SELENE

Disaster<災難>




 行きつけのダイバーズショップの頼みで、京が体験ダイビングのサポートをしたのは先週の末の事だった。
 何日かして、またショップへ行くと、その時教えたビギナーの男の一人が来ていて、やたらと馴れ馴れしい様子で京の傍へと近寄ってきた。
「こんにちは京くん! 久しぶりだね! 会いたかったーーーーーーー!!」
 場をわきまえない大声に、思わず京の腰が引ける。
 顔や名前を覚えるのは、かなり苦手な京だったが、この男は”肌に合わない”という部分で妙に印象的だったので、なんとなく顔を覚えていた。
 いつもならば完全に無視する所なのだが、知り合いの店の中での出来事でもあり、仕方なく会釈を返すしかない。勿論無言で軽いものだったが。
 しかし、その後のその男の様子がどうにも不気味で、嫌な予感が背筋を走る。上手くは言えないが、生理的に好かない、厭な感じとでも言えばいいのだろうか。本能的に、これ以上近寄らないほうが無難と判断した京は、これ以上目を合わせず引き上げようと決めた。
 決して急ぐ用事では無い事を理由にして店長に挨拶をし、早々に店を出ようとしたまさにその時だった。
 男があたりを構わない大声で、京を引き止めた。強引に腕を引かれ、ひっくり返る勢いで振り向かされる。
 良く解らないまま、なんなんだと驚いていると、向き合うまま両腕をつかまれ、唾のかかる距離に顔が迫ってくる。
「俺と付合ってくれっ!」
 目の前で叫ばれた言葉の意味を理解できず、京はそのまま硬直してしまう。
 店内に居た客も、何事かと一瞬で静まり返り、大声の主に視線が注がれる。
 妙な静寂が周囲を圧迫する中で、BGMののんびり浮かれたハワイアンが一層奇妙さに拍車をかけていた。
「………………どこに?」
 そう答えた京を馬鹿にした者には、拓也の右足が飛んでくるだろう。
「いや! その付合うじゃなく! あの! 俺と『お付き合い』してくださいって……その!」
「……俺、男」
「もちろん! 知ってる! でもお願いだっ! ……つきあってください!」
 顔に唾がかかって気持ち悪い事極まりない。最悪の気分を隠す気もないが、返事をしてやる義理も無いので、京は強引に腕を振り解こうともがいた。
 何故男が男に向かってそんな事を言うのかと、不思議に思う反面、自分の身に置き換えれば、拓也との事もあるので、まったく解らない訳では無いのだが、京にまったくその気がないので、迷惑である事には変わりない。
 ――どうしてこういう………、………あぁ面倒。
 こういう手合いは相手にしないことにしているが、この男は諦めることを知らないのか、京の腕を強く掴んで放そうとしない。
 恐らく、京の顔は今までに無いほど不機嫌極まりなかったのだろう。ハッと我に返った店主が慌ててその男を引き剥がし、暴れる男を他の従業員が取り押さえてくれた。
「……どうも」
 これ以上ここに居ても良い事だけはないだろう。店主に小さく礼を言うと、京は一度も後ろを振りかえらずに店から出た。

 家に帰り上着を脱ぐと、ポケットからハラリと何かが落ちた。
 何処にでもありそうな小さな白いカード。
「うっ」
 失敗だった。見なければよかったと、本気で京は頭を抱えた。

---初めて潜った海の美しさを
---俺に教えてくれたのは
---その海より美しい君だった
---もし、俺の希望が叶うなら
---君との未来一緒に海に潜りつづけよう
---君を姫抱きで攫いにゆくよ
---待ってて僕の人魚姫

「馬鹿野郎。全部読んでしまったじゃないか」
 全身を鳥肌が覆う。
 勘弁してくれと、京は悪寒に背筋を震わせた。

 あまりの気持ちの悪さに、その日は布団をかぶって寝てしまった京だが、良く考えるとこのままでは非常にまずいような気がする。
 とりあえずダイバーズショップに電話をかけて、その男の事を聞いた。 本来なら教えてもらえない情報なのだが、あの異常さを目の当たりにした店長は、特別にと教えてくれた。
 名前は棚部淳。住所はここから駅6つばかり先。年齢28才。会社員。独身。保険記載の情報だから間違いはないだろう。
 体験ダイビングの後、すぐさま装備を一気に買い揃え、会社帰り毎日ショップへ入り浸っていたようだ。
 京がいつ来るかとも聞いていたらしいが、まさかこんな真似をするとは思ってもいなかったというが、それは当然だろう。普通じゃ考えられ無い行動だ。
 昨日、ごみ箱に捨てたカードが目の隅に入る。

---君を姫抱きで攫いにゆくよ
---待ってて僕の人魚姫

 鳥肌。
「なにが『姫』だ……」
 大体姫抱きってなんだろうと、首を傾げる。
「ちょっとまて。あれか? 男が女をこう横抱きに…… 」
 嘘だろう? と京は真っ青になる。 本気でやめてくれと願う中、これからどうしたらいいのか、京は懸命に考えた。

