あなただけを想って
 
 目が覚めると、またベッドには一人だった。
 しばらく天井を眺めて、聡寿は起き上がる。ベッドサイドの時計を見ると、十時前。十時には時計が鳴るようにセットしてあるので、あと数分でベルが鳴る。
 その時間にセットしたのは聡寿ではない。ベッドを共にする恋人だ。
 聡寿は髪の乱れを直すように手櫛で整えながら、目覚まし時計を止め、ベッドを下りた。リビングには朝食の用意がされている。溜め息を一つつき、聡寿はバスルームに向かう。
 シャワーを浴びながら、また溜め息が一つこぼれた。
「バカ」
 そんな呟きは、シャワーの音に混じって、聡寿自身にも聞こえなかった。
 
「お疲れなのではありませんか?」
 何度目かの溜め息の後、門田がそっと尋ねてきた。二人の目の前では、弟子たちが稽古をしている。
「こちらに来られてから、挨拶だ何だと、休みをとられていないでしょう? 少しまとめて休みをとられたらどうですか?」
 門田の勧めに聡寿は苦笑する。
「疲れてはいません。むしろ、こっちに来てからのほうが、仕事の量は減ってるから」
「ですが」
 聡寿はにっこり笑って、首を振る。
「本当に大丈夫です。門田さんこそ、僕に付き合って休みをとっていないでしょう? 先に休みをとって下さいね、遠慮せずに」
 その笑顔を見ながら、門田は心からほっとする。この笑顔が見たかった。綺麗な人だと思ってはいたが、重い枷を外した聡寿の笑顔は、一瞬息を呑むほどに美しい。その気のないはずの門田でさえ心臓が高鳴る。
「私はいつもどおりの仕事をしていますよ」
 そう言いながら、門田は思いついた事を口にする。
「明日は志村先生のところへ血液検査に行ってきてください。会長にも、くれぐれにと言われていたんです。血液検査なら、一日かかりますね」
 定期的な血液検査を、聡寿は受けている。東京へ来てから、聡寿がまだそれを受けていないことを休みの理由にしてやる。
 聡寿はしばらく考えてから、小さく頷いた。
「ありがとう。そうしようかな」
 聡寿の答を聞いて、門田は病院への連絡のために立ち上がった。とたんに弟子たちに緊張が走る。
「続けていなさい」
 それだけを言い残して、門田は稽古場を出て行く。弟子たちが一様に大きく息を吐く。
「やっぱり怖いよね?」
 門田の稽古は厳しいと聞いていたけれど、その様子を見るようになったのは東京に来てからで、温和な門田しか知らなかった聡寿は、師という立場を忘れ、首を竦めることさえあった。
 聡寿の悪戯っ気な訊き方に、弟子たちは顔を見合わせ、力強く頷いた。
 
 
 玄関を開けると、真っ暗な室内。
 今日こそはゆっくり話せると思っていたのに、真央はまだ帰っていないようだ。留守番電話の点滅に気がついて、再生する。
『俺。ちょっと今日は遅くなる。先に休んでて』
 短いメッセージに、また溜め息が出る。どうしてこうもタイミングが悪いのだろうと思う。メッセージを消去して、誰もいないベッドに潜り込む。
 真央は普通のサラリーマンの時間に家を出て行く。そして帰ってくるのは、大抵九時を過ぎる。聡寿は反対に朝はゆっくりでいいのだが、帰宅が真央のそれよりももっと遅くなる。
 朝の早い真央に待たせるわけにもいかず、東京に出てきてから早一ヶ月にもなろうというのに、二人はすれ違いの日々を重ねていた。真央のように土日に休みを取れればいいのだが、聡寿は舞台があったり、その後のパーティや会食などで返って忙しい。
 日が無為に過ぎて行き、聡寿の溜め息は増えていっていた。
 起きて待っていようと思いながら、門田の言うように疲れていたのだろう、聡寿はそのまま深い眠りに引き込まれていった。
 
 ひんやりとしたものが足の先に触れ、聡寿はぴくりと肩を震わせ、目を覚ました。
「ごめん、起こしたか?」
 いつの間に帰ってきていたのか、真央がベッドに入るのに、足先が触れてしまったらしい。
 頬に触れようとする手を、聡寿は顔を背けて阻止する。
「聡寿?」
 真央の呼び声が、不安そうに響く。
「ごめんな」
 真央のこんなところは何も変わっていない。自分が悪いと思えばすぐに謝る。それが真央の長所でもあると思っているし、そんなところがとても好きなのだけれど。
「おやすみ」
 優しい声。ごそごそと動く気配の後、静かな寝息が聞こえる。少し酒臭いのは、接待か何かがあったのだろう。
 伏せられたまぶたは、疲れの色がにじみ出ている。そんなまぶたにそっと唇を近づければ、無意識なのだろう、真央が背中に腕を回し、抱き寄せられる。
 そして聡寿もそのまま、また眠ってしまった。
 
