出逢い

 
 東郷隼人は入学式が行われる体育館の最前列で、大変な緊張感を胸に座っていた。
 新入生代表としての挨拶をしなくてはならないからだ。
 膝の上には一昨日、学園長にチェックしてもらったばかりの原稿を乗せ、右手で軽く押さえている。特に注意や変更されるところもなく、そのまま読み上げればいいだけである。
 昨日の夜、何度も練習をした。そのまま読めば間違いなどない。
 中学ではクラス委員や体育祭実行委員長などもしていたので、全校生徒の前で挨拶するのも初めてというわけではない。
 けれど、とにかく緊張していた。
 やはり高校ともなると、こんなにも式一つが厳正に行われるのかと思ったのも緊張を高めた原因の一因である。
 入学式はまだ始まったばかりで、隼人が挨拶するのはまだ少しあとになる。
 緊張を少しでも和らげるために、周りに聞こえないように静かに深呼吸をしたときだった。
 隼人の横から潜められた声が聞こえてきた。
 隼人は代表挨拶があるため、新入生たちの最前列の一番端に座っている。その横ということは、教師などが新入生たちに向かう形で座っているはずである。
「九鬼、原稿、忘れた」
 少し高めの声は優しい響きを持っていた。それに答える声は、低い声で、こちらも囁き声である。
「お前、覚えているって言っただろう。だから原稿は必要ないって」
 多分、九鬼と呼ばれた人物だろう。軽い驚きと咎めるような言い方である。
「原稿、取ってきてくれないかな」
「冗談だろ。適当に話せ。それくらい簡単だろ」
「ダメ。原稿がないと思ったら緊張して話せない。取ってきて」
 ちっと舌打ちのような音がして、カタンと椅子の揺れる音がした。
 隼人はその声の主たちをそっと盗み見た。
 綺麗な人だった。
 原稿を忘れ、緊張していると言いながら、彼はまっすぐに隼人を見ていた。
 目が合ってしまう。
 するとその綺麗な人は隼人を見てにっこりと笑った。
 はっと息を呑むほど綺麗な人だった。
 式の緊張感も、壇上の学園長の挨拶も、何もかも隼人の頭から消えてしまった。
 きっと間抜けな顔でその人を見ていたに違いない。
 彼が隼人と同じ制服を着ていることにも気づかなかった。
 男子しかいない男子校で、同性に見つめられ思わず顔を赤らめてしまったことも、不覚だとは思わなかった。
 隼人が見つめると、彼は笑みを深くする。なので、隼人は慌てて正面を向いた。顔が赤くなったことを見破られたくなかった。
 学園長の挨拶が終わり、隼人の名前が呼ばれる。
 彼に見られていると感じるのは気のせいだろうか。自意識過剰だろうか。
 けれどそれを確かめるのは怖かった。その人の視線が別のところにあったとしたら、少なからずショックだろうと感じるだろうから。
 隼人は心の中で彼に見守られていると感じながら、原稿を読み上げた。緊張は最高潮に達していたが、何度も練習をした成果か、痞えることもなく、声が震えることもなく、読み終えることができた。
 隼人が壇上を下りるとき、その人の隣に素早く座る人影が見えた。さっと何かを渡している。多分、さっき話していた原稿なのだろう。
 だから、彼は隼人の方を見てはいなかった。
 隼人が席に着くと、『在校生歓迎祝辞』とアナウンスされた。
 横で人の立つ気配。
 彼が壇上に上がっていった。
 静かなざわめきが広がる。
 彼の秀麗さに皆が一様に驚いているのがわかるような囁きだった。
「新入生の皆さん、聖天王寺学園にようこそ。私達在校生は新入生の皆さんを歓迎いたします」
 彼の目は原稿を追ってはいなかった。
 後輩を見渡し、そして最後に隼人を見た。
 綺麗な笑顔に、会場は静まり返る。
 美しい容姿に、透き通ったような涼しげな声。
 最後まで原稿を見ることなく、彼は祝辞を述べた。
 挨拶の締めくくりに、彼は自分の名前を言った。
 生徒会会長の織原舜。
 誰もがその名前を胸に刻んだであろう。隼人もまた、しっかりと名前を覚えようとした。


「東郷君!」
 隼人は始業式の朝、体育館で呼び止められた。
 振り返ると舜がいた。
 周りの足が止まり、何事かと視線が集まり始める。
「東郷君、って呼びにくいから、隼人でいいよね?」
 ここでそれを断れなかったことで、のちのち、隼人は面倒に巻き込まれていくこととなる。
 けれど、誰があの無敵の笑顔の前で、それを断れただろうか。誰にも断ることなどできなかっただろうと隼人は何度も思い返す。
 波乱に満ちた隼人の学園生活が始まったのである。