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「俺の事姫ダッコできる?」
 朝一番、そう勝也に聞くと、いきなり3Mくらい遠くに離れていった。
 そんなにビックリしなくても良いだろうと思うが、脈略が無い事は確かだ。
 状況を説明しようかと思うが、思い出すのも不快だし面倒くさい。何より一つの事が解れば問題は解決しそうなので、あまり余計な事は言いたくなかった。
「俺、重いか。難しい?」
 物理的に問題になりそうな部分を聞いてみる。
「お前が重いとかって問題じゃなくて! タクちゃんにやってもらえよー!」
――拓也さん。
 京は恋人の名前を頭に浮かべてみた。その瞬間、駄目だと首を振った。恥ずかしすぎる。
 それに、京には試したいことがあるので、恋人には少し頼み難い。ここは親友でもある勝也に、納得ずくで協力してもらうのが一番ありがたいのだ。
「勝也がいい」
「おい……、カンベンしてくれよ」
「駄目か?」
「駄目って言うか、だからそういうのはタクちゃんに言えって」
「…………いや、それならいいや。他の人……さがす……から」
 誰に頼もうかと悩む。本気で誰も思い浮かばないが、勝也が無理ならどうしようもないので、必死で探すしかない。
「何いってんだよ。どうしちゃったんだよー京」
「んー……」
「おいおい」
 黙ってしまった京に、勝也が心配そうな顔をするので、なんだか申し訳ない気分になってくる。
「してくれないんだったらいい。他の人……探すから」
 これから頼む人を探すのは、容易ではないだろうが仕方が無い。誰が居るだろう、とクラスを見渡し、廊下を覗く。
「うわー! ちょっと待て! あー……うー……どうしてもしてほしいのか?」
 うん、と頷くと、目の前の友人が本気で困った顔を作る。
「絶対に?」
「絶対」
 嘘は言っていない。
「よーし解った、してやる。そのかわりタクちゃんの前で『だっこ』って言うんだぞ!?」
「解った」
「ちょっ……! 即答するなよー!」
「なんで?」
 友人の苦悩が解らない、天然の京に、勝也に本気の泣きが入る。
「あーもー! おもいっきり可愛くいうんだぞ? 『だっこ』って」
「いいよ。可愛く言えたらしてくれるんだな」
「――――京〜〜……」
 なんで勝也が泣くのだろうと、京は首を傾げる。『可愛く』というのが上手く出来るか不安だが、姫ダッコはしてもらえるようなのでありがたかった。
「助かる。勝也」
 兄の逆鱗に触れる恐ろしさに震える弟を知らず、罪作りな兄の恋人は、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「なぁ、なんでそんなにしてもらいたいんだ?」
 厳密に言えば、特別してもらいたい事ではないので、京も言葉を濁す。
「ちょっと……ね」
「なー、なんか悩みがあるならタクちゃんに言えよ」
「……悩みなんかないよ」
「なんなんだよー」
 訳が解らないと、勝也が困ったようにこめかみを掻く。
「あー、……うん。……この間もらった手紙に、俺の事『姫抱きで攫いたい』って書いてあって」
「おい! おーーーーーーーい! 京〜!! なんでそれを早くいわないんだよーー!!」
「いや、でも、まだその人なにもしてこないし……」
「ダメだって! そういうやつってまともに話し通じないの多いぞ?」
「そう……だよね。……いや、一度その姫ダッコってのをされてみれば、どうやって逃げられるかとか解ると思って」
「京〜……、たのむ……」
 本気でガックリうなだれる親友に、京はどうしたのかと顔を覗きこんだ。
「……やってくれる?」
「だから、そういうのはタクちゃんに相談しろって。あの人空手やってんだぜ? 良い方法教えてくれるって」
「……………………空手」
「そうだよ! だからさっ」
「恥ずかしいからヤダ」
「京〜!!」
 キスしてくれとか頼んでる訳じゃないんだし、少しくらいいいじゃないかと京はじっと勝也を見つめた。
 気兼ねなく自分のの希望が伝えられて、力がありそうで、且つ丈夫そうな友人は勝也しか居ないのだから、ぜひとも希望を聞いて欲しい。
「タクちゃんに……」
「やだ」
 拓也に頼むのが厭な理由は、恥ずかしいのが一番の理由だが、抱きかかえられたら、嘘でも嫌がるふりなんか出来ない。
 ――1回だけだから。堪えてくれ。勝也。すまん。
 京は、心の中で頭を下げた。