 
 伸ばした指先が、冷たいシーツを掻く。抱きしめていたはずの温もりが消えていると気がついたとたん、真央は跳ね起きた。
「聡寿」
 幸せな夢を見ていた? 聡寿が帰ってきてくれて、一緒に住んでいて、優しく笑ってくれて、それらすべてを手に入れた幸せな夢を?
 ぱちぱちと目を瞬き、室内を見まわす。ぼんやりとした頭はまだ覚醒の域には達しておらず、まだ夢の中にいるような、身体が浮いているような感じで、現実感が薄い。
 あれが夢だったらどうしよう。そう思うと、鳥肌が立った。
「立ち直れないかも」
 何度も夢に見て、目覚めるたび苦しくて。新幹線のホームに立ったこともあった。
 がたんと大きな音に、真央ははっと顔を上げる。ベッドを飛び下り、リビングに駆け込んだ。
「聡寿!」
 聡寿が床に座り込んでいた。その傍には、横倒しになった椅子が転がっている。
「大丈夫か?」
 聡寿は手にしっかり電球を握り締めている。リビングの電球が切れていたのは、夕べ知っていた。だから、明日になったら変えようと、真央も思っていたのだ。その電球を買ってきたのは真央だ。
 聡寿を抱き起こそうとして、真央はその肩に手を伸ばした。
「一人で起きれるよ」
 聡寿は真央の手を押し返す。
「だって、お前」
「大丈夫だから」
 そう言いながら、聡寿は立ち上がる。
 聡寿の態度に不機嫌のオーラを感じ、真央は言葉を捜しながら、視線を漂わせる。
「俺が替えるから」
 椅子を起こし、再びそこに乗ろうとする聡寿の肩を押しとどめた。
「いいって。もう少し寝てろよ。まだ早いだろ」
 時計はまだ六時を指している。確かに、真央が起きるには1時間ばかり早いのだけれど、すっかり目の覚めた真央は、それよりも聡寿の態度が気になって、眠るどころの話ではない。
「聡寿こそ、疲れてるだろ。こんなに早く起きなくても」
「今日は志村先生のところに行くんだよ。九時に予約を取ってある」
「どこか悪いのか、お前!」
「え? うわっ!」
 真央が驚いて聡寿の袖を掴んだものだから、椅子に立ち上がろうとしていた聡寿は態勢を崩し、再び床に向かってダイビングをする事になった。
 ぎゅっと目を閉じ、衝撃を覚悟していたのに、訪れたのは、やわらかな感触だった。けれど、かなり大きな音がしてのは確かだ。
「真央!」
 恐る恐る目を開けると、真っ先に見えたのは、真央の苦痛に歪んだ顔だった。
「真央」
 真っ白い顔。いくつもの管を繋がれた真央。あの日の真央の姿を夢に見て、何度も飛び起きた。そのたびに身体が震えた。
「真央」
 建築現場に出かけるのが好きな真央が、どうぞ傷一つ負いませんように。毎日それだけを願ってきた。今も、それだけを願っている。なのに……。
「いてて」
 真央は頭を左右に何度か振ると、聡寿の背中を抱きかかえながら、起き上がった。
「大丈夫か? 聡寿」
 なのに、口を開けば、まず聡寿の心配をする。
「ど、どこか、痛むか? そういや、何で志村先生のところへ行く? 具合悪いのか? 聡寿?」
 真央が尋ねる間に、聡寿は涙をこぼし始める。真央は慌てて、聡寿の肩をつかみ、顔を覗きこんだ。
「聡寿? どこか痛むのか? どこが悪いんだ?」
「もう嫌だ」
「聡寿?」
「もう嫌だ、あんた。僕がいないほうがいいよ」
 聡寿の言葉に、真央は真っ青になる。
「聡寿……」
 聡寿は呆然とする真央の手を解き、立ち上がった。
「聡寿、出て行くなんて、言わないだろ?」
 真央は座ったまま、聡寿を見上げる。
「だって、あんた、滅茶苦茶だ」
「東京には、いるよな?」
 真央が恐る恐る尋ねると、聡寿は派手な溜め息をついて、リビングを出て行く。
「聡寿!」
 呼び止めても、聡寿は寝室にこもり、出て来ようとしなかった。
 
