文月小夜

 
   海の中へ


 手を繋いで泳ぐ二人の前を、熱帯魚の群れが優雅にひれを動かせて横切っていく。
 その姿にしばし見惚れていると、京が右手前方を指差した。その方向へ視線を移すと、ゆっくりゆっくりとマンボウが泳いでいくのが見えた。
 ぷくぷくと泡が天へと昇っていく。時に空を泳いでいるような不思議な感覚。
 大きな棚のような岩場を見つけ、そこに二人で座って見上げると、雲の代わりに青い波紋が光に揺れて、キラキラと天を彩っている。鳥ではなく、魚が二人の視界を飛んでいく。
 京と休みを合わせて南の島へ旅行にやってきたのは、主にこのダイビングが目的だった。
 いつも自分と出かけていても、好きなことを我慢してくれているような気がして、思い切ってダイビングを教えて欲しいと頼むと、可愛い恋人は驚きながらも、嬉しそうに頷いてくれた。
 もうそれだけで頼んで良かったと感じたのだが、こんな美しい海の世界を見せられると、来て本当に良かったと思った。
 京がトントンと時計を指差す。もう引き上げる時間なのだ。初心者がすぐに長い時間を潜るのは、よくないことなので仕方がない。
 また手を繋いで泳ぎながら、チャーターしたクルーザーを目指す。フィンを蹴って空を目指し、ぽっかりと海面に顔を出す。
 クルーザーに上がると途端に装備が重く感じられる。
「楽しかった」
 どうだった? と目で尋ねる京に、拓也は心から喜びを伝えた。
「本当に素敵な世界だった。やみつきになりそう」
 デッキに二人並んで座る。
 二人を収容したクルーザーは、ぐるりと入江を回りながら、ハーバーを目指していく。
「僕につき合わせてて、京は思う存分潜れないよね。ごめんね」
 拓也の言葉に京は首を横に振る。
「一緒が……嬉しいから」
 小さな声だったけれど、間違えずに聞き取った拓也は、細い身体を抱き寄せた。
 海の中にいた身体はまだ冷たく、髪も濡れたままだ。
「拓也さん……」
 操縦席が気になるが、拓也は小さく笑うだけで、腕を離そうとしない。
「見えないよ」
 デッキは操縦席の足元にあり、覗き込まない限り見えたりしない。クルーザーを動かしている操縦者は、操舵と計器の確認で忙しいはずだ。
 頬に唇を寄せられ、優しいキスを受けると、今度は沈み始めた太陽が気になる。
 まだ外は明るいのだ。
「海の上に誰がいるって言うの?」
 そんなことを気にする京に、拓也の方が笑う。
「そうだけど……」
 波の音と、クルーザーのエンジンの音だけが響く船上で、二人はゆったりと抱き合った。
「海の中だと、京が恥ずかしがらずに手を繋いでくれるのが嬉しいな」
「だっ……て、……それは」
 拓也の安全のため。その答えをわかっていながら、拓也は一緒に海の中を泳げた喜びで、少しばかりテンションが上がっていた。
「バディっていうのはいいね。京との結びつきが強くなったように感じる」
「……うん」
 京の髪を乾かすように手を動かしながら、胸に抱き寄せる。今度は京も抵抗なく、もたれてきた。
「今まで京とバディを組んだ人たちに妬いてしまいそうだ」
「……そんな……」
 彼らと拓也では全然違う。
 それは拓也もわかっているのだろう。言葉ほどには拓也の声に焦りは感じられなかった。
「また連れて行って欲しいな」
「うん……」
 拓也が望むのならいつでも。今すぐには無理だが、拓也を夜の海にも招待したい。
 京の青いウェットスーツのファスナーを下げる。
「拓也さん……」
 戸惑いながら拓也を見上げると、唇を盗むように重ねられる。
 暖かい手が胸元に忍び込んでくる。こんな場所で、恥ずかしいと、拒絶したいのに、その手の暖かさは冷えた身体にあまりに心地いい。手の持ち主が拓也だというのも京の理性を次第に奪っていく。
 肩を脱がされ、太陽の熱と拓也の温もりを同時に感じる。
「拓也さん……」
 不安げに見上げる黒い瞳に、拓也は微笑みかける。床に置いていたバスタオルを拾い上げ、京の肩に被せた。
「ちょっとね、遠回りを頼んだんだ」
 なんのことだろうと京が首をかしげると、拓也はまた小さなキスを落とす。
「ほら、ここからの夕陽が一番綺麗なんだって」
 船をチャーターするときに仕入れた情報で、拓也はそのポイントに行ってくれるように操縦者に頼んでいた。
 入江の中から広がっていく海原。その青い水平線が徐々にオレンジ色に染まっていく。
 最後の炎を燃え上がらせるように、太陽が真っ赤になり、空も海も、すべてを自分の色に染めて、海の中へと姿を消していく。
 無言でその一瞬を見つめていた二人は、感動の溜め息を同時に洩らし、顔を見合わせた。
 薄闇に色を変え、一つ、二つと灯っていく小さな煌めきの下、無言の誓いをこめて唇を重ねた。
 これからも……ずっと、一緒にいようねと、言葉にはしなくても想いは通じ合っていた。




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