花の宿
 


「こちらです」
 楓の間と書かれた扉を開けると、たたきがあり、そこで靴を脱いで上がった。
 女将が先に立って襖を開ける。立派な床の間の座敷には、座敷机があり、その向こうには縁側も見えた。
「どうぞ、お寛ぎください」
 女将は手に持っていた荷物を畳の上に置き、縁側の硝子障子を開けた。
 ふわりと花の香りが風に運ばれてくる。
 香りに誘われるように視線を移すと、庭に紅色の花をつけた梅の木があった。
「三日間お世話になります」
 真央は懐から包みを出して女将に渡している。
「ありがとうございます」
 三つ指をついて頭を下げた女将は、お茶の用意を始める。
「寒くないか?」
 真央は縁側に立ったままの聡寿に声をかける。
「うん……」
 庭の見事さに見蕩れていた聡寿は上の空で返事をしているように思えた。
「ヒーターをお入れしましょうか?」
 純和風の部屋とはいえ、空調は完全に電化しているらしい。
「いいです。そんなに寒くありませんから」
 真央は笑顔で答え、入れてもらったお茶に手を伸ばす。
「それでは、ごゆっくりお寛ぎください」
 挨拶をして出て行く女将に、聡寿は慌てて礼を言った。
 静かな山間の老舗の旅館に、聡寿と真央は二人でやってきていた。
 東京から車で4時間。
 聡寿の休みに強引に真央が合わせ、家でゆっくりしようと言う聡寿を、無理やりに近い形で引っ張り出してきた。
 車の中では強引な真央に呆れたようなことを口にしていた聡寿だが、景色が変わり始めてからは幾分和らいだ表情を見せるようになった。
 旅館に着いてからは、豊かな自然が聡寿の心に響いたのか、出かけるときの不機嫌もすっかり消えていた。
「ここ、ずいぶん高いんじゃないのか?」
 聡寿は座敷の隣にある部屋の襖を開ける。二間続きの部屋の更に奥には、専用の温泉もひかれている。
「滅多にない贅沢。海外旅行よりは安いって」
 誤魔化すように真央は笑う。
「…………」
 聡寿は家元という立場にあったため、たいていの贅沢にはなれている。が、世間の相場と言うものを知らない。その事を真央は良く知っていた。
 たとえ一泊が下手な海外旅行の料金より高い部屋でも、まさかそんなに高いはずがないといえば、聡寿は信じてしまうのである。
「庭が綺麗だ」
「だろ? ほら、マンションだと庭なんかないもんな。聡寿には気詰まりかな−と思ってたんだ。聡寿の京都の家ほどって言うわけにはいかないだろうけど、各部屋にそれぞれ小さな庭が見えるんだって。だから、この旅館を選んでみたんだ。どう?」
 真央はにこにこしながら、縁側に立つ聡寿の隣にやって来た。だが、聡寿は庭には見蕩れながらも、あまり嬉しそうではない。
「聡寿、疲れた?」
 そっと肩に触れる手が優しく、暖かい。
「別に」
 聡寿はするりと真央の手を逃れ、座敷に戻った。
 まだ仄かに温かいお茶を飲む。
「聡寿……。来たくなかった?」
 責めるでもなく真央が尋ねると、聡寿は小さな溜め息と共に首を振る。
「……散歩に行こうか……二人で」
 聡寿が微笑んで言うと、真央はほっとしてにっこり笑った。

 着物に着替えてロビーに出た聡寿は、真央の心配通りに人目を引いた。誰もが一瞬、はっとして聡寿を見る。
 そのたびに真央はちくりと胸が痛くなった。
 各部屋に設えられた庭とは別に、旅館の庭園を二人で散歩した。
 二人の部屋からは紅梅が見えたが、庭園には紅白の梅が今を盛りと咲き競っている。
 枝の間からは、鶯が飛び交って、愛らしい鳴き声を聞かせてくれる。
「服のままでいればいいのに」
 小さな呟きは、隣を歩く聡寿にも届いてしまったらしい。