 そろそろ用意しなくては、病院に遅れてしまう。家の中は静まり返っていて、聡寿は自分の溜め息さえ呑み込む。
 真央はもうとっくに出かけているだろう。聡寿は着替えるために、そろそろと寝室を出た。
「真央」
 ドアの前に、真央が座り込んでいた。
「あんた、会社は?」
「休んだ」
「なんで!」
「お前が病院に行くって言ってるのに、行けるわけないだろ!」
「何考えてるんや!」
「それはこっちの台詞だ!」
 ゆっくりと立ち上がり、真央は聡寿の腕を掴む。
「痛いやろ。離せ」
 普段のように冷静さで自分を隠せなくなった聡寿は、向こうの言葉で真央を責める。それがいちいち真央の癇に障った。
「病院につれて行く。結果を聞くまでは離さない」
「何言ってるんや。そんなん、一人で行けるわ」
「行かせられるわけないだろ!」
「だからあんたは、滅茶苦茶やって!」
 腕を掴んで引っ張る真央と、その手を引き剥がそうとする聡寿と、小さな諍いが起きる。
「どこが悪いのかくらい言えよ!」
「どこも悪くなんかあらへん」
「だったらどうして病院へなんて行くんだよ!」
「ただの検査やろ。いつもの血液検査や。あんたかって、行ってるやろ」
 同じ特殊な血液型を持つ者同士。定期的な検査は欠かせなかった。
 真央は大きく息を吐いて、聡寿の腕をようやく離した。
「今からでも遅くないだろ。会社に行けよ」
 聡寿の言葉に、真央は首を振る。
「もう休むって言ってある」
 真央は壁にもたれ、天井を見上げる。耳の横に手をやり、そこに髪がないことに気づく。
 すっかり消えていた癖が、聡寿と暮らし始めてから戻ってしまっている。それが気恥ずかしかった。
「俺が悪いなら直すから、出て行くなんて言わないでくれよ」
 聡寿の機嫌をとるためについ言ってしまった言葉。それが聡寿をより怒らせたことくらいは、真央にももうわかっていた。
「真央には悪いとこなんてないよ」
「だけど、何かが気に入らないんだろ?」
 そう言われてしまっては、返す言葉が無かった。
「言えよ。溜め込むなよ。俺、ずっと傍にいたいんだから」
「いないじゃないか」
「え?」
「傍になんていないじゃないか。朝は起こさずに行ってしまうし、たまに僕が早く帰ってても、起こさないように気遣うし。こうして話すことさえ久しぶりじゃないか。いつ傍にいるって言うんだよ」
「起こさないのは聡寿も一緒だろ。帰ってきたら起こせって言っただろ?」
 真央は聡寿の前に立ち、聡寿の髪に指先を絡ませる。
「だってあんた、朝が早いのに」
「同じ想いでいるのに、相手を責めちゃ駄目だろ?」
 そう指摘されて、聡寿は黙り込む。
「今度から、起こしてもいいのか?」
「だから、そう言ってるだろ」
「でも、それだけじゃないだろ? 他に何を抱え込んでいる?」
 髪で遊んでいた指先が耳朶を掴む。軽く揉むようにして、うなじに回った。
「真央が怪我をするなんて、嫌なんだ。さっきみたいに、僕をかばうなんて、絶対して欲しくないのに」
 優しい魔法がかけられる。言いたくなかった事でさえ、すらすら口に出来た。
「だから、一緒だって。俺も同じ想いだから、聡寿をかばいに行った。それに、聡寿に怪我なんてさせたら、俺は自分が許せない」
「だって、真央が怪我するなんて、僕も絶対嫌なんだ」
「そうだな、ごめん。今度からは気をつけるから、聡寿も危ない事はしてくれるなよ」
「またすぐに謝る」
 優しい非難。謝るくらいなら、危ない事などしないで欲しい。
 頭を引き寄せられ、胸に押し付けられる。
「ごめん」
 そうして降ってくる謝罪。抗議の変わりに、背中を叩き、抱き返す。
 頬に触れる吐息に、反対の頬を胸に摺り寄せる。
「聡寿ごめん。病院には行かせられそうにないよ」
「あとで一緒に謝ってくれよな」
「いいよ。いくらでも謝る」
 そう言うと真央は、聡寿を出てきたばかりの部屋に連れ戻した。
 
