花束

 
 
 真央は興奮気味に、指定された席についた。そこは舞台から近過ぎもせず、かといって、舞台上の人物の顔も見えないというほど離れてもいない。そして、真正面に舞台を見ることができる。いわば特等席。
 このチケットを取るのに、実はとても苦労した。
 何しろこの公演は、瀞月流の元家元が本当に久しぶりに舞台に出る、しかも今まで一度も踏まなかった東京で。そうなれば、誰もが見たいと思うのは当然で。
 発売と同時に売り切れてしまったらしい。
 発売日はなぜ日曜日なのだろうと真央はその日を呪った。何しろ同居人の目の前で電話をかけることもできず、なんとか隠れてダイヤルした時にはもう、売り切れていたのだ。
 そこからありとあらゆるつてを頼りにチケットの入手に東奔西走したが、そんな貴重な券を譲ってくれる人はいなかった。
 最後の最後、恋人に頼んでみたら、「観に来ないで欲しい」と、やはりというか、とうとうというか、宣言されてしまった。
 今回も駄目だったかと溜め息が出る。
 学生時代は、「観に来るな」といわれ、その言葉を鵜呑みにしていた。もし観に行ったのがばれて、別れようと言われるのか何より怖かったから。
 そして、離れ離れの七年間は、別の意味で怖くて行けなかった。聡寿を見てしまったら、堪えていたものが噴き出す。舞台を滅茶苦茶にしてまでも、さらってしまうだろう。そんな自分が、何より怖かった。
 そして再会してから……。聡寿はしばらく、舞台に立とうともしなかった。それはきっと、目立ったことをして新しい家元にいらぬ気苦労を背負わせたくないという配慮からだろうと思われた。
 それがやっと、聡寿の舞台を見る事ができると意気込んでいたのに……。
 真央がすっかり諦めていた時、門田が内緒ですよと言って、一枚のチケットを分けてくれた。それがこの席なのだ。
 開演5分前を告げるアナウンスに、真央はまるで、自分が出演者のように緊張した。
 客席が暗くなり、これならきっと聡寿から自分のことは見えないと、胸を撫で下ろす。それよりも心配なことはただ一つだけ。聡寿の舞台を見るのは、正真正銘、これがはじめてこと。だから、聡寿が出てきてもわからないのではないかということ。
 わからなかったらどうしよう……。隠れて観に来たのだから、あとから感想を求められることもないだろうが、どれが聡寿かわからなかったなどということになったりしたら、かなり情けない。
 だが、それは杞憂に終わった。
 幾人かの出演者のあと、聡寿が出てきた。出てきただけで真央にはわかった。
 いや、真央以外の人にもすぐにわかっただろう。彼が出てきただけで、舞台の空気が変わったのだ。
 ぴんと張り詰めた、清冽な空気に、客席の者たちまで居住まいを正したくなるように、場の雰囲気が一瞬にして引き締まった。
 あとはもう、我を忘れて舞台に釘付けになった。
 
 
 廊下のざわめきも、今は遠かった。
 久しぶりの舞台は、聡寿の神経を張り詰めさせ、ぴりぴりと肌を刺すように刺激する。
 誰も近づけさせないようにし、聡寿は開演の時を待っていた。
 深く静かに深呼吸をし、己の心に静寂が訪れるのを待つ。
 ふと、百合の薫りがする。
 部屋の中央に置かれた花篭には、白い百合を中心にした、見事なアレンジメントフラワーが置かれている。
 目を開け、その百合を眺めて、聡寿は淡い笑みを浮かべる。
 京都にも、聡寿の舞台の時には必ず届いていたその花束は、いつも名前が書かれてはいなかった。
 名もないその贈り主を、聡寿は探し出そうとはしなかった。その必要がなかったから。
「けど、名前を書くようになったんやったら、花の種類くらい、変えたらええのに」
 誰に言うともなく呟く。
 震える指先でその白く厚い花弁に触れる。それだけで落ちつけた。たった一人、あの苦しい場所にいたときも。
『観に来ないで欲しい』
 自分でも何故だかわからない。見せたくないというこの気持ちは。
「お時間です」
 門田の声に告げられた時には、すっかり心が落ち着いていた。百合の薫りに見送られて、聡寿は控え室を後にしたのだった。
 
 
 
 門田の車に送られて、聡寿はマンションまで帰ってきた。舞台のあと、後援会の人達に挨拶をしたりしているうちに、すっかり夜は更けていた。
 日付も変わろうかという時間になっていては、もう真央も寝ているだろうと思われた。自分は、舞台の次の日なので休みを取ってはいるが、真央は明日も会社があるのだから。
「お疲れ様でした。ゆっくりおやすみください」
 車が到着すると、門田が声をかけてくれる。聡寿は微笑んで、門田に礼を言う。
「門田さんも疲れているのにすみませんでした。おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
 ドアを閉めようとして、聡寿はふと思い出して、尋ねてみた。
「竹原君にチケットを渡したのは門田さんですか?」
 門田は少し驚いて、苦笑しながら頷いた。
「申し訳ありませんでした。余計なことをして」
「いいえ……。ありがとうございました」
 礼を言われるわけがわからずに、門田は聡寿を見たが、聡寿は微笑みながらドアを閉じた。
 エレベーターに乗りながら、聡寿はこらえきれない笑みをもらす。
 いくら平静な気持ちを取り繕おうとしても、舞台を目の前にすると、とても怖かった。自分が本当に、板を踏んでもいいのか。その恐怖心は、きっと誰にも判らないだろうと思う。
 京都に引き戻されるような、恐れは、バカなと思いながらも、聡寿の心の中からは消えてくれない。
 かといって、翳りの見えるような舞いもしたくない。どうしても捨てきれなかった、自分の世界なのだ。
 そんな葛藤の中、いざ自分が出る直前に幕間から客席を見た。もちろん、真央の姿など見えるはずもなかった。
 ただ……。わかったのだ。あの、優しく、暖かな太陽の存在が、近くにあると。
 すうっと、心が落ちつくのがわかった。手の震えが消えた。目を閉じ、再び目を見開くと、そこにはもう、舞台しか見えなくなっていた。
 