「楽なんだよ。似合わないか?」
「似合ってて、綺麗だから困るんだよ」
「……あほ」
 真央の言葉に聡寿はさっと頬に朱をはいて俯く。そうすれば真央の目の前に、美しいラインのうなじがまともにさらされる。
 匂うような色気が感じられるのは、自分の気のせいではないはずだと、真央は恨めしく思う。
「女将より、着物姿は綺麗だし、うなじも色っぽい」
 言うなり、真央は聡寿のうなじに唇を寄せた。
「真央!」
 さっと飛ぶように離れ、聡寿はうなじを押さえて真央を睨んだ。
「何をするんや!」
「何って……、キスしたくなったから」
 当然のように言う真央に聡寿はますます頬を赤くする。
「あんた、今日は変や。いつも変やけど、本当に変や」
「そんなに、ヘン、ヘン言うなよ」
 まだうなじを押さえる聡寿に真央は唇を尖らせる。
「そりゃ、聡寿は楽しくないかも知れないけどさ、たまには聡寿に広い庭のあるところで、ゆっくりさせてやりたいなって思ったんだ。三日間、付き合ってくれよ」
「あんたは何もわかってへん」
 聡寿は悲しそうに呟いた。
「わかってないかもしれないけど……、そんな風に決めつけるなよ。俺は、聡寿のしたいようにしたいんだから」
「僕は家にいたいって言った」
「な……、そんなのいつでもできるだろ」
「無理して連れてきてもらわなくても、僕は家にいたい……」
「そんな風に言うなよ」
 二人共に黙り込む。柔らかな春の陽射しの中、不似合いな気まずい空気が二人の間に漂う。
「ごめん、聡寿……」
 唐突に降ってくるのは、いつもの真央の優しい謝罪。
 けれど、聡寿はそれをすぐには受けとめられない。
 自分も言いすぎたと謝らなくてはと思うのに、それが口に出てこない。
 すっと差し出される手に、手を重ねるのがやっとで。
 それからは黙ったまま、二人で庭を歩いた。
 鑑賞される事もない花びらが、寂しそうに二人の後ろに舞い落ちていった。

「夏には蛍が飛ぶんですよ」
 月明かりの差す部屋で、女将は真央に酌をする。
 すっきりした辛口の日本酒が、料理によく合っている。
「お客様、着物が良くお似合いですね。普段から着慣れていらっしゃるでしょう?」
 女将は聡寿にも酒を勧める。
「ええ、まぁ……」
 静かに注がれる酒を受けて、聡寿は口をつけるだけで、杯を戻した。
「あとは自分達でしますので」
 真央が丁寧に断ると、女将は心得たように下がっていった。
「もう飲まない?」
 真央が徳利を持つが、聡寿は手を猪口に伏せて断った。
「つごうか?」
 手酌をする真央に聡寿が手を伸ばすと、真央はいいよと注いでしまった。
「蛍だって。見た事ある?」
 真央は縁側を見て聡寿に尋ねた。
「あるよ。京都だと、料亭なんかに、捕まえて来た蛍を放して、鑑賞会とかするんだ」
「…………そっか。俺は、見た事がないや。もっとも、俺たちが自然を壊して、ビルを建てるんだから、蛍なんて見る資格ないかも」
 真央は苦々しそうに笑って、杯を重ねる。
 綺麗に盛られた料理も、それに合わせた器も、窓から見える景色も、とても素晴らしい。
 昼には昼の、夜には夜の景色が、目の前にある。
 差し向かいで食事をするのも、実は久しぶりの事だと、聡寿は今更に気づいた。
 すれ違いの生活にいつのまにか慣れてしまっていた。
「一緒に……」
 そこまで言って、聡寿は口篭もる。
「何?」
「…………なんでも……ない」
 慌てて首を振って、聡寿は残っていた酒を飲みほした。
 近くを流れる川のせせらぎだけが、微かに聞こえていた。

「先に入る?」
 真央が浴衣を広げながら、聡寿に尋ねる。
