駆けつけて、聡寿を落ちつかせれば、きっと仲直りしてくれる。そう思っていた。
 それが、門田が着いた時にはもう、聡寿は荷物をまとめていた。真央が話しかけても頑としてそれを拒否していた。
『一体どうされたのですか?』
 門田が訊くと、真央はやるせなく首を左右に振るだけで、聡寿は逃げるように部屋を出た。
 引き止めるかと思った真央は、焦って門田に早く聡寿を追いかけてくれと頼んだ。
 一人で外に出すのは危険だからと。
 門田は聡寿を追うしかできなかった。
 そしてこうして聡寿を乗せて事務所へ向かっている。

 事務所へ着くと、門田はすぐに真央に連絡をとった。とにかく、無事に着いたということを知らせてやりたかった。
『ありがとうございます』
 真央は電話の向こうで門田に礼を言った。その声は暗く沈んでいた。
「何があったのですか?」
 真央の説明は要領を得なかった。聡寿がストーカーの存在に気がついていたこと、ストーカーが2度にわたり、部屋の前まできたことはわかった。けれど、それが何故、聡寿があの部屋を出ることに繋がるのか。
『俺には……何がなんだか……』
 聡寿に拒絶され、逃げ出されたことがよほど堪えているのだろう、真央の声は震えていた。
「何かわかれば、お知らせします」
『お願いします……』
 結局そう言うしかなかった。
 聡寿は、事務所のほうの客間に一つ部屋を取った。弟子達がいそいそと世話を焼いている。
 聡寿がいることで、弟子達は喜んでいる。
 事務所はもともと、泊まりこみの弟子もいるが、この分ではその人数はさらに増えるだろう。
 その方が安心ではあるのだが。
 外を監視するモニターに、例の男の影がないことを確かめ、門田は聡寿の部屋を訪ねた。
「門田さん、朝早くからすみませんでした」
 ようやく落ちついたのか、聡寿はふわりと微笑みながら、頭を下げた。
 その面影が、京都で一人孤独と戦っていた頃の聡寿と重なる。
「本当にこちらに落ちつかれるおつもりですか?」
 門田が確かめると、聡寿は微笑んだまま頷いた。その微笑みに無理を感じた。弟子達は単に喜んでいるが。
「竹原さんとお話し合いを……」
 門田が勧めると、聡寿は静かに首を振った。
 今は何を言っても無駄だろう……。門田はそう判断して、「それでは」と部屋を出た。
 事務室へと戻りながら、深い溜め息をついた。
 一体あの二人に何があったというのだろう。
 ただ、好きだ嫌いだであの二人が一緒に暮らしているのではないことくらい、門田にだってわかる。あの二人が乗り越えたもの。
 そのためにどれだけの年月を乗り越えたのか、どんな困難を乗り越えてきたのか、門田は知っている。
 聡寿の傍にいた門田だが、聡寿の事だけを知っているのではない。むしろ、孤立無援で戦ってきたのが、真央の方だということを知っている。
 そして二人が喧嘩をした時だって、どんな思いやりで仲直りするのかも……。
 それが……。
 聡寿が真央の説明や謝罪を受け入れようとしないなど、普通では考えられないのだ。
「見当もつかないな……」
 門田がやるせなく呟くと、弟子の一人がそれを聞きつけたのか、不思議そうな目を向けた。


 その日の夜、真央が事務所を尋ねてきた。
「聡寿さん、竹原さんがいらしてますよ」
 真央を応接室へ通し、門田が聡寿を呼びにいくと、聡寿はピクリと身体を震わせ、『会いたくない』と言った。
「今お会いにならないと、あとでもっと会いにくくなりますよ。まだ帰られるのが嫌なのでしたら、私が責任を持ってお帰り頂きますから、少しだけでもお会いになりませんか?」
 聡寿は門田の説得にしばらく悩んでいたが、それでも首を左右に振る。
