SELENE



Mammy



 勝也やクラスメイトの数人で、自分の母親を『ママ』といつごろまで呼んでいたか……なんて話をしていた。
 なんでも勝也のお母さんは、息子達に自分を『ママ』と呼ばせたかったようで、かなり最初の段階から一生懸命教え込んだみたいだったが、なかなか上手く行かず、結局失敗したらしい。
 拓也さんと正也さんが辛うじて成功したという話も聞いたが、それも割と短い期間で終わってしまったという。
 俺も小さい頃は当然みたいに「ママ」と呼んでいて、実は日本に戻るまで『ママ』だった。
 なんでって、別に意味は無い。
 八歳から十一歳までアメリカにいたんだから、こればかりはしょうがないだろう。 向こうで『おかあさん』と言っても通じないのだから。
 さすがにこっちに戻ってからは、その言い方はどうやら変らしいと気が付いて、早々に『父さん』『母さん』になったけど。
 でも、その後も中学の一年以上、アメリカに戻っていたので、実の所俺の頭半分は妙にアッチの人だったりする。
 変な話『ママ』とか、友達の両親なんかを『名前』で呼ぶのも割と平気で、逆にこっちに来たばかりの時は、そのへんの総称の使い方が慣れなくて困った事を思い出す。
 勝也が言う。
「アキちゃんがいまだに『洋也のお母さん』とか『勝也のお母さん』とか言うもんだから、悲しいみたい」
 だから俺は言ってやった。「お前が「ママ」って呼んでやれば?」と。
「嫌だよ。なんでこの歳になって」
 まぁ、その気持ちも分かる。
「俺は割と気にならないけどな……」
「だったらお前が呼んでくれ」
 なんでそうなる。
「はー? 俺が?」
「だって平気なんだろ?」
 それ以前の問題だろうが。
「てか、俺が呼んだら馴れ馴れしすぎないか?」
「そんな事ないって。絶対喜ぶ」
「でも勝也のお母さん美人だからなぁ。ママっていうより名前で呼んだ方が良さそう」
「あー、名前もいいね。喜ぶと思う」
「いいよ。勝也のお母さんが嫌じゃなければ名前で呼んでも」
 そのくらいは全然平気だ。
「おお! 今度ウチ来た時、是非言ってやってくれ!」
 ……なんて話だった訳なのだが。

 そして今、俺は三池家に居る。
 リビングソファに座る俺の隣には拓也さん。そして目の前のシングルソファには勝也。
 ここから見えるキッチンには、四人の息子の母親とはとても思えないほど、若々しくて綺麗な女性、香那子さんがいそいそとお茶を入れてくれている。
 別に意識した訳じゃなかった。
 ああ、次からこう言うんだっけ。なんて思ってたから、特別何も考えないでその言葉は出た。
「香那子さん。手伝います」
 香那子さんは一瞬驚いたような顔をしたが、とても嬉しそうに笑ってくれた。
 でも、その時の拓也さんと勝也の顔は……。…………ちょっとびっくりした。
 まぁ、初めて見た顔という事で。
 俺と香那子さんだけの秘密にしておこう。

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 昼下がり……。
 京が来てから、母がにこにこしてお茶の用意をしていた。
 僕達がお茶を頼んでも、あんなには楽しそうに用意はしてくれないと言うのに。
 実は、僕達兄弟はみんな、この母親に頭が上がらない。
 世間の普通の母親と照らし合わせてみて、こんなにも子供達に愛情を注ぎ、それを当然として見返りなど求めず、息子達を信頼し、自由を与えてくれる親はいないのだと、知っているから……。
 口では「変わってるよ、母さんって」という言葉に置き換えてしまうのだけれど。
 京がいつしか、勝也から僕の『客』となっても、特別驚いたりはしなかった。
 『あら、そうなの』と言っただけだった。
 まるで、元から京が兄弟の中にいたように接してくれている。
 秋良さんに対しても、崇志さんに対しても、それは変わっていない。勝也の好きな相手にも薄々気がついているようで、それでも何も言わなかった。
 私は、みんなが結婚しても、パパと生きていくつもりだったもの、元から。
 その言葉が、僕達の後ろめたさを消してくれた。
 孝行なんてしなくていいわよ。幸せな顔を見せてくれることが、1番の孝行なのよ。申し訳ないと思うより、特別幸せだと言うようになって。
 そんなことを言える親は、二人といないと思って、感謝している。
 でも、私の失敗は、『ママ』って呼んでくれる可愛い系の子供を産まなかったことねー。
 小学生の高学年になるまで、僕と正也は、母親のことをママと呼んでいた。同級生に、女みたいな顔だから、ママって呼ぶのかと言われて以来、そう呼ばなくなった。そのときの母の顔が今まで見た中で、1番悲しそうだという記憶があるくらいだ。
 そんなことを考えていたときだった。
「香那子さん、手伝います」
 京がそう言って立ちあがった。
 僕は驚いて手に持っていた雑誌をポロリと落としてしまった。
 勝也は食べかけのクッキーを喉に詰まらせて、ごほごほいっている。
 母もちょっとばかり驚いた顔をして、けれど次の瞬間、この上もなく嬉しそうな顔をした。お気に入りの京に名前で呼んでもらえて、かなりご満悦らしい。
「お願いね」
 そんな声も弾んでいる。
 ふと、勝也を見ると、上目遣いで僕を見ていた。
「お前か……」
 つい呟くと、勝也は首を横に振る。
 お前以外に誰がいる。きつい目で睨むと、視線を外した。それ見たことかと思う。
「お待たせ」
 母さんと京がお茶とお茶菓子を運んできてくれた。
 そして、僕や勝也を無視して、楽しそうに話している。
 これでは……、なかなか立つきっかけが掴めない。
 映画の時間まではまだ少しあるし、京の珍しく子供っぽい穏やかな顔と、母親の楽しそうな笑顔と、両方を眺めていようか。
 平和な昼下がり。僕はテーブルの下で勝也の脛を蹴り、ささやかな報酬……、もとい、お礼を返したのだった。


 

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