花埋み 雲遥かに

 
 
「倉持です。よろしくお願いします」
 彼が頭を下げたのは、自分より一回り年下の青年だった。
「竹原真央です。お願いします」
 秘書というのは名目で、監視に近い形でつけられたのだということは、どうやら相手にも伝わっている様だった。竹原はちからなく笑い、倉持に気の毒そうな視線を送った。それがわかっているなら、どうぞ仕事をしてくださいと思った。
 社長、――竹原の父親でもある――は、この青年に「設計課」の課長という地位を与えた。だがそれは、あまりにも「名前」だけ過ぎた。
 ほとんどのデザインを外注で済ませてきた竹原建設にとって、重要なのは、課長ではなかった。外注先のデザイナー達の機嫌を取るだけの仕事、とも言えた。
 社長からは、「とにかくなんとかやる気を出させてくれ」と言われた。だがそれなら、建築学科を出ている彼にもデザインを描かせればいいんだと思っていた。将来社長になるからと言って、役職を与えるのではなくて。そして、自分が付くことになったジュニアにも同じように思っていた。欲しいのなら、わがままを言ってでも、押し通せる立場にありながら、甘えているだけなのではないかと。
 その思いは、真央を目の前にして変わった。
 1週間に満たない仕事を通しても思った。
「何故なんだ」と……。
 決して社長の息子という境遇におもねらない真摯な態度。人当たりのいい好青年。なのに、そのやる気の無さはなんなのだろうかと。
 そしてそれを切り出せないまま、一月がたとうとしていた。
 部下として過ごす日々を数えて、倉持にはわかりかけていた事があった。
 真央は時折、どうしようもないという目で、どこか遠くを見ていた。そんな時に話しかけると、彼がいつも首筋に手をやる事も。そして、苦しいほどの暗い笑みが付随する。
『私情を持ちこむな』というのは簡単だった。
 けれど、それを言えない雰囲気ではあったし、なにより、それで真央が仕事に支障をきたしたことはなかった。だから言えなかった。
『しっかりして下さい』とは……。
 そんな中、倉持は突然、真央の母親に呼び出された。社長にも、真央にも内緒で会いたいと……。
 指定された喫茶店は、竹原建設からも、社長の自宅からも、遠く離れていた。
「ごめんなさい、こんなところに呼び出したりして」
 軽く頭を下げた彼女は、とうてい社会人の息子がいるとは思えないくらい若かった。会うのは初めてだったが、真央は彼女に似ているのだなと、漠然と感じた。
「これを……、真央の目に付くところに、置いて欲しいんです」
「はぁ?」
 彼女の用件はあまりにも意外で、倉持は自分では思いがけないくらい、とぼけた声を出してしまった。
 彼女はテーブルの上に、ある2冊の雑誌を置いた。
 一つは主婦が読むような女性月刊誌だった。もう1冊は、芸術関係の本の中でも、堅い記事を書くと評判の季刊誌だった。
「お願いします」
「あの、ご自宅に置かれれば、それでよろしいのでは?」
 何もこんな所まで呼び出され、そんな事を言われるとは思ってもみなかった。きっと子離れ出来ていない彼女から、息子の事をあれやこれやと聞かれ、何かを頼まれるのだと思ってきたのだ。
「自宅では……、駄目なんです。主人が……、嫌がりますから」
「はあ」
「それに、真央は一人でマンションに住んでいるので」
 一人暮らしだというのは初耳だった。思えば、そんな風に、真央と個人的な話をした事もなかったと気づく。
「ですが、奥様が持って行かれたほうが。私が読むように勧めるには、あまりにも業務に関係がないですし」
「ええ、わかってはいるんです。けれど、私からは渡せないんです。私もまだあの子の気持ちを認めるまではいかなくて……」
 意味の通りにくい話ではあった。酷く不可解で、不自然な話で、けれど、彼女はとても真剣で、断るには理由が思い当たらない。
「もしも、これであの子が以前のように明るくなってくれればと、前向きになってくれれば、私なりに認めてあげられるかと思うんです。あの子一人では、苦しそうで、辛そうで、なのに主人はただ叱りつけるばかりで、愚かかもしれませんが、私にはどちらにつく事も出来なくて。ですが、真央のことはやはり可愛いんです。あの子が、以前の様に明るくなってくれることに、かけてみたいんです」
「目につく所に置けばいいんですね?」
 倉持が言うと彼女はほっとしたように微笑んだ。
「ご覧になるかどうかは保証しませんよ」
 真央は社内報ですら目を通さなかった。建築関係の本にも目を通してはいない。
 それが、こんな興味もなさそうな雑誌を読んだりするだろうか?
「ええ、それであの子が読まなければ、それもまた運命だと思いますから」
 倉持からすれば大袈裟過ぎる表現を残して、彼女は去っていった。2冊の雑誌を抱え、倉持は途方にくれる。どうやってこれを真央に読ませればいいのかと思って。
「目のつく所に置くだけでいいと仰ってたし」
 それほど難しい事だとは思わなかったし、真央がそれを読もうが読むまいが何も変わらないと思った。
 真央の「お守り」も、どうせ1年くらいで誰かに代わってもらえると思っていた。自分にとって、その転勤が、栄転になるのか、左遷になるのかが大切なくらいで、どうせ真央はあのままなのだ。それが理由で「左遷」になるなら、仕方ないが、真央のお守りをしているよりかはましだとさえ思っていた。
 