 膳は下げられ、隣の間には既に床が敷いてある。
「…………いい」
「その『いい』は、先に入るってことか? 後にするってことか? どっち?」
 聡寿は真央の言い方にむっとして顔を背けた。
「それとも一緒に……あ?」
 一緒に入るかというのは、あくまでも冗談のつもりだったのが、食事の時の聡寿の言葉と、今の聡寿の態度で、真央ははっと気がついた。
「一緒にはいろ、聡寿」
 手にした浴衣を離して、真央は聡寿を抱きしめる。
「離せよ」
「駄目。こんな可愛い聡寿、絶対離せない」
「やめ……」
 昼間と同じ場所、うなじに唇が寄せられる。
 ぞくりと背中に走るのは快感だろうか。
 逃げ出そうとしても、真央の拘束は力強く、聡寿は身動きすらままならない。
「や……、真央…」
「な、一緒に入ろう」
「わかったから」
 もう一度ちゅっと音をたててうなじを吸われ、真央の手が離れていく。
 そこで気がついた。『仕方なく』という形を真央が取らせてくれたのだと。
 それでも素直にはなれず、聡寿は着替えを手に、浴室へと足早に駆け込んだ。

 かけ湯をして、先に湯船に浸かっていた聡寿に並んで入る。
「んーーーー」
 と思いっきり手足を伸ばした。
「いいお湯だな」
 真央は聡寿に笑いかける。
「マンションだと、二人で入るには狭いもんなぁ」
 真央は聡寿の肩に腕を回す。引き寄せようとすると、わずかな抵抗があった。
「聡寿?」
「どうして……」
 聡寿は俯いて、水面をじっと見つめている。
「何?」
「どうして、あんたはマンションにいるのが嫌なように言う?」
「え? どういうこと?」
 真央は聡寿の言葉に驚いて、辛そうな聡寿の肩を両手で掴んで自分に向き直らせた。
「俺、マンションにいるの、嫌だなんて言ってないだろ?」
「家でゆっくりしたいと言ってるのに、旅行に行こうって言って。ここに来てからも、マンションだとこんな事できないとかばかり言ってる。僕は庭なんて欲しくないし、別にお風呂が狭くてもいい。あんたと一緒にいるのがいいのに、あんたは違う……」
「聡寿……」
 真央は眉を寄せる聡寿を抱きしめた。水飛沫が上がり、水面が揺れる。
「真央」
 突然抱きしめられ、驚いて聡寿は離れようとするが、強く抱きしめられ、それもかなわない。
「嬉しい……。聡寿、ありがとう」
「僕は怒ってるのに」
「うん。気づかなくて、ごめん。でも、俺、マンションが嫌だなんて、絶対そんな風に思ってない」
 温泉で暖かくなった聡寿の身体は、ほんのり色づいて、柔らかい香りがする。
「聡寿がいつも傍にいてくれる。俺はそれだけで嬉しいよ。本当に。だけどさ、この頃、もっと贅沢になるんだ。我侭になってるのかな。もっと聡寿といろんなところへ行きたい。いろんなことしたい。……離れている間に、できなかった事、取り戻したいって、思ってる」
「真央……」
 聡寿の呼ぶ声がいつもの落ち着きを取り戻したのを感じて、真央はほっとする。
「本当はさ、もっと、もっと色んな所へ行きたいとか、一年中でも一緒に出かけたいとか思ってる。俺って、この頃、変なんだ。ずっと、聡寿を独占したいって思ってる。一緒に暮らせるだけでも、奇跡のようなことだって、喜ばなくちゃいけないのに」
「あんたは……いつもヘンや」
 呟くような聡寿の言葉に、真央は酷いなと苦笑する。
「だから……僕もヘンになっていく」
「聡寿?」
 ゆっくり真央の背中に回される手。
「庭なんかいらん。広いお風呂も、美味しい料理も、蛍も、何もいらん。あんたがおればええ。もう二度と、離れたくない。あの部屋で、ずっと一緒にいてたい」
 真央は胸に込み上げる感情に眩暈さえした。