「わかりました」
 自分でも思いがけず厳しい声が出たと思ったが、それは聡寿にも同じくらい厳しく聞こえたらしい。顔を強張らせて門田を見た。
 戸惑う聡寿を残して、門田は部屋を出る。門田も胸が痛んだが、それは聡寿にとっても辛かっただろう。
 言葉を尽くして説得すれば、あるいは聡寿も折れたかもしれない。だが、人に言われて仲直りするのではなく、聡寿の意思でしてほしい。
 門田が一人で応接室へ入ると、真央は苦笑いした。
「……申し訳ありません。ご気分が優れないようで」
 真央はそれだけで理解して、すみませんと頭を下げた。
「門田さん、これを見て頂きたいんです。今日の今日でできたことといえば、こんなことしかなくて」
 真央は1冊のファイルを取り出した。
「失礼します」
 門田が手にとって開くと、それは真央のマンションの警備に関する計画案だった。
「警備室を作ります。警備員も3交替勤務で24時間体制にしました。今すぐできることはこれしかありませんが、セキュリティーも全面的に見直すつもりでいます」
「失礼ですが、竹原さん」
「わかっています」
 門田が言おうとするのを、真央は言葉を遮って止めた。
「聡寿が出ていったのは、あの男が原因じゃない。きっと……、俺に何か原因があるんだってことはね」
 門田はファイルを閉じ、それを真央に差し出した。
「正直なところ、何が原因なのか、さっぱりわからないんです。ここのところ、ずっと忙しくて、話もまともにできてなかったんです。きっと聡寿は色々不安だったはずなのにと思うと、申し訳なくて」
「ですが……」
「昨日、俺打ち上げだったんですよ。これでちょっとは時間もとれると思うと、飲みすぎちゃって。今思うと、帰ってからすぐ聡寿は様子が変になって。その時にちゃんと話し合えばよかったのに……、酔っ払いって駄目ですね」
「これから……どうされますか?」
 自嘲気味に笑う真央に、門田は慰めの言葉をかけられなかった。
「会ってくれるまで毎日通います。こちらがご迷惑じゃなければ」
「迷惑だなんてとんでもない」
 淋しそうに背中を丸め、真央は屋敷を後にした。
「………………」
 ポツリと一言、自戒の言葉を残して。

「帰られましたよ」
 門田が報告に聡寿の部屋を再び訪れると、聡寿はじっと窓の外を見ていた。
「また明日も来られるそうです。これを聡寿さんにとお預かりしました」
 門田はファイルを聡寿に見せた。
「なんのファイルかな?」
 自分で見るのは怖いというように、聡寿は手を出せずに、ファイルを見つめた。
「マンションの警備計画だそうです。警備員を常駐させるそうですよ」
「そんな……」
 大袈裟なと思いはしたが、真央が自分のためにしてくれたことは間違いがないだろう。
「帰る時に竹原君が言ってました」
「……」
 聞くのが怖かった。けれど、そんなふうに言われたら聞かずにいるのはもっと怖い。
「自分も聡寿さんを追い掛け回すストーカーと同じようだと」
「そんなっ」
 何故そんなことを真央が言うのだ。
「会うのを拒否する人に、会うのを強要すれば、それはストーカーと同じでしょうね」
 門田の言葉に聡寿は目を見開いた。それほど驚いてもいた。
「もちろん私たちは聡寿さんが嫌がられるのでしたら、どんな相手からでもお守りします。一歩も近づけるつもりはありませんのでご安心下さい。たとえそれが、竹原さんだとしても」
 聡寿は驚いて門田を見ていた。
 本気でそうするのだという気迫も見てとれた。
「僕は……ここにいれば安全だから」
「勿論です。ですが、私たちは聡寿さんの心までお守りすることはできません」
「こころ……」