 次の日の朝、真央が出勤してくる前に、倉持はその2冊の雑誌を付箋もはさまず、真央の机の上に置いておいた。どうせ真央はそうして置いていた物を、読みはしないのだ。頼まれた件はそれで終わりだと思っていた。
 ただ、そこまでして母親が読ませたいものが何なのか気にはなったが、パラパラとめくった限り、どれが真央に見せたいという記事なのか、倉持にはわからなかった。
 やがて真央が出勤してきて、デスクについた。倉持は少しばかり興味を引かれてその姿を見ていたが、やはり真央は、机の脇の雑誌になど興味がないようだった。
 倉持は興味を抱いた自分をしかりつける様に仕事を始めた。倉持の仕事も、そうたいしたことがあるわけでもない。真央が社長に引き摺られる様にしていくパーティの日程調整や、彼に何らかの利益に繋がるだろう取り引き先の接待、デザイナー達とのパイプ役、くらいなものである。
 そんな毎日に飽きも感じていたし、真央に同情もしていた。そしてふと、同情の視線を向けた先には……。
 真央が何かをじっと見詰めていた。その視線を辿って、倉持ははっとする。真央は倉持が置いた雑誌の表紙を見詰めていた。それはおよそ、倉持が見るのは始めてだというくらい、真剣な瞳で。
 そして真央は震える手で、その雑誌を手に取り、開いたのだ。
 パラパラとページを繰り、ある所で広げた彼は、食い入るようにそのページを読み始めた。唇を固く閉じ、瞬きも忘れる様にそれを見ていた。
 雑誌は震えていた。真央の手が震えているからだ。
 真央は雑誌を置くと、ネクタイを緩め、銀色のタグのついたネックレスを取り出した。
 真央はそうして、何かを呟いた。あまりにも小さなその声は、倉持の元までは届かない。
 ぎゅっとタグを握り締め、そして、もう一冊に手を伸ばした。それは芸術誌の方だった。どうやら最初のページを見ているらしいとわかった。
 たしか、どこかのお家騒動が書いてあったはずだ、と、倉持は思い返してみた。「孤立無援の家元」というセンセーショナルなタイトルが目を引いたので、それだけを覚えていた。
 ガタンと椅子が鳴って、真央は立ちあがった。
「課長?」
 どうしたのかと声をかけるまでもなく、真央は部屋を飛び出した。
「課長!」
 驚く皆を後に、倉持は真央の後を追った。
「課長、どうされたんですか?」
 エレベーターを待つ真央に倉持は話しかけた。
「倉持さん、ごめん。今日だけ見逃して、頼むから」
「ですが、今日は午後から会食が……」
「お願い、行かせて。なんとか、親父の事、誤魔化しておいて」
 エレベーターが開いて、真央は乗り込んだ。
「ごめん」
 それが、扉が閉まる前の、真央の言葉だった。
 
 
 