「聡寿……」
 欲望に火がつき、声が擦れる。
 両手で聡寿の頬を包み、揺れる瞳を見つめながら、口づけた。
 振れるだけのキスの後、目を閉じた聡寿の瞼に唇を寄せる。
 頬に、鼻に、そして唇に。
「愛してる……、聡寿……」
「真央……」
 自分の名前を呼ぶ唇を吸う。舌で舐める。
 深いキスを交わしながら、背中を支えるように抱きしめる。
 お湯の中に手を潜り込ませる。
 そして聡寿の欲望を探り当てる。
「ん……」
 硬くなり始めた聡寿を握ると、重ねた唇から、聡寿の甘い声が漏れた。
「こっち……きて」
 真央は聡寿の肩を抱き寄せ、自分の膝に聡寿を横抱きに抱き寄せた。
「愛してる」
 耳に熱い息を吹き込み、膝に抱き上げたおかげで水面から顔を見せた聡寿の胸の飾りに唇を寄せる。
「やっ……」
 舌先で押すように舐め、きつめに吸うと、今にも咲こうとする蕾のように色づき、立ちあがる。意地悪く歯を立てると、聡寿の背中が撓った。
「やめ……うっ……」
 岩場に聡寿の背中を預け、取り残されたもう一方の胸も愛撫する。熱くなっていく聡寿の欲望も手でこすり上げる。
「真央っ……」
 ぎゅっと肩を抱きしめられる。
 休みを取るために、スケジュールを詰めこんだために、1週間ほど、互いに寝顔しか見ない日が続いていた。
 夜中に目が覚めて、相手がいることに安心して目を閉じた日も、一度や二度ではない。
「真央……」
 聡寿の身体が揺れるたび、湯が揺らめく。
「駄目だよ、聡寿。身体を揺らすと、背中を傷めるから」
「……むり」
 うっすらと開いた目が真央を見つめた。
 真央は聡寿を抱きしめ、自分と態勢を入れ替えた。
 岩場に背中を預ける真央に乗りあがるような形になって聡寿は慌てた。
「真央!」
「ほら……、俺も……」
 聡寿を握りながら、自分の高まりを聡寿の腹に擦り付ける。
「あ……」
「キスして……聡寿……」
 真央は微笑んで聡寿を見上げる。
「ん……」
 恥ずかしそうに重なる唇を、真央は甘く噛み、舌を滑り込ませる。
「んんっ……」
 腰を支えていた真央の手が、後庭へと伸ばされる。
 くいっと指先が体内へと侵入してくる。
 身体が揺れると、真央の熱い塊を腹部に感じ、また自分自身も揺れて、それだけで刺激になってしまう。
 指がどんどん奥を目指しているのがわかる。
 いつもより強く快感を感じるのは、普段にないシチュエーションのせいだろうか。
 聡寿はもうキスも出来ずに、真央にしがみついた。
「真央……、んっ……、あ……もぅ」
「イキそう?」
 耳元で熱い息と共に聞かれ、背中が反る。痺れるような感覚が走り抜ける。
「あぁっ!」
 真央の手の中で弾ける。
「聡寿……」
 ぎゅっと指が締め付けられる。
「俺も……、聡寿の中でイキたい……」
「真央……」
 口づけながら、真央は聡寿の中から指を引きぬき、聡寿の腰を支えて持ち上げた。
「いい?」
 微かに頷くのに、真央は聡寿の顎にキスをして、聡寿の中へと灼熱の塊を埋め込んで行った。

 布団に聡寿をそっと寝かせる。
「大丈夫か?」
「ん……」
 腕を持ち上げるのさえ億劫になり、聡寿は気だるげに目を閉じる。
 そっと頭の下に腕が差しこまれると、聡寿は笑ってその腕に甘えた。
「浴衣着せてもらうなんて、何年振りかな……」
 聡寿は微笑んで自分を抱きしめる恋人を見た。
「これからもずっと着せてやろうか?」
「…………遠慮しとく」
 決して綺麗とは言えないその着せ方に、聡寿は笑ってその申し出を辞退した。
「……また、来たいな」
 真央が聡寿の髪を撫でながら囁く。
「蛍……見たいな」
 聡寿も笑って答えた。