月虹Gekkou




 聡寿はマンションのベランダに出て、眼下の景色を眺めていた。マンション自体が高台にあるため、八階から眺める聡寿の前には、光の絨毯が敷き詰められているように見えた。
「聡寿」
 背中から真央が呼ぶ。ここは真央の部屋。
 聡寿は帰るきっかけをなくして、この部屋で夜も更けたこの時間を、目的もなく過ごしていた。
「聡寿、風邪を引くぞ」
 室内からの光がさえぎられる。真央がベランダのサッシに立ったため、灯かりが届かなくなったのだ。
 答えない聡寿に焦れたのか、真央もベランダに出てくる。
「何を見ているんだ?」
 聡寿の横に並び、一緒に夜景を見下ろす。
「偉くなったように、錯覚するだろ?」
 真央の言葉に、聡寿は苦笑する。
「あんたは錯覚した?」
 聡寿の「あんた」という言葉にむっとしながらも、真央は首を横に振る。
「毎日、思い通りにならない人の相手をするようになってからは、全然、錯覚どころじゃないよ」
 真央の物言いに、どこかしら自分の事を重ねてしまって、聡寿は眉間に皺を寄せる。
「大変だね」
 つんと横を向き、中へ入ろうとする聡寿を、真央は横から抱き寄せた。
「っ、なにをっ」
 聡寿の頭に腕を回し、強引に口づける。押しつけるだけの、一方的なキス。聡寿の手が、真央の肩を押し返そうとする。
 だが、真央はそれを許さなかった。自分の肩を押す手首をきつくつかむ。
「んっ……」
 言葉にはできない抗議が、喉の奥で上がる。
 手首の拘束を振りほどこうとするが、思いの外、真央の力は強かった。
 いつもなら、真央はこんなに強引なことはしないのに……。聡寿は心の中でそう思い、見知らぬ真央に出会った事実に怯える。
 何かが変わろうとしているのだろうか。
 抵抗の止んだ聡寿の手首を、それでも真央は離さず、唇の間から自分の舌を差し入れた。
 頭を抱え込んでいた手が、少しずつ背中に下りていく。背筋を辿る指の先の刺激に、聡寿は身体を反らせる。
 そんな聡寿を片手で力強く支え、真央は甘い舌を存分に吸った。
 腰の窪みに辿りついた手は、聡寿のセーター越しに、執拗にそこを攻め始める。
 聡寿の膝が震え、抵抗していた手は、いつしか相手の肩に縋っていた。
 歯列の裏を舐め、真央の唇が離れていく。舌の先から、銀色の糸が生まれ、儚く消えていった。
「聡寿、俺は……」
「聞きたくない」
 真央の言葉を強引に遮る。今、真央の言葉は聞きたくなかった。普段にない態度の人が言う言葉は決まっている。きっと、良いことではないのだ。それだけはわかる。
「聡寿……」
 困った顔の真央に、聡寿は力なく笑う。
「言えば? もう会うのはよそうって」
 その言葉に、真央は心底驚いてしまう。どうしてそんな言葉が出てくるのか、わからないのだ。
「そんなこと、お前に頼まれたとしても、絶対聞き入れないからな」
「じゃあ、何? 言えばいいよ。何を言われても、気にしないから」
 真央は目を細めて、泣き出しそうな顔をした。その意味が、聡寿にはわからなかった。
「どうしたのさ」
 真央は目の前の、透明な瞳を見つめる。何を映しているのだろうと思う。今そこに、本当に自分が映っているのだろうか。それを確かめるのは恐かった。
 きっと、聡寿は自分など見ていないのだ。それを認めることは、簡単で、同時にとてつもなく辛かった。
 どうすれば、この人を自分に繋ぎとめられるのだろう。それだけを必死で考えてきた。
 その結論ともいうべき言葉を、かなりの決意で口にしようとした途端、「聞きたくない」と言われてしまった。その上、「もう会うのは止そうと言えば?」とまで言われてしまった。
 それは真央にとって、かなりのダメージをもたらした。
 ……一緒に暮らそうと言おうとしていた決意を飲みこむほどに……。
 そして、何も気にしないと言われてしまった。
 それだけの存在でしかなかったのだろうか。聡寿にとっての自分は。真央は身体の中の血液さえ、凍るような気がした。
「聡寿、帰らないでくれ」
 けれど、問い詰めることは、やはり真央にはできなかった。それをすれば、この想い人は簡単に自分を捨てていくだろうことが、良くわかっていたから。だから、ありきたりの言葉で、ここに繋ぎとめる。たとえ、朝を一緒に迎えられないと知っていても。
「まるで、ずっとここにいろって言ってるみたいだな」
 真央の心のうちも知らず、聡寿は苦笑する。だから真央は、子供扱いされるのを承知で、聡寿を腕の中に抱きしめる。まるで駄々っ子が、お気に入りのぬいぐるみを抱きしめて離さないように。
「帰らないでくれ」
 何を言われても気にしないんだろう? だから今は、甘えに本心を紛らせる。
「それは……、できない」
 だが、聞こえてくるのは、やはり、苦しそうな聡寿の否だった。
 その声に、真央はそれ以上を言えなくなる。聡寿を苦しめることだけはできないから……。
「ごめん」
 真央が謝ると、聡寿はくすりと笑う。それで、許すという意味。
 真央は聡寿の細い身体を抱きしめた。
 