 どうやって社長に取り繕おうかと、倉持は暗澹たる思いで時計を睨んでいた。まもなく午後4時になろうとしていた。会食は5時からだ。今から用意してぎりぎりだろう。
 一体彼はどこへ行ってしまったというのだろう。
 あの雑誌を見せれば、彼は明るく、前向きになるのではなかったのか。母親に対して罵りたい気分になった。
 大の男が震えていた。ごめんと、力ない言葉で謝った。それを思い出すと、倉持は諦めて社長に叱られようと覚悟を決めた。元々が無理な話なのだ。大の男の監視なんて。やる気を出させるのも無理だ。何があったのかは知らないが、そもそも乗り越えられない男に、一つの会社を任せてもいいものだろうかとさえ思う。
 辞表を書く覚悟さえ固め、倉持は社長室へ行く為に部屋を出た。
「課長……」
 ちょうどエレベーターから真央が出て来るのと同時になった。
 真央は倉持を見て、目を逸らし、けれどすぐにまた倉持を見た。今度は真っ直ぐに。
 おや? と思った。
 真央の目が、今までになく力強いものに変わっていたからだ。
「まだ、間に合うか?」
 声の調子も違う様に感じた。張りのある良く通る声に、倉持はドキッとする。
「はい、今から出て、ちょうどだと」
「じゃあ、行こう。車の中で聞いて欲しい事がある」
 そう言って真央は笑った。
 決して楽しそうではなかったけれど、それは確かに笑顔だった。
 こんな風に笑う人だったのかと、倉持は不思議そうに自分の若い上司を眺めた。これから先、長い時間を共に歩む事になろうとは思いもよらずに……。
 
 
「どこへ行かれていたんですか?」
 車を運転しながら、倉持は尋ねた。答えてもらえないとは思いながらも、聞かずにはいられなかった。
「東京駅」
「駅?」
 真央の答えは、まったく倉持の予想から外れていた。
「そう」
「東京駅からどこへ?」
「ずっと東京駅にいたんだ」
「どなたか上京されるんですか?」
 その問いに真央は唇を歪ませて笑った。
「誰も、来ないさ。ただ、ずっと、出発する新幹線を見てた。乗りたいと、乗って西へ行きたいと、そう思いながら……さ」
 西へ……。
 倉持は心の中で問う。西に何があるというのだろう。
「どうして、新幹線に乗らなかったのですか?」
「俺は乗らない。俺は待つんだ。その日を……」
 思いつめたような声に、倉持は心配になる。何か、苦しい決断をしてきたのではないだろうかと。
「だから、俺がおやじに何言っても、倉持さん、びっくりするなよ?」
 真央はガラリと声の調子を変えて倉持に話しかけてきた。
 あまりに今までとは違う明るい声に、倉持の方が戸惑ってしまう。
「何を仰るつもりですか?」
「さあ、なんだろうねー」
 これが本当に、あの、無気力だった課長と同じ人だっただろうかと、倉持はつい相手を眺めた。
「前見て運転してくれよな」
 そう言って白い歯を見せて、真央は笑った。
 
 
「室長! やめてくださいと、何度も言ってるでしょう!」
 倉持の叫び声が現場に響き渡った。
「見つかっちまったかー」
「兄ちゃん、だからやめとけっていったのに。あの人怒ると怖いんだからさー」
 作業員にからかわれて、真央は足場を下りていく。
「いい加減にして下さい。怪我でもしたらどうなさるおつもりですかっ」
 頭から噴火でもしそうな怒りは、けれど真央の顔を見ていると語尾が弱くなっていってしまう。
 あの日、東京駅に行っていたという日を境に、真央は変わった。
 父親である社長に、課長職を下ろすように掛け合い、それが叶わないのなら竹原建設を辞めてどこかの設計事務所に就職すると宣言した。それはまるで脅迫めいた内容だったが、父親が折れた。
 そして熱心に設計をするようになり、賞を取るまでになった。
 倉持はいったん秘書という任を外されたが、すぐにまた、今度は真央に請われて、彼の元に戻された。
 真央は外注よりも、デザイナーを育てようと、自分で設計室を作ってしまったのだ。
 それだけなら倉持の今日の苦労などなかっただろう。
 真央は、特殊な血液型を持ちながら、現場に足繁く通うようになったのだ。自分のデザインしたものが見たいといい、そして作業にまで加わってしまう。輸血がすぐに行えない身体だということは、真央の前では問題にはならないらしい、
「ごめん、倉持さん。でも、絶対怪我には気をつけてるしさ。安全第一」
 倉持はため息をついて背中を向けた。
 彼はきっとわかってやっているのだと、あらぬ疑いをかけてしまう。
 あの海の底に沈んだような1ヶ月間を見せられ、次に太陽のような笑顔を見せられれば、許してしまわずにはいられないのだ。
「室長、本当にこれからは……」
 言いかけた倉持の声が途切れる。しおしおとついてくるはずだった人がいない。
 ふと視線を上げれば、足場を上っていこうとする、やんちゃな姿があった。
 倉持は思いっきり息を吸いこんだ。思いきり叫ばずにはいられない。
 そう……、嬉しいから……。