 
 
「おかえり」
 聡寿が鍵を使って玄関を開けると、リビングの方から真央が迎えに出てきた。
「まだ起きてたのか?」
「うん、疲れて帰ってくるだろうと思って。何か食べるか?」
「済ませてきたから」
「だろうと思ったけどさ。……おかえり」
 草履を脱いだ聡寿が上がるのを待って、真央はその身体を抱きしめる。
「真央、……嫌だ」
「いい匂いだって。俺は、好きだよ」
 着物に焚き染められ、染み付いた香の匂いを、聡寿は真央から隠したがる。それはわかっているけれど、真央はその薫りがもう、馴染みになってきている。
「だめだって」
 制止しようと言葉を紡ぐ唇を、真央は自分のそれで塞ぐ。
 最初は触れるだけ。
「おかえり」
 ただいまの言葉を言おうとするのをさらに邪魔をして、舌を挿し入れる。
 つるっとした歯を舐め、舌先に触れる聡寿の舌を絡め取る。
「真央……、シャワー、浴びたい」
「駄目。だって、もう浴びてきただろ?」
 うなじから薫る微かな石鹸の薫りに、舞台の後、聡寿が汗を流したのだとわかる。
「でも、嫌だ。着物の匂いが……」
「駄目。もう待てないんだ。聡寿……」
 真央はそう言うなり、聡寿を抱き上げた。
「ま、真央!」
 聡寿は慌てて、自分を抱き上げた真央にしがみつく。
「なんだか今日の聡寿、色っぽいんだよ……」
 聡寿からすれば首を傾げたくなるようなことを言って、真央は二人のベッドに聡寿を下ろした。
「今日の真央はへんだよ」
 憎まれ口を言う唇を三度塞いで、真央は着物の裾の合わせから、手を忍び込ませる。
「ま、真央っ。待って、脱ぐから」
 聡寿は真央の手を掴んでやめさせようとするが、真央はいったん手を離し、自分を止めた聡寿の手を「こっち」と言って、首に回させる。
「真央……」
「綺麗、そうじゅ……」
 ニッコリ微笑まれると、そうじゅに抵抗はできなくなる。
 ぐいっと胸を開けられ、半分開いたそこに口接けられる。強く吸われ、痺れが走る。きっと、跡が残っただろうと思うと、明日からどうやって隠せばいいのかと、泣きたくなる。けれど、それが嫌ではない自分を、聡寿は愛しくなる。
 こんなに自分を大切にしてくれて、真っ直ぐに見つめてくれる人と、こうして抱き合って過ごせる。それより幸せなことを聡寿は知らない。また、これより幸せなことはないと思う。
 裾を割って忍び込んでくる手が、聡寿の下着をずらし、聡寿の中心を優しく掴む。
「ん……」
「聡寿」
 裾を大きく割り、真央は聡寿の白い太腿に舌を這わせる。
「や……」
 ゾクリとした快感が背中を走り、聡寿は自分の身体の熱が一気に上がるのを感じた。
 きっと着物はあられもなく乱れ、その姿を真央の前にさらしていることだろう。胸ははだけられ、裾は大きく割られ、両足が真央の目の前にあって……。下着はずらされ、その中心は真央の目の前に。
 ぬるりと舐められ、聡寿は背中を撓らせる。
「や……、めて……」
 なんとか自分で帯を解こうとするが、指先に力が入らず、うしろに真央の指を感じてからは、もう自分の姿を気にする余裕はなくなっていった…………。
 
 
 
 頑なに背中をむける聡寿に、真央は途方にくれたように、その髪を撫でているしかできなかった。
「聡寿……」
 情けない声で呼ぶが、聡寿は返事すらしてくれなかった。
「悪かったよ、ごめん」
「そんなこと、思ってもないくせに」
 真央に限ってそれはないと思いながらも、聡寿は拗ねてみたくなった。
「悪かったって、思ってる。もう、聡寿が嫌がること、しない……」
 きゅーんという声までついでに聞こえてきそうで、聡寿は必死で笑いを堪える。
「今日だけ、あの綺麗な百合に免じて許してもいいけど」
 すべての花を持ちきれずに、いったんはすべて、本部の方に送ってもらった。あとで、あの百合だけは持って帰ろうと思っている。いつも京都でもそうしていたように……。
「ほんとかっ」
 急に元気な声になった真央に、聡寿は半ば感心しながら、ふと思いついたことを口にしてみる。
「今日の舞台、どうだった?」
 真央は内緒で出かけたことも忘れ、その素晴らしかった舞台の感想を、興奮してまくしたてた。聡寿に睨まれているのに気がつくまで……。