道路を走っていても、どこに向かっているかはわからなかったのだ。
 それが道も標識もない空だと、どこを飛んでいるのかなど、わかるはずもなかったが、日本人なら誰もが見間違うことのない山影が見えてきて、彰紘はぽかんと口を開けてしまった。
「富士山だ……。すげー。こんな角度から、はじめて見た」
 新幹線から、もっと高度の上空を飛ぶ旅客機からは見たことはあるが、真横から見るという経験をしたものは少ないだろう。
 彰紘は暢気だったが、加賀は富士の山腹が近づくにつれ、緊張の度合いを高めていた。
「少し揺れるかもしれない。しっかりベルトを締めて、姿勢を低くしていろ」
 ま、またか!? と思いながら、この大空で何かが起こるとは思えなかった彰紘だが、飛行機が大きく傾いて高度を下げた時には、恐怖の悲鳴をあげていた。
「やめろー!!」
 だが、その叫び声も、真下で別の飛行機の轟音と、圧縮した空気の波動を感じて、頭を抱えて目も口もぎゅっと閉じた。
 もはやこの飛行機は落ちるのかと思うような浮揚感が続いたかと思うと、ドンと音のするような重力を感じた。
 身体は急流に浮かぶ木の葉のように激しく揺れ、自分が上を向いているのか下向きになっているのかもわからなくなった。
 このまま落ちると思った。やっぱり加賀の方が危険だったと、今更ながら悔やんだ。
 飛行機の無線が何かを言っているが、加賀も答える余裕はないようだった。
 身体は上下左右、あらゆる方向にシェイクされ、気分の悪さは頂点を越して、吐くことすらも乗り越えたような最悪さだった。
 いったいどうなっているのかと、そろりと頭を上げると、真横を飛行機が横切っていった。
 その機体の鋭い角度に、圧倒的にこちらが不利だとわかった。見なければ良かった、そうすれば、もう少しの間くらいは望みを繋げられたのにと悔やんだ。
 ヒュンとまた角度を変えて、飛行機が高度を下げ、そのまま回転する。
 一度は突き放した距離が、また詰められているように見えた。
 どこかにおろして……。そう祈った彰紘の目に、富士の山麓から近づいてくる別の機体が映った。真っ直ぐにこちらを目指してくる。
 あぁ、もうだめだ。一つ……二つ……三つ……三つ目の機体を数えたところで、彰紘は心の中で呟いた。もう二度と献血なんてしませんと……。
「うわーーーー!!! だめだってー!」
 なのに加賀はその三つの機体に向かって真正面から突っ込んでいく。やけくそで自殺でもするつもりかと思った。加賀がとうとう狂ったとしか思えなかった。
 けれど、三つの飛行機は彰紘たちの飛行機を追い越し、羽を振って、彰紘たちにアタックしてきた飛行機に向かって警告を発した。
 それでもこちらに突っ込んでこようとすると、今度は煙の尾を引くミサイルを発射した。後で聞いたところによると、それはただの警告弾なのだそうだが、その時は本物のミサイルだと思った。
 相手もそう思ったのか、警告弾を避けると、飛行機は遠ざかっていった。
 それを見届けて、加賀は機体を水平飛行にしてくれた。
「大丈夫か?」
 加賀の声に彰紘は力なく首を横に振る。
「もう、死んだ」
 加賀が軽く笑い声を立てたとき、無線から音声が聞こえてきた。
『ずいぶん遅かったな』
「よく言うよ。援軍の一つも出さないで」
 気安そうな口ぶりに、相手が加賀の親しい人だとわかる。
『だから来てやっただろうが。そうだ、お前さんの始末書が厚木に到着するまでに何枚になるか賭けているんだが、今の時点で何枚くらいだ?』
「ゼロに決まっているだろう!」
 彰紘たちのセスナの左右と後ろに、ぴたりと戦闘機がついてくれた。どうやら護衛のようだった。
『またまたー。ずいぶん派手にやっているって、報告は来てるんだぞ。あ、そうだ、喜多田彰紘君、ようこそ富士部隊へ。我々は君を歓迎します』
 突然話しかけられて彰紘は戸惑った。相手の名前すらもわからない。
「あ、あの、助けてくれてありがとう」
 ぎこちなく礼を言うと、相手はマイクの向こうで爆笑した。
『なるほどねー。わかった、引き続き俺が護衛に入るよ。どうだ? 加賀より頼りになりそうだろう?』
 頷きかけて、加賀が振り返っているのに気がついて、慌てて首を竦めた。
『加賀が傍にいると答えにくいか』
 見透かしたような言葉に、加賀は乱暴に無線のスイッチを切った。


 富士の自衛隊訓練所で、無線で話しかけてきた岩元という加賀の仲間に紹介された。
 そこからはヘリコプターに乗って厚木に向かうことになり、またあの三機がヘリの護衛をしてくれた。
「厚木に行ったら、安全なのか?」
「まだそこから移動してもらうことにはなるが、とりあえず、今の時点で君はもう安全だと思っていい」
「移動って……どこへ?」
「着いてから説明するよ。それで君が嫌だと言えば、無理に移動したりしない。約束する」
 不安そうに尋ねる彰紘を、安心させるように答える加賀に、信用してもいいと思った。
 かなりの無茶をする加賀に、だからこそ、約束を守るためなら、また無茶でも何でもしてくれそうだと信じられた。
「ずっと俺と一緒にいてくれるんだよな?」
 上目遣いで伺うようにそろりと聞くと、加賀は唇を引き上げて笑った。
「君が望む限りは一生でも」
「そっ、そこまでは、頼んでねーよ」
 どぎまぎしながら、彰紘はぷいと横を向いた。

 厚木基地には、自衛隊の高速輸送機が待機していた。
「今度はこれに乗るのか? もうここでいいじゃんか」
「そういうわけにはいかないんだ。もっと安全な場所に行って欲しい」
 行ってくれ、嫌だと押し問答をする二人を岩元がニヤニヤ笑いながら見ている。
 彰紘も、もう行く気にはなっていた。研究に協力するつもりもあった。
 けれど、散々嫌だといった手前、すぐにいいよというのは抵抗があったし、それで加賀がどこかへいてしまうと困ると思っていたので、できるだけ焦らしてやろうと考えていた。
「どこへ行く気だよ。それくらいは言えよ」
「ナサだ」
「ナサー? ナサって……ええっ? それって、あれ?」
「エヌ・エー・エス・エー。ナサ。National Aeronautics and Space Administration.アメリカ航空宇宙局」
「……じゃあ、もしかして加賀さんの言ってたナスダって……」
「National Space Development Agency.日本宇宙開発事業団だが?」
 妙に綺麗な発音をカタカナに直せないことにほっとする。むしろ意味がわからないほうが嬉しいのに、わざわざ加賀が日本語の正式名称まで教えてくれるので、聞き取れなかったことにできないのが悲しい。
 世界規模の研究だと言われていたが、もちろん実感など微塵もなかった。
 どこか別世界の出来事のように思っていた。
 絶句する彰紘の前に、人の良さそうな初老の紳士が数人を引き連れて現われた。
「そうだ、紹介しよう。内閣総理大臣の小渕敬三さんだ。これで総理の名前も顔も覚えたな?」
 彰紘は今更ながら眩暈を感じた。逃げ出したかった。だが、鉄壁の厚木基地から誰が逃げ出せるだろうか……?



つづきはまたいつかのここでおわり