Emotion
 
 ……厭だな。
 そう思う自分を恥ながら、それでも一度心に浮かんだ小さな嫌悪感は、自分の力ではどうしても消えてくれなかった。
 
「聡寿」
 真央の明るく優しい呼び声にも、答えられない自分がいる。
「何?」
 ついその明るさが気に触る。
「どうかしたか?」
 先回りする心配性も、今は聡寿の感覚を逆なでする。
「何もない」
 いったん口を閉じれば、とりつくしまもない。自分でもそれは理解しながら、わかっていながら、口に出るのは、とげとげしい短い言葉で。
 言ってから悪かっただろうかと思って、真央の顔を盗み見れば、少しも気にしていない、それどころかまだ心配を重ねた顔で自分を見ていて……。
「静かにしてほしい」
 驚いた真央の顔。
 怒ればいいのにと思いながら、それでも彼がそうできないのを知っている。
「……ごめん」
 予想通りに降ってくる謝罪に、かっとなる。
 腹が立ったのは自分に対して。
 決して真央に対して何かを思ったわけではない。
 けれど、結果的には真央に対して怒りをぶつけていた。
「簡単に謝るな」
 …………悪いのは自分なのに。
 そう思っても口に出せない聡寿は、唇を固く結んで、リビングのソファから立ち上がった。
「頭を冷やしてくる」
「聡寿!」
 真央の制止の言葉を聞かず、聡寿は玄関に行き、靴をはき、ドアを出た。
 行く当てなどないのに……。
 深い後悔の溜め息が出る……。
 喧嘩などするつもりじゃなかったのに……。
 どこで頭を冷やせばいいのだろう。
 そんなことも、自分は知らないのだ。
 とぼとぼとエレベーターまで行き、ボタンを押す。
 ゆっくりと降りるエレベーターの中で、溜め息は深くなるばかり。
 壁に額を押し当て、このまま戻ればいいだけじゃないかと思う。
 けれど戻ったとして、同じではないだろうか。
 心に刺さったままの小さな刺は、自覚してしまった分、抜けることなどない……。
 
 かくんとわずかな振動と共に、エレベーターは1階に着いてしまった。
 箱から吐き出され、聡寿は仕方なく足を運び、エントランスを出る。
 初夏を思わせる太陽が、ぎらぎらと自分を照らしている。
 梅雨もまだだというのに、この暑さはなんだろう。
 梅雨は嫌い……。なのにもうすぐその季節がやってくる。
 今年はずっと真央がいてくれる。
 そう思って、とても気分が楽になっていた……のに。
 財布も持たずに出てきたな……と思いだし、ならば散歩でもと思うが、どうしても一歩を踏み出せずにいた。
 このまま、出て行くのが怖い。
 引き返そうと思いつつ、それも出来ない。
 途方に暮れていると、ぐいっと左腕を掴まれた。
 驚いて誰が、と振り返れば、真央だった。
「真央……」
 まだ頭など冷えていない。聡寿は真央のきつい視線に逃れようとした。
 だが、真央は聡寿の手を引っ張り、歩き始めた。
「真央、嫌だ」
 聡寿はなんとか抵抗をしようとするが、強く引き摺られる。
 どこへと思う間もなく、聡寿は引っ張られ、1階の駐車場へ連れて行かれた。
 真央は自分の車を開け、助手席に聡寿を押し込んだ。そのまま自分も運転席に乗り込んだ。
「自分で出来る」
「真央が手を伸ばしてきたのが、シートベルトをかけさせる為だとわかり、聡寿は自分でシートベルトを装着する。
 逃げようとは思わなかった。また、逃げ出す場所も聡寿にはない。
 車は真央の硬い表情は反対に、スムーズに滑り出した。
 
 都心から離れ、バイパスを走行する真央の表情は相変わらず硬かった。
 怒らせたのだ。あの穏やかな真央を怒らせた……。
 聡寿は真央の横に座り、沈む気持ちで、流れる街路樹を見ていた。
 泣くまいと、息を詰める。
 これ以上、真央に呆れられたくはない。
「……聡寿」
 心なしか冷たい指先に頬を撫でられる。
 信号で止まった時に、どうしても堪え切れず流れた一粒の涙を、真央が拭ってくれた。
「…………」
 目をきつく閉じて、俯く聡寿の頭に、優しい手が乗せられる。
「もうすぐ着くから……」
 わずかに上下する頭に、真央はようやくきつく固めた表情を和らげた。
 
 車が停まったのは、バイパスから少し山手に入った、まだ真新しい民話館だった。
「ここは?」
「ん? まだオープンしていないんだけどな、この地域の民話をテーマにした、小さな博物館……、かな?」
「まだオープンしていないなら……」
 入れないのじゃないか? 聡寿はそう思ったが、真央はかまわず、聡寿の手を取り、ずんずん歩いていく。
「ま、真央……」
 何とか手を引き抜こうとするが、真央の手は緩まない。
 民話館の入口まで来ると、真央は携帯でどこかへ電話をかけた。
 すぐに、中から鍵が開いた。
「竹原さん、どうされたんですか」
 警備員らしき男は慌てたように真央に挨拶をした。
「ちょっと、中、見学していいかな?」
「え、ええ。それはかまいませんが……。何か変更でもありますか?」
「ないない。安心して。工期、遅らせたりしない」
 真央は笑って、ひらひらと手を顔の前で振って、行こうと聡寿の背中を軽く押した。
「案内はいいから。しばらく散歩させてもらうだけだから」
 聡寿は警備員に軽く頭を下げ、警備員は不思議そうに二人を見送った。
 