「殻の内側にいて、何も見なければ、それは楽でしょうね。聡寿さんが一度手に入れた温もりを手放す勇気がおありなのでしたら、私は何も言いません」
 手放せるわけがない。その確信にかけるしかなかった。
「私は帰らせて頂きます」
「あ……」
 障子に手をかけた門田に聡寿は思わず声をかけていた。
「なんでしょうか?」
 思わず呼び止めてしまったものの、聡寿は言葉にできずに俯いた。
 根気よく待つつもりの門田だったが、それ以上は意地が悪すぎるような気がして、声をかけた。その声は自分でも恥ずかしくなるほど、優しい響きを持っていた。
「お送りしましょうか?」
 聡寿は顔を上げることはできなかったが、それでもしっかりと頷いた。

 聡寿が事務所を出る時に一悶着起こってしまった。
 今まで見ているだけだった男が、ガレージが開くと同時に車に駆け寄ってきたのだ。ちょうど聡寿は車に乗ろうとしているところだった。
「なんだ!」
 見送りに出ていた弟子の一人が慌てて男を止めた。声を聞きつけて、数人が飛び出してきた。
 門田は聡寿を抱えるように、車に押しこんだ。
「警察だ。警察に電話をしろ」
「もうしました。すぐに来てくれるそうです」
「離せ! 離してくれ! 俺は、俺はー!」
 怒号が飛び交う。
「大丈夫ですから」
 門田に励まされるように、聡寿は頷いたものの、いつあの男の指先が自分に届くのかと、恐怖が駆け上ってくる。
「話をさせてくれ。話をしたいんだ。家元に、直接お願いしたいんだ」
 弟子が必死で押し留める。男はもがいて身体だけでも、首だけでもと、聡寿へ近づこうとしている。
「やめろというのがわからないのか!」
「頼みます! お願いします! 俺、俺を弟子にして下さい! 俺、貴方の弟子になりたいんです!」
 男の発した言葉に、全員の動きが止まった。
 唖然として、呆然として、意味がわかりかねたというのが正しいだろうか。
「お願いします。付き人からでも、なんでもいいんです。弟子にして下さい!」
 呆れたように弟子の一人が笑った。
「聡寿さん……」
 聡寿は自分を抱える門田の手をそっと離した。
 車のドアを開ける。
「危険です」
「大丈夫」
 聡寿はドアを開けて車を降りた。男の顔が希望に輝く。
「私は弟子をとりません」
「でも、こいつら」
「瀞月流に入門したいのなら、それなりの人物の推薦状を持って、京都の本部へ行き、審査を受けてください」
「俺は貴方の弟子になれればそれでいいんだ。舞台に立てなくてもいい。修行や稽古より、貴方の世話をしたい。こいつらより、しっかりやれる」
「京都の本部には連絡しておきましょう」
「聡寿さん!」
 本気で弟子にするつもりなのかと、傍にいた者たちが青ざめる。
「貴方を推薦する人物がいたら、その人とは縁を切るようにと」
 弟子達がほっとしたように顔を見合わせた。
「修行や舞台に立つつもりのない人はそもそも入門すべきではないでしょう。それに、私の大切な人達をこいつら呼ばわりするような人は、どんな人の推薦があっても、私は入門を許しません。推薦する人ごと、瀞月流は今後の関わりをお断わりします」
「謝る。今言ったことは謝るから!」
 聡寿は謝ると言った男の顔を静かに見返した。
 本気で謝るのなら、そう言う前に謝罪の言葉が出るものだろう。……彼のように。
「謝る気持ちのない人に謝っていただきたくはありません」
 聡寿が言い切ったところへ、パトカーがやってきた。
 住居不法侵入で男は連行されていった。
「聡寿さん……」
 ほっと一息ついて、弟子達は聡寿を見た。
「みんな、守ってくれてありがとう」
 弟子の中には目に涙を浮かべている者もいた。聡寿の言葉が身にしみて嬉しかったのだ。