 ずっと隣に眠るだけだったベッドが、今は聡寿に安らぎを与えてくれない。
 熱く口接けられ、胸を大きな手が這い回る。
 真央の頬に添えた手が、そこにあるはずのものを掴もうとする。が、手は空を掴み、もどかしさに泣きそうになる。
 くちゅりと音を立てながら、真央の唇が離れて行く。そしてそのまま首から下へと、唇が下りて行く。
 散々玩ばれたむねを舐められ、唇が小さな飾りに吸いつく。胸で遊んでいた手が、聡寿の中心に下りて行き、そっと包み込む。
「んん……」
 暖かな、大きな真央の手。
 真央はその立ち上がった茎を包み、人差し指の腹で先端を刺激する。じわりと滲み出てきた雫で真央は更にそこを強く刺激する。
「あっ、ああ……」
 胸から顔を上げ、快感に身を委ねた人を見上げる。
 普段は表情を見せない瞳が潤み、頬が桃色に染まる。薄く開けられ熱い息を吐く唇から赤い舌が覗き、時折甘い声を出し、その甘い声で真央の名前を紡いでいる。
 眩暈のような快感に、真央は首を振り、激情を押さえようと努める。そうしなければ、聡寿を気持ちの赴くまま傷つけてしまいそうで怖かった。
「真央……」
 見つめる真央に気がついたのか、聡寿が両手を伸ばし、真央の頬を包む。そして、何かを探すように、耳の横を探る。自分と同じ癖を持つ恋人に、真央は胸が熱くなる。
 唇を重ね、舌を深く絡ませる。聡寿の中心を愛撫する手が、強く聡寿を擦る。
「愛してる」
 耳元に熱い息で囁かれたとき、聡寿は真央の手の中に果てていた。
 
 胸に真央の汗が滴り落ちてくる。熱い真央を飲み込み、聡寿は痛みの中から湧き起こる快感を掴もうとしていた。ぐい、ぐいと押し上げられ、衝撃を堪える。顔の横に突いた真央の腕を掴み、尚深く繋がろうとする自分に、聡寿は不思議な甘さを感じ取っている。
 けれど何かが足りないもどかしさ。その正体を掴もうとするより早く、快感が背筋を上ってくる。
「あっ、真央……」
「聡寿」
 名前を呼べば答えてくれる人がいる。その幸福に、身体の熱が頂点を迎える。
「ああっ……!」
 そして、胸に真央の頭を抱きかかえ、ああそうかと気づく。
 聡寿は微笑みながら、深い快感にまぶたを閉じた。
 
 まぶたの裏に差す光に、聡寿は目を開けた。そして目の前にある、優しい恋人の顔に、ふっと笑みを零す。
「おはよう」
 それまで聡寿の寝顔をずっと見つめていた真央は、突然の艶やかな笑みに、息を呑んだ。
「真央?」
 不思議そうに尋ねてくる聡寿は、それでもまだ微笑んでいる。
「ごめん、もう一回、いい?」
 え?と思ったときにはもう、真央は自分にかぶさっていた。
「ちょっ、ちょっと、待て。きついっ…………!」
 インターバルもとらずに抱きしめてくる真央をなんとか引き剥がそうとする。が、その手はすぐに愛しい人の頭を抱きしめる手に変わった。
 
 
 陽も傾く頃、聡寿はようやく起きだし、志村の元へ謝罪の電話を入れた。
「今日ですか? いいえ、門田さんからそのような電話は戴いていませんよ。それに、聡寿さんはお忙しいでしょうから、血液検査くらいなら、予約を取らずに都合のいいときにお越し下さいと、言ってありますが?」
 そんな志村の返事に、聡寿はベッドに突っ伏した。
「先生、何だって?」
 ベッドの隣で真央が心配そうに尋ねてくる。
「今日、予約は入ってないって」
「えー?」
 続けてかけた電話で、二人は門田の思惑にはめられた事を知る。
「聡寿さん、そうでもしなければ、お休みを取られなかったでしょう。それと、竹原さんに先日の京都でのお礼もしないといけませんし」
 電話を切った聡寿は真央を問い詰める。
「あんた、門田さんにお礼されるような事、何かした?」
「あ? 何のことかな? わからないけど」
 しらばっくれる真央を目を眇めて睨みつける。
「ほ、ほんとに知らないって」
 それをまったく信じない聡寿は、ぷいと視線をそらす。
 まったく、と真央は思う。
 よくぞ大学の四年間はこの表情を隠してくれたと思う。そうでもなければ、何を捨ててでも、聡寿を攫って破滅への道を歩いていただろう。そんな事をしていれば、今のこの幸せさえなかった。
「聡寿?」
 ご機嫌をとろうと見え見えの呼びかけに、ある思いつきを持って聡寿は振り返る。
「な、なに?」
 かまえる真央がおかしくて、聡寿はくすりと笑う。
「一つだけお願いを聞いてくれたら、何も聞かないし、許してあげる」
「ど、どんなこと?」
 聡寿の豊かな表情に、真央はどきどきとしながらその宣告を待つ。
 悪戯気に笑い、聡寿は真央の耳元で囁く。
 真央はそれを聞いて微笑み、返事の代わりに愛しい身体を抱きしめた。