文月小夜

 
   Shock


 弟に好きな人がいることは知っていた。
 その人に想いが通じた事を拓也に教えてくれたのが、弟の親友ではなく、母親だったことがまず一番の驚きだった。
「勝也に恋人ができて、今度の日曜日に連れてくるのよ。拓也も家にいる?」
 それを聞かれた時、風呂上がりでビールの缶に口をつけたばかりだった拓也は、思わず吹き出してしまった。
「もう、自分で拭いてね」
 母親はあっけらかんとして、息子にタオルを差し出した。
「勝也に恋人って……、……誰?」
 何故だか真っ先に思い浮かんだ顔が、自分の恋人だというのが、2番目のショックである。
「あら、知らなかったの? 朝比奈先生よ。勝也の担任の」
 勝也の担任の先生ということは、京の担任の先生でもあるということで……。勝也の相手に3番目のショック。
「京君から聞いてない?」
 ……聞いてないよ。
 言いかけた言葉を飲み込む。
 そう、直接は聞いていないけれど、それでここ最近感じていたことの説明がついてしまうのだ。
 2年生になって勝也と同じクラスで良かったと言っていた恋人が、最近は少し沈んだような感じだった。
 自分が何か不安がらせるようなことをしたのだろうかと顧みるが、これといって思い当たることはなかった。
 時に泣き出すのではないかと思えた瞳に、「どうしたの?」と尋ねても、はっきりとした答えがなかった。
「で、どうするの?」
「今度の日曜は出かけるよ。もう約束してあるし、予約も取ってあるんだ」
「そう。まあ、最初から大勢いると朝比奈先生も緊張なさるだろうし」
 母親はそう言うと、とても楽しそうに当日のメニューを考え始めている。相手の家がレストランをしていて舌が肥えてるだろうから、大変だわと呟いている。
 恋人の落ち込みの原因に……、いや、恋人がそれを淋しいと感じていることにショックを受ける。
 拓也はビールを飲みながら、少し重くなった自分の気持ちに……最後のショック。
「勝也の奴……」
 当然、恨みは恋人ではなく、弟へ……。
 拓也は部屋へ戻り、週末のデートの約束を確認するために、恋人へと電話をかけた。
 
 今までにも数度、ドライブで訪れたこの海は、二人にとっての思い出の地でもあり、京にとってのお気に入りの場所でもある。
 ぼんやりと海を眺める京の肩をそっと抱く。
「拓也さん……」
 人目を気にしてか、京がそっと離れようとするのを許さず、拓也は強く引き寄せた。
「誰もいないよ。まだ少し、寒いでしょ」
 言葉は優しいが、拓也は自分でも冷たい言い方だなと感じていた。
「……うん」
 拓也に怯えたのか、本当に寒いのか、京が少し頭を拓也へと傾ける。
 肩にかかる京のまっすぐで絹糸のような艶やかな黒髪をそっと撫でる。
 五月末の夕刻の海は、吹きつけてくる海風が冷たく、厳しい。
 楽しいはずのデートが、どこかちぐはぐで、先ほどから京がどうすればいいのかと不安な様子を見せている。
 それがわかっていながら、拓也はつい意地悪をしてしまう。
 こんな思いを……僕はここ一週間ほどしていたんだよと、子供じみたやつあたりをしたくなる。
 けれど、まっすぐに自分を見つめる黒曜石の瞳に、片意地が脆くも崩れる。
 こんな目をさせたかったのではない。
 拓也は微笑んだ。いつもの微笑みで。
「少し寒いね。風邪を引いてしまうよ。車に戻ろう」
 自分でも驚くほど甘い声が出る。
 抱いていた肩の強張りが解ける。
「うん……」
 抱き寄せ歩き始めると、ようやく名残惜しそうに、京が広がる海を振り返った。
 
 
「あ……、ここ」
 予約を入れてあるからと拓也が車を入れたのは、“あの”レストランだった。
 それを思い出したのか、京の頬に朱みがさす。
 二人がはじめて結ばれたオーベルジュ。女の子のようにそれを特別神聖視するわけではないけれど、思い出の場所には違いない。
 戸惑う京を微笑みで促して、フロントへ入る。
 少しおしゃれをしてきてねと拓也が言った意味がようやくわかったのか、京は落ちつかなそうにしながらも、自分の服装が場違いではないことに安心しているようだった。
 拓也は大丈夫だと微笑み、ウェイティングルームに京をエスコートしてくれた。そのあとでこの前は体調を崩したために入れなかったレストランのほうへと足を踏み入れる。
 案内されたテーブルは、見事なロケーションだった。
「……ぅわ」
 京が腰を降ろすのも忘れて、窓の外に目を奪われている。
 日が沈み始めて、辺りはオレンジ色に染まっていた。窓のすぐ下はもう海で、岩も波飛沫も赤みを帯びて、レストランの乳白色の光をきらきらと跳ね返していた。
「座って。景色は逃げないよ」
 拓也が笑いを噛み殺して言うのに、京は真っ赤になって、慌てて腰を下ろす。
「当店で一番展望の良いお席でございます。皆様最初は、会話も忘れておしまいになるほどですよ」
 ウェイターの取り成しに拓也は微笑みながら、メニューを受け取った。
「何を食べたい?」
 何を食べたいかと聞いても、京は上の空のようで、メニューに目を落としては、すぐに海を見やる。
 拓也は苦笑して、シェフのお勧めのディナーを頼んだ。
「今、見てきたばかりなのに」
 拓也が言うと、京は慌てて振りかえり、小さな声でごめんなさいと謝った。
「でも、そんなに気に入って貰えたら、連れてきてよかったなぁと思うよ」
「ありがとう、拓也さん」
 素直な礼の言葉に、拓也は笑みを深くする。
 だから可愛くて仕方ないのだ。
 
