SELENE

 

<jellyfish>



 暗い夜の海に潜る。


 日本に戻ってきてから、水質調査をしている年上の友人に誘われて、海に潜り始めて何度目になるだろう。

 ライセンスを取る為に、初めて夜の海に潜った時は、はっきり言って怖かった。
 今よりもずっと子供だった事もあるだろうが、海坊主でも居るんじゃ無いかと馬鹿なことを本気で考えてしまうほど、得体の知れないものが潜んでいそうな夜の海。
 強大な力で迫り来る波が、うねりを起し自分の体に巻きつき、どこかに攫っていってしまうのではないかという本能的な恐怖。
 太陽に照らされ、凡庸なまでに様々なものを受け入れる昼間とは、まったく違う孤高の顔を見せる海。
 圧倒的な存在感を見せ付けながら、誰も近寄せない。そんな拒絶を放つ場所。

 でも……。

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 ドライスーツに身を包み、装備の再点検を済ませた。
 レギュを口に含むと、肺に圧縮された空気が強引に送り込まれ、馴れた気分を高揚させる。
 合図と共にバーディと視線でタイミングをあわせ、船上のダイバーが次々と海へと潜り込んだ。
 ライトに導かれ、ポイントへと向かう。
 ボンベから送り込まれる空気の音と、吐き出す泡の音だけが自分の耳に響き、前後に人が見えているにもかかわらず、奇妙な孤独に包まれる。
 ライトで照らさなければ行き先も分からない、人間の居るべき場所ではない世界。
 先導者が目的地に着いたことを知らせる。
 今夜の目的は無人の離島の傍。比較的浅い場所でウニの幼生のカウント。
 地味で気の遠くなるような作業だが、俺は意外とそういう事が気にならない。ルーチンワークはコンピューターを相手にしているようで、なんとなく向いているのだ。
 ある一定範囲の担当区域を指示され、作業に取り掛かる。
 プロのダイバーになる気は無いのだが、年の割りに潜る回数が多く、勧められるがままライセンスのランクも上げているので、こんなバイトの話が時々舞い込む。
 別に金が欲しくてやっている訳じゃない。
 夜の海に潜りたい。真面目にキャリアをつんでいる人たちには申し訳ないが、ただそれだけだ。

 黙々と幼生をカウントし、自分の担当区域を終わらせる。
 計器を見ると、まだ空気に充分な余裕がある。
 周りを見ると、すでに終わっている人も居るようだ。
 そろそろ良いかもしれない。
 ヘッドライトを消し、俺の位置を知らせる腰のスモールライトだけを灯した。
 途端に全身が暗闇に包まれる。
 瞼を閉じ、明るさに慣れた目を暗闇に馴染むまで塞いでおく。

 静かな……、静かな時間。
 そっと目を開くと、そこには満天の星空。
 夜の海に瞬く星。
 それは波に靡く夜光虫。
 腕を持ち上げる。
 それだけで夜光虫は一層強く光りながら波を打つ。
 まるで天女の羽衣のようだ。
 これが見たかった。
 これを見る為に夜の海に潜る。
「あ……」
 jellyfish……クラゲ、……水クラゲだ。
 繊細な触手が水を撫でながらゆっくりと頭上を移動してゆく。
 その微かな刺激に夜光虫が反応し、まるで光を撒き散らしながら進んでいく幻の船のように見えた。
 誰にも見られる事なんて考えていない、無欲の美しさ。
 なんて奇麗なんだろう。
 清廉すぎて、切なくて、涙が出た。
 ゆっくりとゆっくりと何処かへ向かうクラゲを視線で追いながら、俺は忘れられない人の横顔を思い浮かべる。
 あの人は夜の海のようだ。
 遠く見て憧れ、無邪気に近寄れば多分微笑んで迎え入れてくれるだろう。
 それはまるで明るく眩しい昼の海のように。
 でも、漠然と感じるのは、あの人の望み。
 あの人の「本当」を知るには、何かを知らなければいけない気がする。
 本当に望んでいる何かを。
 夜の海に潜らなければ、海の優しさと美しさに気付かない様に。
 彼にもそういうものがあるのだろうか。
 俺に、それが解るだろうか……。

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好き。
なのかもしれない。

たった一度すれ違っただけの、あの人を。

好き。
なのだ。

友人の兄であるあの人を。
でなければ、何故こんなにも忘れられない。
今抱くこの想いは、多分愚かなものなのだろう。
証拠に未来永劫伝える時が来るとは思えない。

だけど……、あの人を想っていても良いだろうか。
誰にも言わないから。
お願い。
想うことだけは許して欲しい。


あの人は……。
あの人の空気は……。

夜の海。

俺を呼んでやまない海の優しさ。



END






 

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