花埋み 道遥けき
 
 空を覆う雲は厚く、今にも大粒の雫を零しそうだった。四月に入ったというのに、空気は冷たく、肌を刺してくるようだ。
 桜の蕾は膨らみかけたまま、今だ花を咲かせようともしない。
 そんな庭を眺め、聡寿は重い溜め息をついた。
 ……帰りたい。
 間違いなく、ここが自分の家でありながら、聡寿は明るい笑顔を脳裏に思い浮かべる。
 帰りたい。
 きっと、聡寿が逃げ出せば、彼は何を捨ててでも、迎えてくれるだろう。
 だから行けない。行ってはいけない。
 震える腕をきつく組み、聡寿は障子を閉めた。一人きりの寒さが堪える。
「家元、失礼します」
 閉めたばかりの障子の向こうから、門田の声がした。
「どうぞ」
「準備が整いました。どうぞお越しください」
 障子を半分開けたまま、門田は部屋の中には入らず、廊下の向こうから声をかけてくる。
「わかりました」
 目を閉じ、ゆっくり、大きく、深呼吸をする。声が震えた。
 そう、もう戻れないのだ。
 この一歩は、彼から遠く離れていく道。
「真央……」
 目を開く瞬間、眩しい笑顔が甦り、聡寿は廊下に射す一条の光を見詰める。
 彼は光。いつも自分の行く道を照らしてくれる、眩しい光。
 胸にそっと手を当て、聡寿は立ち上がった。
 一人……、一人は馴れている。馴れているはずだ。
 一人の方が、楽じゃないか……。何度も自分に言いきかせる。立ちあがると膝が震えた。
 もう、戻れないと、それだけを自覚して。
 
 
 東京に戻ってすぐ、聡寿は北田菜穂子に呼び出された。
 彼女は聡寿の婚約者として、既に周囲に認識されている人だった。1月に行われた襲名披露の際に、そういう扱いをもって、村社の中に迎え入れられていた。
 その彼女がわざわざ聡寿を呼び出すからには、何かしらの理由があるのだろうということで、聡寿はそれなりの覚悟を持って出かけた。
 そして……。彼女の用事とは、聡寿の想像をはるかに超えたものだった。
「婚約は、なかったものにしてください」
 菜穂子は淑やかな笑顔の向こうから、けれどきっぱりと聡寿に告げた。
「どういうことでしょう。何か、僕に不満でもありましたか?」
 躊躇いがちに聡寿が尋ねると、それでも菜穂子は微笑んで言った。
「私は、京の女です。いつも、凛としていたいんです」
 要領のわからない説明に、聡寿は戸惑う。すすんで彼女と結婚したいわけではない。けれど、それはお互いにこうして、勝手に決められる話でもないのだ。
 瀞月流は彼女の父親の後ろ盾がなければ、かなり困ったことになるのもまた事実である。
「私は、決して政略のために、あなたとの婚約を承諾したわけやないんです」
 彼女は笑っていた。
「そら、お父さんはそのつもりやったんでしょうけれど、私は女として、聡寿さんと幸せな家庭を築くつもりどした」
「もちろん、僕も」
「嘘ついたら嫌やわ」
 菜穂子は聡寿の言葉に愛らしい口元に手を添えて、ころころと笑った。
「私は、私だけを見ててくれる旦那さんとしか、結婚しとうないんです。聡寿さんの心の中には、どなたか別の人がいはることくらい、私にはわかります。こちらに戻ってきはったら、その人の事は忘れてくれはると思ってましたけど、それは無理なんと、違いますやろか」
「菜穂子さん……」
「こちらに戻ってきはるまで、連絡が取れませんでしたわなぁ。おじ様も連絡先は教えてくれはらへんかったし。私にはわかってしまいました。聡寿さんは、決してその人の事を忘れたりしはらへん……と」
 聡寿には何も言えなかった。言い返すべきなのだろう。そんな人はいないと。けれど、それだけは聡寿は否定したくなかった。
「私はプライドの高い女やから、そんなのは、許されへんのです。せやし、婚約は解消して欲しいんです。この話、すぐに父に通しますさかい、聡寿さんはただ黙って了承してくれはったらと思います」
 聡寿は彼女の強さが羨ましかった。見掛けは楚々とした美女でありながら、その芯の強さはどこから来るものであろうか。できれば教えて欲しいとさえ思った。
「せめて、おなごから断るほうが、どちらも角が立たんとよろしおすやろ?」
 彼女は笑った。だから聡寿は彼女の笑顔しか思い出せない。
「今時、家の為の結婚というのは、流行らしませんえ。梨園を見てご覧なさい、聡寿さん。自分の為の未来を掴んでも、誰も何も言わしません」
 聡寿の背中に菜穂子はそう言った。聡寿は怖くて彼女を振り返れなかった。
 凛とした彼女に比べ、自分はなんとみすぼらしいのだろうと思ったから。
 そして後日、本当に申し入れられた破談願いを、聡寿は黙って頷いた。驚いたのは会長である父もそれを了解したことだ。聡寿を非難するわけでもなく、むしろ周りの非難を自分の力不足だと受けとめてくれた。
 