 見送られて聡寿は事務所を後にした。


 門田が連絡してくれていたので、マンションの前で真央が待っていた。
「聡寿……、無事か?」
 こくりと頷いて、聡寿は車を降りた。
「門田さん、ありがとう」
 門田は微笑んで二人に頭を下げて、帰っていった。
「大丈夫か?」
 聡寿の肩を抱き、真央はエントランスを開けた。そこに一人の男性が立っていた。
「彼が村社さんだ。8階に住んでいるから」
「了解しました」
 警備会社の制服に身を包んだ彼は、深く腰を折った。
「あと二人にはまた紹介するから」
 エレベーターに乗り込むとほっとした。
「本当に警備員を置くのか?」
「ああ、セキュリティーも考え直す」
「あの男は……捕まったのに」
 エレベーターが着いて、部屋に入る。屋敷にいる時には得られなかった安堵感が聡寿を包んだ。
 居るべき場所。在るべき空間。ここはもう自分の『家』なのだと感じられた。
「驚かすわけじゃないんだけど、その男はたいした罪にはならない。前科があるとかならともかく、すぐに釈放されると思うんだ。今度は付きまとうだけじゃ済まないかもしれない。俺はそれが怖いよ。もちろん、どんなことをしても聡寿を守るつもりだけれど」
 真央の言葉が暖かかった。
「もう……怖くないよ。僕には殻なんか必要ないんだ」
「殻?」
「もっと毅然としていれば良かったんだ。嫌な事、不安な事から自分を守るのに殻を作って閉じこもっても、それはなくならない……。自分の言葉で、想いで守るしかないんだ」
 聡寿は自分を見つめる真央をしっかり見返した。
 大きな心で聡寿を愛してくれた人。永遠など信じないと、頑なに鎖していた心を開放してくれた人。
 何の約束もないのに、自分だけを待っていてくれた。
 その気持ちを一瞬でも疑ったなんて。
「真央、どうして昨日は香水の薫りをさせていた?」
「香水?」
 真央は問われている意味がわからないようだった。
「真央のうなじから香水の薫りがした」
「うなじ? …………あ、あれかな」
 あれは二次会の場所だっただろうか。女子社員が最近はまっているというアロマを焚き始めた。噎せ返る匂いに辟易していると、一人が「室長はいつもいい薫りをさせている」と言い出した。和風の匂いだと騒ぎ始め、鼻を近づけてくる。逃げ回っている時に、アロマポッドが倒れてしまった。オイルがついた手を洗う前に、困ったなぁとうなじを掻いた……。
 真央はそれを説明して、今更ながら、自分の手の匂いを嗅ぐ。
「…………ん」
 聡寿が小さな声で何かを言った。
「何? 聞こえなかった」
「ごめん、真央」
「聡寿……」
「ごめん、疑ったりして」
 謝る気持ちがあるなら、先に言葉が出るはずだ。聡寿はごめんと繰り返し、昨日の夜と同じように真央に抱きついた。
「俺、疑われてたの?」
 しっかりと抱き返され、聡寿は真央の胸に頬を寄せる。
「……ごめん」
「やきもち妬いてくれたんだ、聡寿」
 あの苦しい気持ちが嫉妬なのだと聡寿は今更ながら気がついた。
「嬉しいな。聡寿にやきもち妬いてもらえるなんて」
「嬉しがるな……」
 あんなに苦しかったのに。誤解だとわかってこんなに恥ずかしいのに。
「俺には聡寿だけだよ、今も……昔も……これからも……」
 強く抱きしめられる。その強さが嬉しかった。
 この人がいれば大丈夫。何も怖くない。
 どんなことだって耐えられる。あの会えない日々に比べたら、どんな事も辛くない。
 聡寿は真央のシャツを握り締めた。
 頬に感じる真央の体温が嬉しい……。
 それが離れていく寂しさに抗議するように顔を上げると、優しい笑みが聡寿を見下ろし、近づいてきた。
 重ねた唇は涙の味がした。