 食事は蕩けるように美味しくて、だんだんと夜に溶けていく海は綺麗で、まるで魔法にかけられたような気分で、食後のワインを二人で傾ける。
「拓也さん、……飲んで大丈夫?」
 今更のように京が気がついて心配すると、拓也は少し身を乗り出して、「泊まっていこうよ」と囁いた。
「……うん」
 そう、魔法だったかもしれない。
 拓也の手によって、最愛の恋人に甘い魔法がかけられたのだ。
 
 レストランからの景色も綺麗だったが、部屋からはまた違ったシーンが目の前に開けていた。
 向こうが岩に打ちつける波なら、こちらは砂浜に打ち寄せる細波。
 波間が星の光を散りばめたように、煌いていた。
「……きれい」
「僕の恋人はもっと綺麗だよ」
「……ぅ。……もう」
 京は拓也に誉められて、どこを見ていいのかわからなくなる。どうしてそんな言葉がすらすらと出てくるのか、いつも不思議に思うと同時に、慣れない自分がおかしいのかとも思ってしまう。
 頬が熱くなって、京は横に並ぶ恋人から顔を隠す。
「今日一日は忘れていられた?」
 そんな言葉に、意味がわからないと京が振り向いた。京自身は自覚がなかったのだろう。
「今頃は勝也が恋人を家に連れて行ってるんだって」
 あっと京が唇を開いた。
「淋しい?」
 強い視線で見つめられ、京は肩を竦ませた。
「僕がいるのに?」
 その言葉に、京は首を振る。
「違う……」
 本当は勝也の気持ちが報われて嬉しいんだと……、そう思おうとしていた自分に気がついた。
 嬉しいのには違いがないけれど、同時に何か一つなくしたような気持ちになったのは確かで。
「違うよ」
 拓也のはじめて見せるような怒りの視線に、京は怯えてしまった。
「俺、……学校ですごく勝也に頼っていたんだなって……」
 頼る縁をなくしてしまったような不安は、勝也の幸せを喜んでやりたいと思うのと同じくらい、京の心の中に存在した。
「これから……どうすれば、いいかな、……なんて」
 友人関係も希薄で、一人でいることが特に苦痛ではないが、勝也がいると思うだけで心強かったのだ。それがもう……、担任の教師に遠慮しなくてはならないのは、京にとってもきつい事だろうと拓也にもわかる。
 今にも泣き出しそうな京の様子に、拓也は優しく頬に手を添える。
「恋人ができたからって、勝也は京の親友でしょう。京と僕が恋人になって、勝也は何か変わった? これからも変わらないと思うよ」
「拓也さん……」
 京が名前を呼ぶと、拓也は瞳の中の怒りを消し、温かいいつもの目が京に向けられた。
「もっと呼んで……」
 京はどうして?というように首を傾げる。
「京の前にいるのは誰?」
「拓也さん」
「もっと……」
 ようやく拓也の言わんとしていることが通じたのか、京はその大切な名前を繰り返した。
「拓也さん……、拓也さん……」
「京……」
 両手で抱き締めると、京はしがみついてきた。
 これほどまでに怯えさせてしまった事を後悔しながらも、それでも確かめずにはいられなかった。
 京が自分だけを選んでくれるのだと。
「愛してるんだ、…………京」
 俺もという答えを聞きながら、拓也は京を抱き上げた。
 軽いキスを交わしながら移動する。
 ベッドの上に京をそっと降ろし、見つめあった。
「もうすぐ誕生日だね。何が欲しい?」
「いらない……何も…」
「駄目だよ。言ってくれなきゃ」
 拓也が微笑む。その美しい表情を京が見上げる。
「拓也さんと一緒……にいられたら……いい」
 京の答えに拓也は本当に嬉しそうに笑う。
「わかった。だから、それまでに京は機嫌をなおしてね」
 ちゅっと頬にキスをされる。
 京はもう機嫌は悪くないのにと思いながらも頷いた。
「愛してるよ、僕だけのものだ」
 熱い囁きと共に、深いキスを交わした。




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