 入り口から館内には入らずに、真央は庭園の方へと聡寿を誘った。
「ここ、真央のところが工事してるのか?」
 民話館自体はまだ完成していないらしい。内装が少し遅れているとのことだ。だが、庭園はほぼ完成していた。比較的大きな池があり、その周りをゆっくり散歩できるようになっていた。
「門田さんに聞いた」
「ん……」
「怒ってる?」
「どうして……。怒っているのはあんただろ」
「俺は怒ってないよ。たださ、聡寿が何も話してくれないのが、辛いだけ」
 オープン前の民話館を訪れる人がいるわけはなく、日曜日で工事の人間もいない。完全に二人きりだった。
 真央はそっと聡寿の手を取った。
 聡寿は少し抵抗したが、真央に「誰もいないから」と言われ、黙ったまま……、手を繋いだ。
「八つ当たりになるだけ……」
「いいじゃないか、八つ当たりでもさ。せっかく二人で暮らしているのに」
 池にはまだ何も放されていないようだった。生き物の姿のないということが、二人きりだということを強調しているようで、聡寿は繋いだ手に力をこめた。
「何でも言って欲しい。嫌なことでも、俺にぶつけて欲しい。その為に俺がいるんだし」
 それでも聡寿は言えなかった。
 やがて丁度池の周囲を半分過ぎた頃に、木々に囲まれた小さな休憩所が建っているのが見えて来た。
 二人は自然にその東屋に足を向け、置かれたベンチに腰をかけた。
「こっち」
 向かい合わせに座ろうとする聡寿を、真央は引っ張った。聡寿はもう抵抗せずに、真央の膝の上に座る。
 背中から抱きしめられ、聡寿は安心して、長い息を吐いた。
「苦手な……、人なんだ」
「うん」
 聡寿が言い辛そうに話し始めるのに、真央は軽く相槌をうった。
「でも、流派にとっては大切な人で、京都から出てくるのに、どうしても一緒に食事したいって言われて、断れなくて……。厭だと思っちゃいけないのに、どうしても……」
「何か嫌味とか言われるのか?」
「嫌味じゃなくて、……手とか、足とか触ってきて……」
「ええっ!」
 突然耳元で叫ばれ、聡寿は逃げ腰になった。
「真央……」
「そんな奴、会うなよ」
「だから、そんなわけにはいかなくて」
「向こうでもずっとセクハラされてたのか?」
「セクハラって……、僕は男で」
 ぎゅうぎゅうと抱きしめられるのに、聡寿はなんとか逃れようとする。
「絶対さ、触らせるなよ。この身体は、俺のものなんだから」
「だから、真央……。あいてはそんなつもりで触ってるんじゃなくて」
「畜生。俺が我慢していた間に、そんな奴がいたなんて」
「…………真央」
 聡寿は思わず口元を綻ばせる。
「おかしくないぞ」
「変だ」
 お腹に回された手に、聡寿は自分の手を重ねる。
「俺もその会食行こうかなぁ。心配だから」
「心配するようなことはない」
「そんな奴が聡寿の姿を見るだけでも嫌なんだよ」
 とうとう聡寿はクスクス笑い出す。
「笑い事じゃないって」
「もし触られたら、ひっぱたいてくるから」
「ちゃんとできる?」
「できる」
 真央の手がシャツの上から聡寿の胸を弄る。
「真央……。誰か来たら……」
 自分の胸をさすらう真央の手を止めようと、聡寿は悪戯な手を掴む。が、真央の手は止まらない。
「ダメじゃないか。叩いて止めるんだろ?」
「だって……」
 真央の手にそんなことができるはずがない……。
 聡寿は目を閉じて、唇をかみしめる。
「聡寿……」
 真央の声が直接耳に吹き込まれる。
 ゾクリと、快感に肌が粟立つ。
「真央……」
「着物もいいけど、脱がせるのは、こっちの方が燃えるかなぁ」
「あほ……」
 真央は楽しそうに、聡寿のジーンズのボタンに手をかける。ビンテージのジーンズは、聡寿のお気に入りの一品で、真央と一緒に、大学の時に買い求めていた物だった。
 ウエストが緩くなって、聡寿はその頼りなさに、無意識のうちにジーンズを引き上げ様と手を伸ばしてしまう。
「だめ」
「やめ……」
 真央は聡寿の身体を片手で支え、腰を浮かせてジーンズを脱がせる。
 ジーンズと一緒に聡寿の靴も脱げてしまった。
「真央……」
 シャツと下着だけという自分の姿に、聡寿は泣きたくなる。これが寝室ならまだしも、ここは外なのだ。
「大丈夫、誰も来ないから」
「家まで我慢……」
「できない」
 聡寿の遠慮がちな提案に即答で断り、真央は恋人の身体を横向きに膝の上に抱き上げた。
「愛してる」
 真っ直ぐに見詰められる目が、聡寿は好きで、その瞳に捉えられると、もう抵抗はできなかった。
 下着を奪われ、シャツのボタンが外される。
 重ねた唇に、熱い想いを知る。
 身体の中心を嬲られ、奥深く指で攻められ、それでもいいと感じたのは、真央だから。
 ああ、とわかる。
 京都にいたとき、今度会う相手がそれほど嫌だと思わなかったのは、傍に真央がいなかったから。
 今は真央が傍にいる。だから、自分のすべては真央のもの。
 真央の首に腕を回し、とうとう愛するものを受け入れる。
 こんなにも、こんなにも、彼が好きだから。
 毅然とした態度で、相手の手は跳ね除けよう。
 快感に霞む意識の奥で、聡寿はそう誓ったのだった。