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「――で、こうすると重心が後方にかかって、後ろにドテーン行く訳だ」
「うん、解った。……多分」
 勝也から身振り手振りで、大体の形を説明され、京は頭の中で動きをイメージする。
 これなら、なんとかなるかもしれないと思っていると、「なぁ……」と珍しいほど情けない声が聞こえてきた。
「今更ナシってのはダメ」
 ここで逃げられてはたまらないと、京も珍しいほど強く出る。
「……わかったよ……」
 勝也の死にそうな顔の理由が解らない京だが、面倒な事に付き合わせてしまっている申し訳なさを感じつつ、それでも彼を逃がさないようにシャツの袖を掴んだ。
「後ろにマットも敷いたし、お前が仰向けにひっくり返ってもそんなに痛くない様にしたし……」
「いや、そういう心配じゃなくて……もっと、こう……」
「うん。ちゃんとお前の希望通り、拓也さんの前で『お願いする』から」
「京ー……」
 違う、と頭を抱える勝也の後ろに、拓也が見える。
 目が怖い。京には解る。無表情だが、あの顔は怒っている。しかもものすごく怒っている。
 早く終らせてしまおう。京は教えられたとおり、勝也の方へ腕を伸ばしたその時だった。
「あ、そうだ。忘れる所だった」
 大事な事を忘れていたと、京はポンと手を叩く。
「え゛っ!!」
 止める間もあればこそ。京は勝也の首に腕を廻した。
「勝也。だっこ
「京〜〜〜〜〜〜〜〜!」
「京〜〜〜〜〜〜〜〜!」
 ダブルで響く名前。
 ――何故だ勝也……と、拓也さん。
 特に勝也の叫びが理解できずに、京は眉を顰めた。
 ”可愛く”と言われたから、この日の為に苦手な姉にまで相談したのに。そう思うと屈辱に震える。

 『だっこ』って言いながら相手の首に腕を廻して、
 上目遣いの目を少し細めて、ほんのちょーっと首を傾げればOKよ。
 あ、オプションで唇は薄く開けてたほうが尚GOOD!

 嬉々と説明する、姉の声が蘇える。
 一緒に手渡されたグロスというやつの使用用途も良く解らなかったが、自分の『可愛さ』の限界が見えたので、その意見を取りいれてみたのだが、やはり上手くはいかなかったようだ。
「やっぱし気味悪いか? そうだよな、気味悪いよなぁ。 すまんなー。でも、これが俺の限界なんだよ」
「勝也!さっさとやってしまえ!」
 拓也の声が、三人だけの館内に響く。
「わ……わかった。京……いくぞ……はぁ……」
 力の抜けた勝也の声とともに、フワリと身体が浮いた。
「……!」
 背の高い勝也だからというのもあるだろうが、こんな不安定な姿勢はあまり経験が無い。
「大丈夫か?」
 耳元に響く声に我に返り、頷いた。
「これで、腕を、相手の首に廻して……?」
「そう」
「結構顔が近くなるんだな。勝也ならいいけど、あの男だったらちょっとやだな……」
「そりゃそうだ。てゆうか、こんな事態にならないようにしないとヤバイって、マジで。」
「うん、……で、腹筋を使って? ……相手の肩の上を越すように逆上がりの要領で脚を……」
「お、上手い」
 そういいながら、長身が仰向けに倒れてゆく。
「わっ……! 勝也!?」
 事前の説明で解っていても、未経験の動きに驚かずには居られなかったが、勝也は上手くマットの上にひっくり返り、京はなんとか着地に成功していた。
「そうそう! それでOK! うまいじゃーん。そんで走って逃げればカンペキだー」
「勝也ごめん、大丈夫か?」
 仰向けのまま笑う勝也が心配になり、京は慌てて手を伸ばす。
「へーきへーき」
「こんなんで……いいのか?」
「うんうん。上手い上手い!」
「そか。ありがとう勝也」
「いやいやー」
 なんだか可笑しくなって2人でマットの上で笑っていると、拓也怖い顔をして近づいてきた。
「京」
「……?」
「いくぞ」
「え?」
 あれよあれよと肩に担ぎあげられ、京は気付いたら逆さになってた。
 目の前には拓也の背中。
「あれ?」
「勝也、二度目なはいぞ」
 地を這うような声が背中を伝って京にも届く。
「俺だってゴメンだよー」
 拓也怒ってることだけは解った。 でも勝也は笑っていて、京は訳が解らなくなる。
「京はお仕置き。……逃げられないからね」
「えっ? なんで!?」
 
 この日……京は「姫抱き」より逃れられない、完璧な捕獲方法があることを身を持って教えられた。


END

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●後日談●
俺は、毎日学校の送り迎えを拓也さんにされている……。
ちょっと(かなり)……恥ずかしい。
辛うじて勝也が一緒だというのが救いかもしれないけれど。

その後、”姫ダッコ男”が一度目の前に姿を現したが、そういう時に限って偶然にも俺の傍には、拓也さんと勝也。それになんと洋也さんまで揃っていて……気の毒なくらい完全にヤツは迫力負けして去っていった。
もう……俺の前に出てくる事は無くなるだろう……と思う。つか、そう願うばかり。




 

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