狂騒の聖バレンタイン

 


「はーやとっ」
 教室の中に響いてきた声で、東郷隼人は椅子から立ちあがりかけた姿勢のまま、ぎくりと身体を強張らせる。
 たった今、授業終了のチャイムが鳴ったばかりである。出していた教科書とノートを鞄に入れて、今日は母親がお弁当を作ってくれなかったので、これから食堂へ行こうと腰を浮かせたばかりである。まだ、4時間目の英語教師でさえ、教室を出ていない。
 1階下の2年生の教室から、どうやったらこんなに早く来れるのだろうか。
 いや、それより、教室中に響く声で呼んで欲しくないかも。だって、ほら、みんなの視線が自分か、教室のドアのどちらかに注がれているではないか。教師も驚いて前のドアから、後ろのドアを見ているし。
 隼人は内心の驚きをなるべく顔に出さないようにして、立ちあがり、うしろを振り返った。
「お昼、食べに行こう」
 いや、あの。言いたい言葉は色々あったが、結局諦めて、隼人は急いで教室から出た。
「先輩……」
 ドアを閉めて溜め息混じりに呟くが、目の前の人はニコニコと自分を見上げている。いくら自分の背中でドアが開くのを阻止したとしても、窓や前のドアには、既にクラスメイトが興味深そうに、成り行きを見守っている。
 ……実は。
 バレンタインデーである本日、織原舜がチョコレートを隼人に持ってくるかこないかが、クラスメイトの間で、ちょっとした賭けになっている。
 もちろん、金銭的な賭けがばれてしまえば、大きな問題となるので、あくまでも遊びということでー。
 負けた者は、勝った者へ、今日中にチョコレートを買ってくること、というバツゲームになっている。
 男がバレンタインにチョコを買いに行く……。
 かなりのプレッシャーをクラスメイト達は背負っているのである。
「今日はなんだかみんな迫力あるねぇ」
 もちろん事情を知らないのもあるが、もともとの天然性も手伝って、舜はニコニコと見渡している。
 たおやかな外見を裏切って、なかなか、物事に動じないキャラである。
「みんな先輩からチョコが欲しいんじゃないですか?」
「え、そうなの?」
 そんなわけあるかい! と思ったのは隼人だけで、成り行きを見守っている同級生達は心の中で大きく頷いた。
 貰えるものなら、貰いたい。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
 え??????
 クエスチョンマークが全員の頭の中に浮かんだ。
「待っててって言ったか?」
「う、うん」
「だ、誰が待つの?」
「東郷か?」
「俺らか?」
 一言にして教室の中は興奮の坩堝である。
 一人廊下に取り残された形になった隼人は、呆然と立ち尽くす。
 …………どうすればいいのだろう。
 できることなら逃げ出したいが、「待ってて」と言った人はすぐにも戻ってくるだろう。だが、手ぶらで、とは考えにくい。
 固まっていると、またパタパタと廊下を駆けてくる姿が見えた。手には紙袋を持っていて、可愛らしいラッピングが見え隠れしている。
「どうぞ」
 ど、どうぞ、……って。
「どうしたんですか、あれ」
 舜が差し出した袋の中身は途端に奪い合いになっている。
「え? 隼人は通学途中で貰わなかった?」
「え! あれ、先輩、貰い物なんですか?」
 いや、それはそうだろうとは思っていたけれど。
「毎年、食べるのに困ってたんだけど、助かっちゃうな」
 けろりとして言う人は、相変わらず綺麗な微笑を隼人に向ける。
「だ、だって、先輩、お返しとか、どうするんですか?」
「ホワイトデーは学校が休みなんだよね」
 …………おいおい。
 いや、こういう人だよな。
 わかってる。わかってるんだけど……。
「もしかして本命チョコもあるんじゃないですか?」
 ちょっと……、いや、かなりむっとする。
「そういうのは断ってるし、みんな恋人がいるって、知ってるよ。だから、あれはみんな義理なの」
 今、さらりと言わなかったか?
「恋人がいるって知ってる……?」
 確かめる自分がバカなのだろうか。わかっている、わかってはいるのだけれど。
「だって、全部それで断ってるからね」
 そうだよな。告白されないわけがない。
 自分が今まで確かめなかっただけで、この綺麗な人が、女性にもてないわけがない。
「それより、早くお昼食べに行こうよ。隼人、お弁当?」
 教室の中のじゃんけん大会の声を背中に、隼人は溜め息をつきつつ、歩き出す。
「隼人の分はね、別にちゃんと買ってあるんだよ」
 ひっそりと囁かれ、隼人は驚いて舜を見た。
「え!?」
「だって、隼人のことだもん、チョコレート、全部返しちゃってるんじゃないの?」
「…………ぅ」
 すっかりお見通しということである。
「だからね、一つもなければ、隼人、お姉さんやお母さんにからかわれちゃうでしょ? だから、大本命チョコだよ」
「も、もしかして、先輩が買ったんですか?」
 この時期のチョコレート売り場は、男性には踏みこみがたいものである。
「うん。どうして?」
 あぁぁ……。
 まだ、舜の総天然色に慣れきれない隼人にとって、思わずしゃがみこみたくなるような、軽やかな発言である。
 救いは、今の発言を、チョコ争奪戦に夢中のクラスメイトに聞かれなかったことだろうか。
「帰りに、チョコレート、取りに寄ってね」
「…………はい」
 
 まだまだ甘かったと隼人が知るのは、手渡されたチョコを見た時と、それを母親と姉に発見され、「とうとう恋人ができたのね」と騒がれ、しつこい質問攻めに自分の部屋に篭城した時である。