 そして今日、この日がある……。
 婚約の解消を知らせ、自分は結婚しないと告げなくてはならない。後継者は血族の中から選ぶと……。
 それは多分、これから熾烈な争いを招くこととなるだろう。その最中に入っていかなくてはならないのだ。すべて自分の我が侭だ。
 だから誰にも頼れない。わかってはいても、足が萎えるほどの恐怖が駆け上ってくるのだった。
「大丈夫ですか?」
 部屋から出るときに、門田が心配そうに声をかけてきた。きっと彼にはわかっているだろう。聡寿が誰を思い、結婚はしないと決めたのか。そして、その未来に、相手が待っているはずもないことも知っている。
 門田は自分を哀れに思っているのではないだろうか。そんなはずはないとわかっていても、縋る相手のいない自分が、とても惨めだった。
 一人で闘うのだと決めたのに、とてつもなく不安で、怖かった。
 聡寿の相手は、陰謀渦巻く、巨大な派閥のぶつかり合いなのだ。
「大丈夫」
 そう答えるのがやっとだった。
 長く薄暗い廊下はまるで聡寿の未来の様だった。見通しのきかない、長いトンネルに入っていくような不安は、聡寿の足を竦ませる。
「そう言えば、昨日の新聞はご覧になりましたか?」
 廊下の曲がり角の近くで、門田が足を止めて、脈絡のない質問をしてきた。
「一応は目を通しましたけど?」
 何か重要なことが載っていただろうかと、思考を巡らせてみるが、何も思い出せなかった。
「見落とされたんですね。もっとも、ずいぶん面変わりされていたし、粒子が粗くて、私も最初はわかりませんでしたが」
「門田さん?」
「なんとかいう、建築家の間では結構名誉な賞の新人賞を受賞されたそうですよ」
 門田が誰のことを話しているのかはすぐにわかった。それをどうして、今、ここで、彼は自分に話すのだろうか。返って恨めしくなる。逃げ出したいと、帰りたいと、そう思う心を見透かされたような羞恥さえ昇ってくる。
「晴れやかな顔をしておいででしたね。あの方は、まるで太陽のようです」
 それは、聡寿にだってわかっている。だから、翳らせてはならないのだ。
「授賞式のコメントが、意味不明で、緊張しているせいだと書かれていました」
「そう……」
 もうその会話はやめにして欲しいと思って、聡寿は一歩を踏み出す。
 その聡寿を門田は腕を掴んで引きとめた。
「門田さん、その話はもう……」
「血を分けた人にこの賞を捧げる。その人との未来ために」
「え?」
「それが授賞式でのコメントでした。彼の」
 聡寿は茫然として門田を見上げた。
 心臓が痛いほど早く打ちつける。身体が震えているのがわかった。
「さあ、行きましょう」
 聡寿の腕を掴んだまま、門田は静かに歩き始めた。
 なかば引き摺られる様にして聡寿は足を踏み出し、廊下を曲がった。
「あっ……」
 雲間から日差しが差し込み、研かれた廊下の木目を照らし出した。弾ける光は縁側のガラスに跳ねかえり、キラキラと緑の葉をも明るく照らしていた。
「決して一人にはしません。たとえ、どれだけかかっても。私はあなたの弟子ですから」
 暗く長い道の向こうには、輝く太陽が待っている。それを信じてもいいのだろうか。
 自分の太陽を手に入れたいと願ってもいいのだろうか。
 幸せになりたいと、そう思ってもいいのだろうか。
 零れそうになる涙を堪え、聡寿は顔を上げた。
「ありがとう、門田さん」
「行きましょう」
 門田は腕を離した。
 今度こそ力強く頷いて、聡寿は自分の一歩を踏み出した。
 未来へ続く為の一歩を……。
 太陽へ近づくための一歩を……。