 口づけはいつも、悲しいほど甘かった。
 聡寿は荒い息の間にも何度も唇を吸われ、逃げようとすると耳を舐められ、首を振って、襲いくる快感を逃そうと努力する。
 だが吸いつくような唇は、喉に下り、鎖骨を熱い舌と歯で舐められ齧られると、もう声を堪える事はできなかった。
「あっ、……」
 逃げようとする身体は、真央にしっかりと押さえつけられる。
「ダメだ……」
 真央は状態を浮かせ、頭を振る。長い髪が、真央の心のように、不安定に揺れている。
「抑えがきかない。お前を……、傷つけるかも」
 掠れた真央の声に、聡寿は目を閉じる。
「いいよ」
 真央はごくりと唾を飲みこみ、聡寿の綺麗な、だが、どこかしら感情の欠けた顔を見つめる。
 好きなのだ。もう何にも代えられないほどに。失くせば生きていけないほどに。
 真央は聡寿の白い胸に荒々しく口づけし、下へと手を滑らせる。
 それは半ば起ちあがり、真央の手が触れると、欲望の形を整え始める。真央はそれをきつく掴み、上下に動かす。
「……っ、…………ぁ!」
 震える声が、聡寿の快感を教えてくれる。
 右も、左も、その胸を吸い、真央は聡寿の身体総べてを吸い尽くそうとする。柔らかな臍を吸い、そして掴み取っていた聡寿の証しに唇を寄せる。
「やめ……ろっ……」
 聡寿の声はけれど、ほとんど聞き取れないほど震えている。
 熱い口腔に取りこまれ、身体は悦びに痺れている。
 聡寿の昂まりも熱くなり、真央の舌を蕩かせる。舌先に苦味が触れる。そうなると聡寿は背中を反らせ、衝撃を逃そうと、荒い息を吐く。
「離せ……っ!」
 だが真央は聞き入れなかった。突端の割れ目を舌先で舐める。後から後から、苦味が広がるが、すぐにそれは真央の心を熱くしていく。こんなにも聡寿が近くにいると、感じられて。
 聡寿の手が真央の長い髪を掴み、引き離そうとする。それはつまり、自分へと真央を引き寄せることになるのだが……。
「……っああ!」
 身体の中で、熱い塊が弾けるような感覚。同時に、真央の口内に自分の精を解き放っていた。
 ごくりと喉を上下させる真央の顔をまともに見られない。いつもなら、そこまではせずに、離してくれるのに……。
 だが、聡寿の思惑も知らず、真央は聡寿の片足を持ち上げると、その奥に舌を這わせる。
「真央!……やめっ」
 どうして止めてくれないのか、聡寿は目尻に涙を浮かべる。
「真央!」
 必死でその人の名を呼ぶ。
 だが、その声は次第に甘く掠れていく。抵抗より、快感が勝っていき、喘ぎを止められない。
 舌が侵入してくる熱い感触と、背中を駆けあがって来る悦楽。聡寿は悲鳴に似た声を上げる。
「ああっ!」
 荒く息を吐いたところへ、指が入ってくるのがわかる。逃げられない。もう、二度と。
 聡寿は涙を零し、自分の身体を呪う。こんなにも、真央を恋しいと想う自分を。
 灼熱の塊が身体を割って入ってくる。そしてそれを歓ぶ自分の身体。
 真央は強い視線で聡寿を見ている。聡寿も彼を見つめ、諦める。
 もう、自分の心から彼を追い出すことは一生涯、できないのだと。そして、悲しいほどの孤独を背負って行くのだと。
 けれど、聡寿は、そんな人に出会ったことを幸せだと思う。それは自分が抱けることのない感情だと思っていたから。
『何を言われても気にしない』
 それは、真央が口にする、『別れ』以外に辛いことは、絶対に存在し得ないから。別れ以外なら、何も恐くないから。
 そう思いながら、聡寿はいずれ、自分から真央の元を離れていくことを知っている。それが遠い日でないことも……。
「聡寿……」
 真央は目を閉じ、快感を追っている。長い髪が聡寿の肩先で揺れる。そのくすぐったいような幸せを、聡寿はただ抱きしめていた。
「あ、…………っ、…………っ」
「聡寿……っ!」
 激しく腰を押しつけ、真央が果てると同時に、聡寿もまた昇りつめていた。
 優しく唇を吸われ、聡寿は愛する人の背中に腕を回す。真央は笑い、聡寿の胸に額を擦りつける。
 その頭を抱き、聡寿は窓の外を見た。
 月がガラスに映り、虹色の光を放っている。
 月も時には、これほどに、美しい光を放つのだと、聡寿はその七色の輪を見つめる。
「泣くなよ……」
 暖かい手が、舌が、聡寿の涙を掬う。
 月虹は、彼の涙に光を受けていたのだと、聡寿は知る。
 どこまで……。
「泣かないでくれ……」
 いつまで……。
 きつく抱きしめられながら思う。
 いつまで、どこまで、彼と一緒にいることが出来るのだろう。
 別れは目の前にあるというのに……。

 
二人の時間は、出会った時から、別れを刻み始めていた。